霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「はい!こちら110番」

2014年07月25日 | 心霊現象
今日は少し変わった視点から、この世の中を見てみたいと思って書いています。

今日の「題目」は読んで字のごとし。
私は夜も更けたころ「110番」をまわす。
街道沿いに建つマンションに越してから、40年近く経つ。
交通事故多発地点の「ここ」は、たいがい私は通報人になった。
それが最初であれば、第一通報者(人)となる。
交通事故はその「音」で目が覚める。
夜中でも飛び起きて、表の道路に目をやる。
その時の私は、○○交番の分室のような使命感さえ覚えてすかさず第一報を入れる。
人が道路で横たわり動かないのを見てとって、私は「119番」をダイヤルする。
『火事ですか、事故ですか?』とまず最初に聞かれる。
その両方の場合もあった。



慣れとはやっかいでもあり、恐ろしくもある。
夜11時過ぎ、私は「怒鳴り合う声」で目が覚めた。
小さい駅ながらも一応繁華街である。その界隈は何かと「事件や事故」が多い。
人が集まるところは何かと「きな臭い」のは、どこも同じなのだろう。
6階に住む私は、外を見下ろす。
丁度目の下で「それ」が繰り広げられていた。
男二人で怒鳴り合い、殴り合い?・・・。
歩道に横倒しになった「警邏(けいら)」のおまわりさんの自転車が見えた。
ん?、一人はお巡りさんか?。警察官を殴るとなるとこれはりっぱな「犯罪」である。
つまり「現行犯」であり「公務執行妨害」である。
その二人を遠巻きに見て、逃げるように立ち去る女性たち。さらに駅から出てきて家路へと急ぐサラリーマンは、「ちら見」するだけで逃げるように路地へと消えていく。
しばらく二人の怒鳴り合いや殴り合いを見て、時計をのぞき帰っていく者もいる。(見世物じゃないぞ)
いったいこの「目撃者」の中の何人が、通報しているのだろうか、110番へ・・・。
私は5分間はしっかりと観察した。しかしどう見ても「警邏中のおまわりさん」が危ない。
とうとう私は携帯をカバンから出して通報。
「もうすでに幾つか連絡が入っているでしょうが・・・」と前置きして通報する。
時間、場所、状況。そして自分の身分。
これだけの時間が経っているにもかかわらず、私が「第一通報人」だった。
「うそでしょう?、だってもうすでに前から怒鳴り合い、殴られ、二人が街道の真ん中まで出て来て
、行き交う車がそれを除けて通っていくという有様なのに。見ている人だって多いのに誰もまだ連絡してくれないの?・・・」
『あっ、今数件立て続けに入ってきました。了解です。パトカーも出動しました。お名前は、匿名が希望ですか?』だって。
「とんでもない、実名で結構です」と、私は名前と住所と電話番号を伝えて終わりにした。
『これから実際に見たことをお聞きできませんか?伺いますので・・・』という申し出は、さすがに次の日の仕事を考えてご辞退した。

しばらくすると、けたたましいサイレンの音と一緒にパトカーが二台、それに救急車、警邏中のお巡りさんが5,6名駆けつけていた。
小太りの「マッチョな若い男」は、私が見降ろすところで現行犯で捕まった。

若そうなお巡りさんは、大分殴られたとみたが決して自分からは手を出すことはなかった。
彼がその実力を行使したのは、街道に二人が出てもみあいになり、行き交う車がそれを除けて通るという危険な時だけ、ありったけの力で「マッチョ男」を引きずって歩道にもどした時だけだった。
パンチを顔と体にいくつかもらっても、彼は相手を殴りはしなかった。
いつか、もし聞かれることがあったら、「それ」だけは彼のために証言してあげようと思ってその日は眠りについた。

