霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

運命論

2012年09月26日 | 心霊現象
「運命論」とか、「運命論者」という言葉を聞かれたことがあると思う。
人の運命は決まっていて、決して変えることは出来ない、という論理である。
が、これは違う。何をもってそう言い切るか・・・。
いままで、私が書いてきた「ブログ」の全てがそれを証明している。
つまり、「神」が人間をそのようには造っていないというところに起因する。
人の運命が決まっていて、そのように生きていけばいいとしたら、人間はまさしく「ロボット」だ。
人にいろんな生き方を「設定」して誕生させ、喜怒哀楽も適当に仕込み、まるでゼンマイのネジを巻くようにして誕生した「人生」に、何を喜び、何を感動するというのか・・・神も人もだ。

さて、では人は人生に何を求めるか?
何となく生きて、その結果が「人生」だ、などという論理も設定もない。
人には使命があると、前に書いた通り、やるべき道がある。
それを探り当て、自分という無二の命に独自性を与え、見出し、花を咲かせて結実する。
それが人生であり、天上天下唯我独尊たる我の最高にして、唯一の人生である。
「天性」とか「天稟(てんぴん)」といわれる分野を発見し、開発するべく自分だけの人生があることを知らなければならない。
ある人は言う。
「運命は変えることが出来るが、宿命は変えることが出来ない」・・・と。
たしかに、血統を変えようなどということは出来ない。しかし、その事実を何もせずにただ流されて、甘んじて生きるということは、宿命を変えることが出来ないと、ただ諦めてながれて暮らすだけの「怠け者」あるいは諦めの人生でしかない。
それを甘んじて受けながら、さらなる高みへと誘われるべく努力してこその人生である。
出自、あるいは血統、あるいは先祖つまり「ルーツ」を変えることは出来ない。
原因は原因である。結果は自ずから生じる。これはいたしかたのない「ルール」であれば、甘んじて
受ける。そして、その次にくるものに対しては、反省や希望や祈りによって、大転換することは可能
である。それが、運命を変えるとか、運命に挑むとか人生の奇跡などということの可能であることの
証明である。

私達は「諦めた」時から、その可能性を自ら失っていく。
どん底から立ち上がる成功者や、絶体絶命からの奇跡的生還など、人間に与えられた「分野」がなければ生まれるはずがない。
これが「運命論」あるいは、「運命論者」と大きく違う人生の生き方の根本的違いである。
「祈り」もまた、この人生の岐路に何かを大きく変えるために発揮される不思議な必須要素である。
だから、人生は生きてみなければ分からない。つまり、人生は決定されていないのである。


夢で、ある人が言う。
「あなたの人生の、全てを知りたいか?」・・・と。
あなたの一生を全て見せてあげようか・・・?と、言われたら。あなたは何と答えますか・・。
そう言われた人は、しばらく考えたすえに、「知らなくていい」と答えたという。
あなたなら、どうしますか・・・?
これは実によく出来た、また実に意地悪な質問です。
こんなことは、あろうはずがない。これが結論です。
たとえ夢でも、「運命論」じゃあるまいし、決まったわけでも、分かるわけでもなく、未定であれば、見せられるわけもない。(これが正しい答えです)
でも、一瞬心の中で、見てみたい!と思いますよ・・・ね。

しばらく前に、「仁(じん)」というTV映画が人気でした。
現世の医者が、何かの原因で幕末へ「タイムスリップ」をするというお話です。
自分以外の人物の先が、みんな分かる主人公。
しかし、歴史を変えることははばかられる。坂本竜馬も、生かしてやれるものならば生かしたい
・・・、しかし・・・。という内容がありました。

今丁度、私が読んでいる本『十二単を着た悪魔』も、出来の悪い長男が、「源氏物語」へ「タイムスリップ」をするというあらすじです。
そこで生の人物像に接しながら、改めて知る「彼ら」の生き様、そして実際の事情や心情を味わい
ながら、物語に隠されて今日まできた「真実」を、しみじみと知るという趣向でした。
「女御(にょうご)」や「更衣(こうい)」の病を治すなど朝飯前。現世から「薬」と「あらすじ本」を持ってタイムスリップした男は、陰陽師を名乗りながら、宮廷の奥を自由に歩き回れる立場を
得て、絶大なる信用をわが物にしながら、自分を発見し、現世と「夢」の世界を選び取っていく、と
いった物語、展開になっています。
しかし、彼も「物語」の事実は曲げない。死ぬ人はちゃんと死んでいただく。
このようにして、光源氏を中心とした物語が、あるがままに綴られていく。
その中でもやはりね、自分の事は分からない。瞬時瞬時に心の変わりようによって動いてゆく自分の人生模様は、最後まで未定でした。


そう一つだけ、私が過去に見た夢がありました。
実に暗示的な夢だったことを、今でも思い出します。
それはね・・・。
ある人が、霊能者K氏の助言を得て、霊的な自分の能力を開発しつつあった時です。
途中で止めると言い出した。原因は結婚。
「ある人」とは、女性。守護霊は「上杉謙信公のご母堂」。背後霊は「望月家の娘」。
どこから見ても、「霊能力ばっちり」の候補生なる人物でした。
「最高の霊能力者になれる」と、背後が約束し、輝かしい将来をさえちらつかせたその人物が、「やーめた」と言う。男の力って、そんなに強いんですかねぇ~。いえ、「愛の力」でしょうか・・・。
結果、日本に稀なる霊能者は、この世に出現せずして、かげろうのように消えてなくなりました。
彼女は、女の子を産んで、お母さんとなり、「ごく普通」の主婦の生活をしたのです。

その前後、私は夢を見た。
夢の中で、透き通る薄い布が上から降りてくる。
一反といえば、その大きさ広さがお分かりになるだろうか。
そう、広くて長い布である。その薄い布に、よく目をこらして見ると、何かが描かれていた。
絵だ。一人の女の一生を絵にしてあるようだ。
さらにまた、透き通る布が一枚、上から重なるように降りてくる。
最初の布の後ろ側に重なるようにして、もう一反下がったことになる。
後の絵は、中ごろは火炎の中で身もだえしながら、焼けただれていく女の絵に変わる。
その顔は、そっくりではないか。「彼女」の顔に・・・。
表の布は、この世で言うところの「結婚生活」と、その後らしきあらすじが描かれていた。
その絵は、やはり幸せは続いてはいなかった。離婚を匂わせていた。
その「赤い布」が二枚、重なったり離れたりしながら、風にあおられ、見え隠れして私の前から飛んで行ってしまった。
ああ、彼女の人生の選択は、霊界の意に反してしまったようだ、と直感した。
しかし、彼女が自分で選んだのだ。そこから人生が変わっていく。
それが自分で選んだまぎれもない「彼女の人生」である。良いとか、悪いとかの前に、人生の選択は、自由だということである。

運命は、自分の自由なる選択の連続からなる人の生である。
結果は自分に返ってくる。これが鉄則である。そして結果が霊界に直結されてゆく。
この人間の「生」のしくみを知るとき、私達は、自由であり、私の選択ではあるが、どこからきた
人生であるかを、もう一度確かめる必要がある。
魂、あるいは霊からみれば、神から離して語ることは出来ない。
霊あるいは肉体の存在、つまり「人間」の存在にこそ、神がしっかりと関わって出発せしめ、生かしめ、死後の世界までも及ぶ「親の立場」であれば、これこそが、人間の宿命である。
決して変わることのない、また変えようのない宿命。神と人間(私)が親と子であるというこの関係をもって(開発して)霊界に行く。
これが結論だと申し上げたら、皆さまは「石」を投げるだろうか・・・?


「運命」にあやつられ、という言葉がある。
夢遊病者でない限り、自分の意思をしっかりと持ちながらも運命に導かれるのであれば、それもまた
いいではないか・・・。
守護霊との二人三脚は、言い方によってはそんなところである。
感謝しながら行くか、恨み言を言いながら行くかの違いである。
さあ、私達は「いさぎよく」前者を選んで、運命を切り開きましょうぞ!