翌日、仕事のさ中に携帯に着信があった。
「高島平警察」とある。といっても電話番号だけだ。
家に帰って「何事か?」と聞いてみた。
『一部始終をご覧になっていたのですか?。もしそうでしたら何で言い合いになり怒鳴り合いになり、殴ってきたのか・・・。多分に最初の「事の発端」が問題でして。目撃者もなくはっきりしないんですよねぇ。見ておられたなら、そこんところを是非・・・』
「私とてね、怒鳴り合う声で起こされて、下を見ただけですから出発(発端)はわかりません。ただね怒鳴る言葉でこんなこと言ってましたよ。おれのを壊しやがって、直せよ!てめぇがやったんだろうが!なんて内容でね。
そうそう、これだけは言っておきますがねお巡りさんはね、私が見ている限り手を挙げてはいません。
殴られっぱなしでした。顔なんか腫れてなかったですか、可哀そうに。でもあのマッチョ男も蹴りはしなかった。殴るだけ」
その後、電話の向こうで聞いている刑事という人にこう言っておいた。
「警察が来るのって、案外遅いんですねェ。何もたもたしてんですか。最も通報が遅かったと言われれば何も言えないけど・・・」
『いえね、そんなに遅れて行ってないと思うんですがねぇ。5分はかかっていますが、速いほうですよ。
それにね、実はあなたが第一通報者、つまりその間誰も通報してくれなかったということです。
見て通り過ぎた人は多かったのに、目の前に警察官が殴られているのに・・・』
「それよそれ。今の日本はそんなになちゃったんですかねぇ」
『ま、関わりたくないという人が多くなったのは確かです。他人にはあまり関心がないというか・・・』


その後、また何か思い出したら教えてほしいと置き電話の番号や生年月日などを聞かれたりして電話を切りました。
「警察の電話は、掛けている相手の番号は記録されているんでしょう?」と聞くと・・・。
『いやぁねぇ、この警察署は古いもんでして、そういう最新の機器にはなっていないんですよ~」だって。
本当でしょうかねぇ。もし本当ならなんとかしてくださいな、古いままでは問題ですねぇ。


事件がどのように始まり、どのように終結するかは知りません。
しかし、今の日本の世情が「他人に無関心」ということは、今後いろんな意味からも問題になることでしょう。

一時のほんの降ってわいたような「目撃劇」が、今の日本を知り、今後の日本を憂うる材料になろうとは・・・。

さっきTV番組でみた「拉致被害者」のこと。
あのとき「見たこと」を喋らなかった人が、今ここへきてようやく明かし始めた。
「もっと早く、言っておけばよかった・・・」と4,50年の年月を経てようやく真実を、そう目撃した事を話し始める。
そして拉致の経緯がようやく鮮明に浮き上がってくる。
真実は一つ。
それをあぶり出してこその歴史認識であり、人類の一致であり、地球一家族と謳う見果てぬ夢も実現可能になるというもの。(話が大きくなってきました)

さあ、歴史の目撃者の「あなた」。
「今の真実」を語れるのは「あなた」なのですから・・・。



「本当の親子」って何?

2014年07月18日 | 心霊現象
前にも書きましたので、「再びの・・・」と書くほうが当たっているかもしれません。
親子関係あるいは「親子」の意味に、本当もウソもないでしょうが。
いえね、いま丁度先般最高裁で決定された「親子」に対して、またまた物議をかもしていることから、再び「親子」を検証しょうかと・・・。


この宇宙にある「真理」の中で、何が真理か・・・、と神に聞いたら。
『宇宙の真理とは親子である。神と人間が親子の関係である、それが真理だ』と、答えが返ってきたそうです。
さて、ではこの「親子」(親子関係)って何を言い、どんな関係を言うの?・・・。
「正しい親子関係」を誕生から通過した人にとっては、説明することすら意味のないことでしょう。
そう、あなたが通ってきた「あの関係」が、親であり子であった関係そのものなのですよ~。
・・・、とそう言われて分からない人。そこが問題なのです。
産みの母を「毒母」と呼ぶあなた。母を殺し、遺体をノコギリで刻むあなた。
父の年金で生き延びるため、ミイラと化した父を押入れに押し込んで過ごしたあなた。

今、「親子」の関係が危ぶまれ、ともすればその意味すら薄れ始めている。
人間の歴史をひも解けば、神代の昔から「それ」が崩れ始めた記実が載っている。
古事記もそうであれば、聖書もそうだ。
長いこの人類歴史の出発と終着点は「その親子関係」を修復するために流れてきた、と言っても過言ではない。
そして「今」、最高裁でさえも「その結論」には二手に分かれるほど難問の様子がうかがえる。
この度最高裁で出された「結論」は、5人の裁判官の2名が反対、つまり異議を唱えたという。
「血のつながりのない」親子関係を、親子として認められないと・・・。
現代科学の最高峰「DNA鑑定」では明らかに「他人」を示す。つまり「血のつながりはない!」と。
しかし「情」のつながりをもって、「親子」と認定した。

天国とは、あるいは「神の国」とは、肉体と精神が合致したところでもたらされる至福の愛あふれる世界をいう。
そのダンからいえば、今回の最高裁の結果はどっち転んでも「正しい結果」は出せない。
いくらかはましな結果は、血が証明する「親子関係」で一応の納得を促すというものがせいぜいのところだろうが、それとて全ての大満足は得られるはずがない。
「あっちを立てれば、こっちが立たず」・・・。
ではどっちを立てればいいのか?・・・。
親子関係の真理性から言えば、神の原理原則つまり「天法」を立ててこそ「あの世」に則るというものであろう。
しかし、この世の者たちは「それ」で納得しないのも分かりきっている。
挙句(あげく)TVのコメンテーターの中には、こんなことを言う者さえ現れる。
「今の親子関係は、もう時代にそぐわないのですよ。15歳以上になったら子供に選ばせるとか、今後の課題でしょう」
「親子と決めたことが違っていても<不幸>とは限らない。幸せである実例もあることだし・・・」と暗に人間の選択をほのめかす。

結果、この番組では「何がこの子の為になるのか?」を検証して今後にあたればいいと結論づける。


はい、りっぱな結論が出ました。
では「何がこの子の為になる」のでしょう。
今まで育って積み上げた「情」か、それとも経済的安定か、それとも・・・・。
では私が皆様に質問します。
この子(女の子)は、死んだらどこへ行くんですかねぇ?
霊界という永遠の世界において、どこへ行くというのでしょうか・・・。
私が「あの世」できっと聞くでしょう。
「おまえは何者であるか。さらにおまえはどこから来て、どこへ行くのだ?」・・・とね。
地獄の門番としての私なら、当然聞く内容です。
さらに守護霊は「どこの誰」がつくとお思いか?・・・。
血統書といえばペットのようで嫌だといわれるなら、過去帳はどのようにして「この子」の名前を書き込むのでしょうか?・・・。
霊界の入り口で誰が待っているとお思いか?。
まだまだあるがこのへんにして・・・。


『天下晴れて、親子になった』・・・と、喜ぶ親子?に水を差したくはないが。
本当に天下晴れたんでしょうかねぇ。少なからず天法に反している以上天下晴れてはいません。
神の前に出るという最後のステージ、あるいは秤に乗る時。
「裁判の差し戻し」がないとは限らない。いやきっとある。
最高裁に「まった!」をかける最後の審判。
それが神であり、天法であり真理であり、霊界の法則であり・・・。
人間の勝手、言い分が許される範囲はここまででしょう。


なぜ神がこうもして「血統」にこだわるかは、前にも書いた通りです。
それがいい加減にされたり無視されたり、どうでもよかったら聖書は単なる作文であり「物語」の域を脱しません。信じてもいいし、無視してもいい。
神も信じてもいいし、無視してもいい。
つまり「趣味」の域でしかない。人生を、さらに生死を左右するなどというたいそうな代物ではなくなる。あの世も怖れることはない。自由にやりたい放題、刹那的に生きればいい。
人生なんてそんなものさ、くそったれ!・・・。
(しかし、人の心は決して楽しくも喜ばしくも誉れもないことを知っている)



さあ、この先どうなるんでしょう。
あなたに申し上げる。
「あなたは、親に何をもって親として今日まで生きてきましたか?」。
あなたにとって親とはいかなるものであったか、またどうあってほしかったのか?・・・。
考えたことさえないとしたら、今ここで私が提示した質問を深く考えてみてくださいね。
これって、あの世で私が二つ目の質問としてきっと聞くことになるでしょうから・・・。