仏の顔も三度まで

2012年09月25日 | 心霊現象
以前に、「3数」が重要な内容を示すと申し上げた。
この世には、それにまつわる格言や言葉が多い。
今も日常生活には使われて、「もう先はないよ」とばかりに釘をさす。
今日はそんな事を少しばかり・・・。

他にも、それらしいのがある。
「三度目の正直」や「二度あることは三度ある」などなど。
なんで「三(さん)」なんだーと思う。
そして本当に三までか? 四(よん)はないのか・・、と思う。
少なからず、「神」の世界がそうであれば多分「四」はないのだろう。
ではその「神」の世界から、例をあげてみましょう。

ここで一つ思い出してください。
「沈 寿官」(ちん・じゅかん)、この名を覚えておられますか?
そうです。金将軍と共に、戦破れて日本に連れてこられた「韓国」のお公家さんのような方でした。
その方が、日本でやらされた仕事が焼き物。いわゆる「陶工」として技術を伝え、また自らの守る
地上人を、陶工として導き続けた「あの方」です。
その沈氏が言うには・・・。
最初の段階、つまり第一段階を「蘇生期」といい、次を「長成期」、最後は「完成期」という、と。
これはまた、人間の一生にも言えることだ。
誕生から死にいたるまでの期間を「三段階」に分けるいい方や、あの世も含めて胎中からの出発を
言えば、『胎中期、地上期、霊界期』と、こうなる。

さてこの三段階が、暗に意味づけされながら言葉を代え表現を変えて、人間のたどるべき道を示し
たのが「格言」からみえる「三数」である。
では、神の許しは本当に三度までか・・・?
興味のある方は「聖書」を読んでみて頂きたい。
「仏の顔も三度まで」は、「仏」を「神」に入れ替えれば、すぐに分かる。
三度目は、絶対にクリアーしなければならないのだ。
なぜ?・・・霊界が、いや「天法」がそうなっているからである。
霊界、天法がなぜそうなっているか? 結論は「神」がそうだから。
聖書にはその「三度目」が、これでもか、これでもかと書いてある。
それは、「人間」のいかに不信仰であるかの、ためいきが出るほどの「ダメだし」である。
しかし、「それ」つまり、神の摂理を担当している人物においては「うっかり」や、「ちゃっかり」や、「てっきり」などといういい加減さは、もうとう許されない。
人類歴史を賭けた、命がけの信仰の闘いであった。(またそう聖書にも綴られている)

あの「イサク」(息子)を捧げよ、と言われたアブラハム。
神は最初から「かけがえのない一人息子」を捧げよとは、言っていない。
アブラハムの「うっかり」の失敗からくる『三度目の正直』を見んがための、最後の手段であった。
一度は簡単とまでは言わないが、まだやさしい。二度目もまだいい。しかし、後のない三度目は
もはや失敗したら次がない、つまり神の救いのプログラムが立てられない、といった内容を意味する。
子供可愛さで、宇宙の法則を変えてまでも、でたらめに情に先走る「神」ではない。
規則は規則であり、天法は天法である。
その「しくみ」の中で、どうしたら「条件」を取って、次なる手が打てるのか・・・?
悩みに悩み切る「神」の姿が書き込んであるのもまた「聖書」だと言える、と聞いた。

モーゼ。彼もそうだ。
「出エジプト記」、これは何が言いたいのだろう。
舌の根も乾かないうちに、彼ら(イスラエル人)は不信仰に陥る。
砂漠の中、荒野で迷い歩くハメになったのは「自分たちの不信仰」だとは、考えない。
導き手のモーセの責任だと、彼らはことに及んでは、責め立てた。
「神」の怒りをかってでも、まだ分からずに不信仰の限りを尽くす。
ついに、モーセの堪忍袋の尾が切れた。(十戒の盤石を投げつけて割った)
あとがない。この事態を次につなぐ、かろうじての「足台」として、神は神輿(みこし)のようなものを造らせる。どんなに民族が不信しても、「これ」だけを守れば(信じれば)良しとするという
「信仰の象徴」である。(方便のようなものであろうか)
「それ」を担いで彼ら「イスラエル民族」は、新しい地へと導かれていく。
その建国の地が「イスラエル」となって、次の世代へと歴史が流れ、続くことになる。