もう一つの見方がある。
「メシア」をこの世に産みだすためには、どうしても「神の血統」をもつ者でなければならない。
つまりエデンの園のあの「アダム」の血統である。それをもって「神の子」とした。
しかし現代においては「救いの血統」つまり「霊的血統」となる。
イエスの子供以外は救われないとすれば、結果的に限られる人数しか救われない。
実の子が100人などあり得ない人間の生理条件であれば、一夫一婦制の範囲内での実子の数はしれたもの。
もしもイエスの実子がこの世に出現したとしょう。
そうだ、もし十字架に架かって死ななかったら、という「たら・れば」の話だ。
その子供がさらに成人して家庭をなす。さらに孫の家庭、ひ孫の家庭、玄孫(やしゃご)の家庭・・・、とイエスの血統は絶え間なく続く。
そして世界が入り混じり、混血もいいだろう。
しかし血統と精神は確実に受け継がれ、時がくれば確実に「イエスを中心とした神の国」がこの世に出現する、という復帰摂理のプログラムが目に見えてくる。
つまり今風に言えば、神の国のビジュアル的様相がこの世に表れ始め、見え隠れする時代を迎える。
「観なければわからない。味わわなければ分からない」
神の国を見、その体で味わい、心さえも味わいつくして霊界へ旅立っていく。
もはや死は恐怖ではない。行きたくて行きたくて待ちわびるものが霊界行きとなる。
その先には、まだ味わい尽くしていない未知の歓びが待っている。
一つのものを永遠に見続け、味わい続けても飽き足らない・・・、そんな至福の世界。
そんなところが本来の霊界の生活模様だといわれても・・・、実際体験したことのない者には絵に描いた餅でしかない。
しかし、イエスの霊的子供になれば、救われると説く宗教「キリスト教」は、血統ではなく精神面において子供のようになって地上を生き霊界へいく。
当然見る世界は違う。下世話なこの世を信仰で生きた分だけ、イエスに近いものが見える。
それをもって「パラダイス」と呼んだ。人類救いの第一の領域(圏内)である。


身も心も「神の子」になることは・・・、出来る。
が、時間と方法手段に手がかかることは当然である。
しかしやらなければ、人類はいつまでも「絵に描いた餅」を見続けながら暮らすしかない。
今の「わたし」は、残念ながらもう間に合わない。
いつかきっと来るであろうその日を、遠い将来とするか近い将来とするかは、一人一人の心根に掛かっている。
宗教をやれともいわないし、経典を読めともいわない。
しかし思ったが「吉日」。
天から声がしたら、ひらめいたら、行動に移してほしい。
そうして「あなたの第一歩」を出発されることを心から願ってやみません。
神が親であり、「わたし」はその子であるという絶対的真理。
「わたし」は「天上天我唯我独尊」という宇宙からみた絶対的真理。
我はわれ一人の命にあらず、肉体にあらず。こう唱えた誰かさんの言葉。(誰かは失念した)

江戸末期、伊能忠敬という一人の隠居じいさまが志した「幕府天文方」という仕事の奥に、「宇宙からみたわたしの位置」を探るという伏線があったことを知るとき、「人」はみな同じなんだとしみじみ思います。
今日もまた「耳にタコ」でしたね。
みなさまの今後に期待して、このへんで筆を置きます。


「わたし」が神の子であると知る日まで、親を訪ねて何千里歩けばいいんでしょうねぇ~。

絶句!

2014年07月17日 | 心霊現象
今日は「ぜっく」。つまり次の言葉が出てこないこと。
つまり次に言うべき言葉を失う、ということです。
急に耳が聞こえなくなったわけでもない。
言語障害を起こして、口から言葉が出なくなったわけでもない。
つまり一瞬、私は「ショック状態」を起こし「二の句」が継げなかったということでしょうか・・・。
そんなことを、今日はお話いたしましょう。

「これ」は本当に現実起こっていることなのだろうか?・・・、としばらく考えた。
しかし確かに私の「この耳」は今聞いたばかりだし、それから時間とて経ってはいない。
「今」現実「ここ」で起こったのだ・・・。



「すみません!。あの方<そそうして>(専門用語では失禁という)上着まで濡れています。着替えするの一緒に手伝っていただけませんか?」と同僚に言う私。
『だってわたし、そんなことするために「ここ」へきたわけじゃないから~・・・』
「私がやりますから。からだの位置を動かないように押さえていてもらうだけですから・・・」
『・・・、やったことないもん・・・』

あなたは「ここ」へ何をしに毎日働きに来ているのでしょうか?。
介護の施設に来て、「そんなこと」するために来たんじゃないって?、普通聞かれない言葉だ。
あなたのいう「ヘルパー」とは、何をするのが仕事なんでしょうねぇ・・・。
私は絶句し、二の句が継げず、それこそ口を開けたまま「あほずら」して固まっていたのでした。
きっと私は「聞き違えた」のだ。
そうあってほしいと、今でも思っている。



『ねえみんな!。ここが楽だなんて言ったらダメだからね。
 移動がきたらわたしたち大変なことになるんだから~。
 このままで、みんなで変わりなくすごすなら、絶対にここが楽だなんて言っちゃダメよぅ。
 他の場所へいったら勤まらないでしょ。今後楽という言葉は禁句だからね。
 みんなで心を合わせてがんばりましょ・・・いつまでも、このままで・・・』

あなたは「ここ」へ何をしに毎日来ているのでしょうか?
介護の施設に来て、より楽を探して働くのでしょうか?。


「移動」にだけはなりたくない!・・・、と言う「あなた」。
会社組織はね、時として「それ」を免れえないときがあるの。
どうしょうもなく「上の命令」を受けざるをえない時があるのよ。
仕事にも慣れ、同僚とも仲良く、上司の覚えもめでたくなった今、居心地は最高だ。
もう「ここ」に居続けたい!と、普通誰でもが思う。
しかしね、次が待っている、「あなた」をね。
もう「そこ」では成長しないと見てとった「霊界」がね、次の場を用意して仕組み替えをして待ってくれている。
なのに「それ」を受け入れない?。そして居心地のいい「ここ」でいい・・・と。
「移動がきたら、やめる。他は嫌だもん・・・」という者よ。
なんと年寄じみた精神状態か!。
あなたが高齢者だというのなら、許されるかもしれない。
散々苦労をし、がんばり、成長しょうと努力し、その真似事をしてきただろうから。
しかし20歳代の若さで、ここがいい?・・・。

「さとり時代」って、こんな若者をいうんですかねぇ~。
この歳になって初めて「こんなこと言う若者」を見たもんですから、びっくりしましてね。
昔の日本人は、こんな人いなかったように思いますよ。


じゃあ聞きますけど、「私」はいったい何なんですかねぇ。移動を受け入れ一応の努力をしょうと、自分なりにやっている。
変わり者?・・・、確かに「そう」言ってしまえばそれまでですが。
私の心の中では「異邦人」を見た思いがいたしました。
異星人と言ってもいいくらい、驚きました。
TVコマーシャルで、ほほえましい宇宙人の台詞が面白いものがありますよね。
「この不思議な星の、どうしょうもない生き物たちは、それでもどこか愛せるよ~」といったスタンスが私達を笑わせるという「あれ」です。



そうそう今思い出した事が。
一瞬ひらめきましたから、きっと「あの世」からのお達しでしょう。
「あなた」が成長した分に応じて、相手(結婚、会社、立場等々)が仕組まれるというもの。
霊界は「あなたの成長(多分に心の成長)・つまり度量(器)」を見てとって、次の段階へと仕組みます。
だから同じ場所にいつまでも居続けるということは、霊界的にみれば、つまり先祖の目からみれば、まだまだ「足りない」ということ。
どんどん、目まぐるしく次が来る。あるいは立場が代わるということは、「今、その時」は分からないけれど後になってようやく「合点がいく」ことになるのです。



さあ、若い皆様は特に「あの世」に一時身を任せて「自分の成長ぶり」をみてみようではありませんか。

むしろ同じ「絶句」なら、その見事さにこの私をしばし「絶句」させてくださいませ!・・・。
そんな「あなた」に喝采を送りたい「私」でもあります。



「看取り」から「おくりびと」へ

2014年07月10日 | 心霊現象
「看取る」とは最期を「みとる」ことを言う。
病に伏せる者を、最後にみとることから「看取る」となったのだろうが、「見取る」とも出ている。
介護の仕事はここまでが想定内、つまり仕事の範囲になる。