まあ、次へ繋がらなくなったら、おしまい、というのが怖い。あってはならない事です。
たとえ、一人の命に引き換えても、次に繋がれたら、まだ「救い」という神の摂理は繋がっていく。
だから、「イエス」を十字架上で見殺しにするしかなかった、・・・神。
その時の「イエス」も、本音は死にたくない、いや、死ねるもんか、今ここで。
そんなために自分は生まれたんじゃない。人として、正しい生き方をこの世でしてこその「メシア」だ。正しい神の男として、神の家庭をつくる。その生き方を知らせ、見せてこその「イエスの使命」
だったはずである。残念!無念!どれだけ思っても、もはや返ってこない「失われた時間」。
彼の最期は、十字架上で「イスラエル民族」つまり、人類の代表選手を許し、神にとりなす事で
次の救いに賭けた。(さみしい、やるせない心を一つだけ吐いて、こと切れた・・・、となって
いる。「神よ。なぜわたしをお見捨てになったのですか・・・」・・・と)
その後、彼の霊は、あちらこちらに現れ、散り去った人々を呼び寄せながら、次の救い「キリスト教
による救い」の摂理へと、人類歴史を繋いでゆく。

・・・、とまあ聖書ではこうなっています。



これはほんの一部であり、実に簡単な説明ですが、聖書を通して神が人間に言わんとされる内容が
、逃げ場がないほどにまでに私達に「信仰」を迫っている、という事を知るのです。
「次はないぞ!!」、と。
だから、人も神も苦肉の策をこうじてでも、最終段階は死守するべくがんばる、ということです。
人の側からすれば「三度目の正直」になります。神にしても「ほっと」しながらもきっとこんな気持ちでしょう。『出来るんなら、なんで最初からやらなかった!』・・・と。
だから、私達の生活の中で、同じようなことが二度あったら、次も何かの形で必ずくる、と思ったほうがいいでしょう。
それは過去に「失敗した」ことを告げていますから。
そして三度目は、二回でやり損ねた以上のものを「犠牲」にしなければならない、という必然の中で来ますから怖いのです。

そう、こういう人っを知っています。
交通事故に会った。一回目も二回目も全く同じ状況で起きた。
それに腰の骨を折る、という同じケガで。
ここまできて、その人は「はっと、気が付く」。三度目が来る・・・と。
二回までは「その」前触れだ。私に何が言いたいのか?・・・、聞くしかない。
その方はようやく「自分の使命」を知り、その重い「腰」をあげられた、という事実がありました。



神がそうならば、霊界もそう、天法もそうだということを決して忘れないでください。
「天網恢恢疎にして漏らさず」。この言葉です。ようやく使えました。
「天網」は霊界を網羅する「天法」。
逃げるや、洩れるや、外れるなどということがない、いや許されない「人の道」。

「自分でも知らない、あなたが一番願っているところ、そこへご案内いたしましょう~」
そう言われて、あなたはついて行きますか?
私は「この世」で言われても、決してついて行かないでしょうね。
でも、あの世で言われたら、きっとついて行くと思いますよ。

なぜ? 
天網恢恢疎にして漏らさず・・・、とでも、申し上げておきましょうか・・・。

祈り

2012年09月24日 | 心霊現象
今日はこの「祈り」について、私の経験をば、少しお話いたしましょう。
この漠然とした「もの」、つまりこの行為によって何がどうなるか、という結果は、私達の手にはない、と申し上げておかねばなりません。
祈りの行為は、よかれとして発露する心のやむにやまれない行いですが、はたして「聞き届けられるか」というと、決してそうではないと申し上げねばなりません。
ましてや「神」に祈るという行為は、神に祈るべき内容である事が第一条件になります。
言い方は悪いが、下世話な内容で祈った「祈り」は、自分勝手であり、ご利益であり、まあ神の心を
こちらに向かわせる、つまり神を振り向かせるほどのものか・・・。
ここが、祈りの分岐点になりましょうね。

今までの記録、つまり守護霊の「祈ってくれ」という希望は、何をもってその行為を意味付けたか・・・。
霊界に通じる祈りが、「神」に通じる祈りということになりましょう。
後でお話するいま一つの祈りは、神に祈っているようではあるが、実は「呪い」だということですね。
この「呪い」、つまり「呪詛(じゅそ)」は行動をおこせば起こすほど、それが積みあがって「悪霊」の作用(のり移り)さえ受けていかざるをえないという、悲惨なことが結果としてもたらされる
怖さを忘れてはなりません。(私の「鬼の様」はまさしくその事の証明です)