寝ずの番、つまり夜勤を終えて帰ってきました。
そしてさらに加えて言うならば「看取り」をしての夜勤でもありました。
「人の死に立ち会う」という経験も初めてのことであれば、それが職業の一環でもあるのはめったにないことだろうに・・・。
よりによって、そうこの私がそれに当たったのです。
介護施設の今後の方針として「看取り」もやりますからと、さっそくに入居した人の最期の時が今せまっていた。
ガンの末期。手術を止め、延命処置も止めて「自然のままに」最期を迎えられるようにという家族の要望もあって、「その時まで」を施設ですごしてもらうことになった。
いつか来る「その時」。つまり「死の時」に立ち会うのは誰か?・・・。
スタッフが不安に募(か)られながら日々が過ぎてゆく。
「きっとわたしではない!」そう思い込むことで月日が流れていく。
「もう、そう遠い日ではない」と医師が告げて帰る。
夜勤者が指折りながら、「自分には当たらないこと」を祈る。
そして「その日」が来た。
家族も帰り、医者も帰った「その日」。そしてその夜、「かの御仁」は一人ぼっちで息を引き取った。


私は父の死に目にも、母の死に目にも会っていない。
私を可愛がった祖母でさえ、その死に目には会えなかった。
だから「今わの際」に人がどうなるのかは、本当のところよく分かってはいない。
ただ一度だけ、4歳か5歳の頃母方の父が亡くなるのを死の寸前まで見守っていたことがある。
いや、見守っていた母と一緒にいた、と言ったほうが合っている。
鼻をふくらませ、ぜーぜーと荒い息に次第になっていく・・・、と。
家族が呼ばれ、周りを取り囲む。
そうして私は「人の死」を、子供ながらに認識したものだ。

息遣いが粗くなった。夜の8時すぎだ。
私は声をかけながら、もうそう永くはないことを察知する。
死んだわけではないが、今夜には亡くなるかもしれないと責任者(管理者)へ通報する。
最期の看取り人となった私は、覚悟を決めた。
部屋に塩をまいた。
そしてまだ聞こえるであろう「御仁」に、祈りを捧げる。
さらにこの場に居合わせた霊たちに、今後のことを託した。
が、出来る範囲の指示を出す事は忘れていない。
つまり「ここから」が、「おくりびと」となる。
『さあ、この方の魂をしかるべきところへとお送りせよ!。しかるべきところへと、あないせよ!』
・・・、と。
(この方の魂をしかるべきところへと、案内しなさい!、ということである)
これが何を意味しているのかは、皆さまであれば充分ご承知のことであろうが、最初のものには分かるまい。
塩をまいて、部屋におる霊達を「分別」した。
悪なる霊は立ち去れ、出てゆけ!・・・、と。
一族それも霊格の高い者たちを呼んだ。守護霊はもちろんいるだろうが、さらに高い霊の人達をこそ呼び込む必要がある。
87歳という長い肉体生活が、今終わる。身内は誰もいない。
他人の私が一人部屋にいるだけだ。
「寂しいか?、それに恨めしいか?・・・」。
しかし私は心のどこかで思っている。「よくぞこの私を選んだものよ~」と。
これから祈る「私の祈り」は、あの世への架け橋となって「あなた」の目の前に現れる。
さらにそこには「懐かしい人」あるいは「神々しい人」が幾人か現れるであろう。
あなたの魂が一番望む「その人」について行けばいい。
虹のように現れた「架け橋」は、あなたが渡りきるまではそこにあるが、渡ったあとから消えていく。
まさしく虹のようなもの。
その間決して振り向かず、ひたすら前のみをみて渡り切りなさいと、私は教える。
これが肉界と霊界を分ける、これからの「あなた」の魂が生きる場所になる、と教え諭す。
さらに道に迷うことがあれば「わたし」を呼びなさい、いえ私の名前を告げなさいと伝えた。
いかなる縁により、こうなったかは知らない。
が、無縁であるならば「こう」はならなかったことを告げながら、私は「御仁」の魂を送ったのでした。
その後は肉体あっての「この世」のこと。
家族や医者や葬儀屋が、入れ代わり立ち代わりでやってきた。
「旅立つもの」にとっては下世話な浮世のことなぞ、もう知らなくてもいい。
葬式がどのランクで執り行われようと、何人集まろうと、「あなた」の魂とは何の関係もない。
『しかるべきところへ、とっととお行きなさい!。それが今後のあなたの勤めである』と、私はその方の尻を押し続けた。(もう行ったか・・・)
ゆめゆめ「この世を覗きにくるんではありませんぞ!」と、ご忠告申し上げながら一連の作業を終えた次第です。

介護とは何か?・・・。
これからは(いままでも)「看取り」であり「おくりび」とであらねばならない。
介護とは必ずこの二つが「最期の砦」となることの用意と覚悟を、今からでも遅くはない「準備せよ」ということだ。


蛇足になる。
私がしたことが他にもある。それが法にふれるかどうかは分からない。
一つは死を確認した時、時間を見た。これは誰もがやる行為だろう。
次は「前にいた施設の友がやった同じ場面に出くわした時にとった行為」であった。
つまり、遺体を汚い糞尿のままではなく、きれいに清拭し、洗濯のすんだ衣類に着かえておく、という行為である。
さらに両手を組ませればまだいいのかもしれない・・・。
どんどん体の温度が下がって、冷たくなっていくのが分かる。
いずれ衣類の着脱さえ難しくなるだろう。今のうちにやっちゃえ・・・、と。
重ささえ感じる「遺体」と格闘しながら、きれいにした。(つもりである)

あとでこう言われた。
「ご遺体は、そのままですよね。動かしていませんね」・・・。
「えっ、そうなの?」・・・。
「おむつ捨ててませんよね、どんな便か、尿も見たら分かるように保存しておいて・・・」
「えっ、そうなの?(汚物入れにもうはいってますけど・・・)」

しかし、医者が来てからはおかまいなしとなり、ほっとしました。
きっと警察が来なかった分、穏便にことがすすんだのでは・・・、と思っています。
えっ、天の計らい?・・・、そうです!そうです!。
終わりよければ全てよし!。


こんな一日が過ぎていきました。
6月から気になっていたことが、このようにして急ぎ早やに過ぎていきます。

朝早めに出社した管理者は、栄養剤を私に「飲んでね」と渡しながら、こう言いました。
「○○さんは、きっとあなたの夜勤を選んだのねぇ~」・・・、と。
そして「こう」も。
「年齢が近いことって、とても大切なこと。寄り添うってそんなことよねぇ」ですと。
これって、年寄は年寄同士ってこと?・・・。
(栄養剤にむせる私でございました)




童話が私に教えること(「その期間」私のとった行動とは)

2014年07月05日 | 心霊現象
昨日の続きのようでもあり、「条件の立て方」と言ってもいい内容です。
また、「あなたなら、どうする?」という謎かけでもありましょうか?・・・。

「その期間」とは、「こと」が起こるまでの間をいい、願掛けであれば「満願の日」までの日数をいいます。
大抵は「21日」であったり「100日」であったり・・・。
霊界の数字(期間)をすでにご存じの皆様には、「21」「40」「12(120)」等が思い出されることでしょう。

今回の「地雷炸裂」の日に関していえば、私にも「その日」は分かりませんでしたから、一応の目安として目標にしたのが、『平成26年6月26日』という「6繋ぎの日」でした。
つまり『サタン数』の一番強力な日という意味をもっている「危険な日」を目標にした、ということです。
幸か不幸か「当たった」というわけで・・・。


「その日」まで、私がとった一つの行動が「沈黙」だったということは前回に書きましたね。
もし、もしもですよ。
「事が起こるその日」まで、逐一誰かまわず私が「つらい」だの「おかしい」だの「何とかして」だの「もうやってらんねぇよ~」だのと、他人に話をしていたらどうなったでしょうね。
「霊界の仕組み」なぞ無かったでしょう。
受ける傷を最小限にし、皆が無事でまーるく治まる方法。
これが、まず第一段階で仕組まれる「仕組み」であることを知らなければなりません。
聖書からは、「モーセ」の出エジプトの記録をみて、三段階の教訓を自分のものにせよ!と訓示しています。(神の最初の計画は、彼らは砂漠を越えて21日間で目標に辿りつけたのに・・・)
結果、失敗続きつまり不信仰の極みに至り、400年を費やしてしまった。
もしも「神の復帰摂理の最短距離」というものがあるとしたら、最も厳しい道を、無言で耐えるという「その道」しかない。