祈りとはあくまでも「実践」の世界であれば、よく例えられる例として「トンネル掘り」のようなものであると言われる。
岩盤に穴を開け、開通するまでは何も見えず、何時開くという保証もない。
怠ければそれだけ遅れ、途中事故などアクシデントが起これば開通のメドも狂ってくる。
毎日毎日同じ行為を繰り返しては、「その日」を信じてひたすら行為を続ける。
トンネル掘りは形ある世界での行為であり、現在の位置がどこかも今の科学をもってすれば分かる。
しかし、こと「祈り」は霊的な行為であり、形なき世界での変化を願っての「神」にむけての事で
あれば、今何処にいて、何処に向かって正しく確かに掘り当てているか、という確信がその都度
つかみにくい。それが「祈り」の行為の裏にある「おぼつかなさ」であり、「不信」に陥る「落とし穴」である。

120日間の祈りを提示された親子を、思い出してほしい。(金将軍の件です)
霊界、それも守護霊のたっての願いだった「祈り」は、親子にしてみれば、かいもく見当さえつかず、やみくもに仏壇に向かって条件をみたす行為以外の何物でもなかったかもしれない。
だからこそ、118日以前の何事も起こらない日々を積み重ねる行為(祈り)を落胆し、失意
のドン底の中で迎えていたのだ。(もうやめよう、神を信じるのも霊能者をたよるのも・・・と)


私がいつも思い出す童話、アンデルセンですかねぇ(イソップかもしれない)その中で、「白鳥の王子」(11羽の白鳥の王子?)というお話。
兄を魔法で白鳥に変えられ、その魔法を解くには野に出て、トゲの多い蔓(つる)を刈り取り、それで上着を編む。それを着せれば魔法は解ける、と妹は聞く。その間誰とも口をきいてはいけない、と条件がつく。彼女は魔法をかけた二人目の妃(魔女)の目を盗みながら、ひたすら上着を編む。
いつしか10枚が出来た。
最後の一枚を編みながら、彼女は『魔女狩り』の一人とされて処刑場まで運ばれる。
その牛車に乗せられながらの時間も惜しんで、編み物を続ける。魔女は火あぶりの刑だ。
足元に火がつけられて、ようやく11枚が完成した。と、その時11羽の白鳥がどこともなく飛んで
来て、彼女が空に放つ上着をまとうと、元の王子の姿になった。
悪い妃(魔女)は退治され、その後も12人の兄妹は幸せにくらしました・・・。
と、まあこんなあらすじだったかと。

そしてもう一つ。
似たような話で「走れメロス」。
これはみなさまご存じでしょうから、ここでは省略しますが。

こんな話を聞くとね、信じるという事がいたって難しいと気が付くのです。
先日お話をいたしました「ノア」も、全くそうです。
一回しか聞いていない「神の声」を、120年間も信じ続けるんですから・・・。
信じるだけじゃない、常識では判断できない事、つまり雨さえ降らない日照り続きに、方舟をそれも
山のてっぺんに造る・・・。普通やりますかねぇ。だから彼は、神からみて「たった一人の義人」だったのでしょう。


なぜ祈るのか?と問われれば・・・。
そこに必ず目的がある。成就したい目的が。
そして、祈りというものが、人にだけ与えられた行為でもある。
その内容が良い悪いは別として、一人一人の事情と、心情がある。
祈りの基本やお手本みたいなものは、世にたくさんある。
「神学」などというもので学ぶ「祈祷学」なるものは、きっと優等生的お祈りになるのだろう、が
私はそんな企画品のような祈りは知らないし、またした事がない。
ただ「祈り」の形、あるいは基本はある。
電話の掛け方を知らなければ、電話で話は出来ない。
誰にかけるのか、まずダイヤルを回す行動をとらなければ、つながらない。
その前に、掛ける相手の「電話番号」を知らなければならない。
これが「祈る」という行為の前に、心に決めておく内容でしょうね。
誰に祈るんですか? 何を祈るんですか? 何日続けるんですか?
最小限度は、このくらいは決めていないと・・・ね。

「神」(神様)、あなたに祈ります。
守護霊である「あなた○○様」に祈ります。
と、まあ私の場合は相手をまずはっきりとさせ、お名指しでお呼びをします。
これが「ダイヤル」をまわした事になる。
あとは内容。おおざっぱに事の次第を説明する。
自分はこう思う。ゆえにこうなってほしいと希望する。が、これはあくまでも私の願いです。
もし、間違っていたら、私がわかるように諭(さと)し、説明が欲しい。
時間がない急を要する時は、「三日」で知らせてくださいと祈る。
(私が鬼に変化していく様を知らされたのも、これに入る)

祈る期間中には、読む本、会った人、見た絵、人の会話等々、どこかにヒントが隠されている。
私の場合はTV映画の中での、一人がはいた台詞の中に「答え」があった。
ぶれない的・焦点がいかに大切かが、ここで分かる。祈りがぶれない限り、必ず答えは分かる。
「これだ!」ってね。祈った人にしか察知できない「答え」が、このようにして来る。
もはや霊界がない、とは言えなくなる。その時ほど自分を見てくれている「目」を感じる。
それが「神」か、「守護霊」かいずれでも歓喜にむせる。
そうして実践の積み重ねの中から、「祈りの極意」を自分で見出していく。

時々は、そんな型にはまった祈りなぞしていられない時や場面がある。
その時は瞬時に心が飛ぶ。そして言葉も「機関銃」のように出てくる。
感謝であれ、恨みであれ、電車の中であれ、道路を歩く時であれ・・・である。
そんな時は決して止めない。自分の祈り(叫び)から、何かを掴み取る。
口は機関銃のように言葉を吐くが、心は一つの何かを教えようとする。
出来れば人ごみは避けた方がいい、が仕方がない時は心の中でやるしかない。
「それってさぁ、おかしくない?・・・」と、自問自答が始まる時だ。
(自問自答から、間違いが正される時がある。血気怒気には充分に注意されたし)



一生に一度でいい、「わたしって、誰?」と聞いてみてほしい。
何が一番したいの? 今が満足? ・・・・と。
年をとって、時間もお金もたっぷりあるからではなく、「心」がわたしにつぶやく、あるいは叫ぶ
一番自分にとって「旬」な時にこそ、心を確かめ、「あなたは、どこに繋がれたいの?」と聞いて
みてほしい。
自問自答も「祈り」なんです。
見えない糸でつながれている「人間」の正体、言い方が悪ければ「人間の本質」がきっと見えて
くるはずです。

「祈り」は本来、心(魂・霊)が「霊界」あるいは「神」を、その存在をふくめて潜在的に知っているという現れに他なりません。
もうすぐそう遠くない時代には、それがあたりまえのようになっていくでしょうね。
つい最近知って、驚いたことがあります。
縫い物って糸で縫う、と普通思いますよね。それにミシン。糸を使いますよね。
ところがね、特殊なミシンでは糸を使わないそうですよ。
何で布を繋ぎ合わせるか?
皆様『超音波ミシン』ってきいたこと、ありますか?
これぞまさしく「神の技」。「デサント社」の知恵と技術が成功した日本人の誇り高き技術力。
事は「北京オリンピック」から始まった。
水泳選手はほとんどが「スピード社」の水着を使い、勝負をしかけてきた。
日本の水着界は、完敗した。
「スピード社」に負けるな!
その結果、「世界に負けない水着」として発表された「デサント社」の水着は、布を糸を使わない
方法でつなぎ合わせる機械(ミシン)を発明した。
それが『超音波ミシン』だった。
超音波が布を合わせていくのだ。だから軽い。
この水着から「世界記録」が生まれていく。


とまあ、布と布を超音波で合わせる時代なんですよ。
だからね、神様くらい(失礼)、霊界くらいその在り様を現在に明らかにするくらい、もうそこまで
来ていますよね。(とまあ、こうなりたいものですがね)
希望をもってまいりましょう。

『ルーツ』

2012年09月22日 | 心霊現象
この英語を訳せば、「元の」とか「根源」とかといったところでしょうか・・・。
昔といってもいいでしょう、TVが白黒だった頃のアメリカのTV映画の題名といったほうが、
むしろその語源を理解し易いかもしれません。
その映画からは、「ルーツ」とはつまり出発とか先祖とか、民族的なつながりなどといった因縁めいた内容が伝わってきました。
こんな古い、昔の映画を思い出せる方はもう、わずかな方しかいらっしゃらないでしょうが、
「黒人」とか、「奴隷」とかのそのルーツを探るという当時としては実にセンセーショナルな「映画」だったことを覚えています。