同じ?あるいは似たようなことが、「童話」にも書いてある。
「イソップ」か「アンデルセン」かは忘れたが・・・。
「白鳥になった王子」の話に出てくる。
兄たちにかけられた魔法を解くために「妹(姫)」がやったことは、茨から紡ぐ糸で編む「チョッキ」制作とそして「沈黙」だった。
11枚つくらねばならないその間の沈黙と、茨を紡ぐ血だらけの作業。
「与えられた期間」という時間もどんどん過ぎてゆく。眠る間もない。
「王座」を狙った魔女との闘いが書いてある。
これを単なる「童話」と読み過ごした「私達の誤算」が、ここにある。
童話作家は、時として「神がかり」になる。
魔女というサタンを通して、その手のうちを「明かして」くれている。
沈黙を守りながらも、「来る日」に間に合わせるように「作業」は怠ってはならない。
この鉄則(作戦)を守り、満たしさえすれば「サタン」あるいは「魔界」に勝てる。
最後の瞬間は「魔女狩り」の処刑の場だった。
火刑台に火がつけられる。燃え上がる火の中で、煙にむせながら最後の一枚を編み続ける・・・。

この童話が、私に教えようとする「隠れたヒント」を一つ残らず拾い出した。
そして「いつ」までに「何を」どうして「揃えれば」勝てるのかをはじき出すのだ。
その結果がこれだった。
一つはいっさい誰にも語らない。(魔女が言った言葉だ)
二つは「事が起こるその瞬間」まで、祈ること。(日々の祈りで霊界も神も聞いている)
さらに祈りは自分の「霊性」を研ぎ澄ます最善の策でもある。(見えない道が見えてくる)
さらに日々の「善と悪の玉入れ」を分別できる。(何をすれば神への捧げものになるのか・・・)
仕事は自分で分かった分だけは充分にやる。(言葉や会話は最小限でもいい)
「挨拶」は相手を待たない。反応はこなくていい。自分の心が納得すればいい。だから自分から進んでやる。
仏頂面(ぶっちょうずら)よりは笑顔がいい。それも出来れば「満願の笑み」がいい。
声も明るく大きいほうがいい。服装も明るいほうがいい。
まだまだある。考えられるだけの「私の外形」を考え実行した。
それが私を守る「肉的バリケード」として、次へと繋がっていくはずだ。
暗ければ、「暗い霊」が集まってくる事も知っている。
明るい笑顔で「おはよう!」。どこから見ても「明るい私」は、肉の重さ?と引き換えにして(体重を減らして)でも頑張ることを自分に強いた。
朝家を出るときは、顔が引きつっているのが分かる。が、会社の玄関の扉が開く「その間」で、満願の笑みを身に纏(まと)った。
『笑顔と感謝』と『祈り』。
霊界をいや「神」を知った者としての「私の最期の見せ場」をプロデュースするその責任。
その全てが、「奉納の舞」になればそれでいい。


下は谷底。そこに掛かる一本の細い縄。それを渡って向こうへ辿りつかなければならない。
あたりは霧で見えない。向こうには何があるのか・・・?。
目を閉じて初めて見える「景色」をたよりに渡り始める。
音がいや、楽曲が聞こえる。
歌詞も聞こえた。

♪ 人に勝つより自分に勝てと 言われた言葉が 胸にしむ~

「村田秀雄」が歌った「姿 三四郎」の唄だった。


いづれの道も究めるまでには、「闘い」それも「己に勝つ」という闘いがあるのですね。
つまり己の心に巣食う「魔」との闘いがあるという事を、胆に銘じた今日このごろでございました。
はい、終わりです。
皆々様の日々を心からお祈りし、陰ながら応援申し上げます。

久しぶりに「こんな事」を書いてみました。