それが、なぜ今に?と、問われそうですが。
全てに過去の歴史がある、という事から申し上げるべく、今日はこの題材を取り上げました。
黒人であるがゆえに「奴隷」として売られてゆく。
行く先は、アメリカ。
なぜ「奴隷」なのだ? なぜ「黒人」なのだ?
彼らはどれだけ悩み、叫んだか・・・。
しかし、生まれた時にはもうすでに「黒人」として、黒い肌をもって生まれてきた・・・。
いつから、どこから、誰からそうなった?
あたりまえのように、疑問が湧く。

そうなのです。前に「民族のゆくえ」として「ユダヤ民族」のことを書きました。
第二次大戦の時、ナチスドイツ「ヒトラー」によって600万人という大虐殺を受けた彼らは、
「なぜ?」をどれだけ繰り返したか分からない。
まさか、イエス・キリストの時代にその原因、つまり「ルーツ」があったなど、どうして分かるだ
ろうか・・・。
では、彼ら「黒人」はなぜ肌の色を黒くされ、同じ人間でありながら「奴隷」としてこき使われ、
人間性などまるでない人生を送らなければならなかったのか?
その「ルーツ」を探らなければならない、ということです。
「黒人になった」という結果をもたらした「原因」は、どこにあったか・・・。

これからが「本題」です。
皆様はキリスト教を学ばなくても、「ノアの方舟(はこぶね)」という話はご存じでしょう。
原因は遠い昔の「ノア」の時代にあったという。
アダムとイブ。人間始祖の過ちから次の世代へと移った後、次の過ちが起こった。
息子のカインとアベルの時だ。
それから時代は過ぎた。世の中には、神がご覧になって「義人」は一人も見当たらないまでの世
が繰り広げられていた。
ようやく見つけた「ノア」に神は言われた。
この世を亡ぼそうと思う。よって、洪水が襲う前に、「方舟」をつくるようにと、ノアに命じられた。
ノアは家族、つまり奥さんと三人の息子がいたにもかかわらず、最後は一人で「方舟」を造った。
彼がやったことは、来る日も来る日も、山の上に舟を造ることだった。
その上、「来る」と預言した洪水は来る気配すらなかった。
周りの者たちは、ノアを嘲(あざけ)り罵声し、「狂人」としてあつかった。
それでも、家族が手伝ってくれさえしたら、120年という時間は経ずとも舟は出来ただろうと
言われている。
最後は奥さん、息子たちに棄てられて、ノア一人で方舟を造った。
そして、出来上がった「方舟」。今でいう10階建てのビルくらいの大きさだったと言われている。
その中に、動物、獣、鳥などの全ての種類を、つがい一組づつ入れ、最後にノア家族が入って、戸
を塞ぐ。その瞬間から40日40夜、天が破れたかのように豪雨が続いた。
その舟は、山の頂上から浮き上がり、流され、40日漂ったあげく、新地へたどり着く。
そこで始まったのが、ノア家族の新天地の出発である。
これは、まるで「エデンの園」という新天地で人類の始祖として出発した「アダムとイブ」の
再現であった。悪とか罪とかいったものを、全て流し去ったはずの「ノア家族」に、「罪がない」
という証明の時がきた。
試されたのは「ノアの家族」だ。(ノアは信仰者として方舟をもってすでに自分を証明してある)
息子の三人は、それぞれ「セム」「ハム」「ヤペテ」と名乗った。
年老いたノアの使命を継ぐ者は、次男の「ハム」。
アダムの家庭の時もそうだが、なぜかいつも「次男」が選ばれる。(詳しくは省略)

その信仰を受け継ぎ、さらに次なる使命を受けるべき「ハム」にその資格を試す「テスト」の時が
きた。なぜならば、ハムこそ「ノア」を狂人、あるいは「気違いじじい」として指さし、方舟造りを
手伝おうとさえしなかった人物そのものだったからである。
そんな「ハム」を、何をもって「ノア」の跡継ぎにするか・・・。
神のテストはこうだ。
ある日、酒を飲み酔いつぶれた「ノア」が裸で寝ていた。
それを見た「ハム」は、裸でいるのを恥ずかしい、あるいは良くないと思って、その姿を見ない
ようにしてハムの裸体を布をかぶせて覆った。
それが「罪」になった。いや、罪がまだ残っていることを「ハム」が証明したことになる。
エデンの園で、アダムとイブが「裸」に気が付いて神から隠れた、という同じ行動をしたことになる。

神の怒りが下る。その「ハム」族が、結果「黒人」である。
長男「セム」つまり、「セム族」は黄色人種、三男「ヤペテ」つまり「ヤペテ族」は白人種となって
地球の各地へと広がってゆく。

これが「ノアの方舟」から学ぶ、ことの顛末(てんまつ)と、人類三種族の出発になるという事だ。
いま地球上に生きる人類の「ルーツ」を探るとき、黄色人種と黒人種と白人種の三つがあることになる。
同じ父「ノア」から出発した三種の人類は、再び一つの家族になれる日を目指して今も前に進もう
としていることになる。
「ハム」の末裔は、肌を黒くし、「奴隷」となって兄弟の足元にひれ伏し、時がくるまでは「人間性」をはく奪されたような人生を送ることになる。
その時とは、ある一定の数理的条件が満たされた時であり、地上に何かの兆しが表れた時である。
アメリカに於いて「奴隷解放」が行われ、人種差別の枠が取り払われた時こそが、「その時の到来
」を告げている。
もしも、三兄弟のいざこざ、つまり「ケンカ」や「争い」を調停出来る民族があるとすれば、長男
の族になる者、つまりセム族・黄色人種である、と言われている。(神からみて、という事)
この理論から言えば、メシア(キリスト)はセム族から来なければならない。
黄色人種が、相争っている場合ではないのだ!

と、まあ「神学」的に言えば、ということである。



オリンピックの競技の記録が、年々塗り替えられていく。
その体力における「黒人」のパワーは、いまや脅威そのものだ。
神は肌を黒くされはしたが、その体力においてはどの民族にも優る「神の技」を与えられたといってもいい。
「黒人霊歌」に、人は魂をゆさぶられる。また声の音域や音量、質においては他に類をみない。
数多い「音楽家」が輩出されてきたゆえんでもある。
神の最も近くにあり、愛のすべてを受け継ぐ立場であった「祝福の民族」ハム族の転変の歴史は、
私達に多くのものを語り続けてきた。

「黒人」と「ユダヤ人」。「ハム族」と「ユダヤ民族」。私達のいとしい兄弟であったと、言える日
を待ちわびている。


あなたは「これ」を信じますか?


この「ダン」から言えば「メシア・キリスト」は黄色人種ということになる。
そうなんです。「イエス」は金髪の西洋人ではなく、黒髪、黒い瞳の黄色人種だったのです。
救世主を輩出出来る民族、黄色人種に生まれたことに自信をもち、誇りに思ってください。
地球規模で人類を愛せる「品格」あふれた民族に、我々もなりたいものです。

そしてようやく、「わたしのルーツ」をいよいよ探る時がやってきました。
元、あるいは根源を探る「秋」です。

秋の急ぎ足に負けないように、深く思いをめぐらす「秋」であれかしと祈ります。

残暑でうだりながら・・・

2012年09月13日 | 心霊現象
年寄り殺すに刃物はいらぬ、「残暑の一月も続けばいい」と、下の句をつけたくなります。
明日から一週間ほど、ブログはお休みです。(新潟へ行ってきます)


今日ね、東武百貨店へ行きました。そしたらね開店10分前でした。
五分前になると、今日の催しものの案内を「玄関」に居る案内嬢がね、丁寧にやってくれていました。その脇で「手話」をしながら通訳しているお嬢さんがいました。
へぇ~、デパートも親切になったものよ、と思ってみていました。
そういえば、いつからでしょうかTVのニュースも「手話通訳」がはいったりしています。
なによりも「官房長官」の会見では、必ず手話通訳がはいります。
あたりまえのようでも、この間までは無かったのでは・・・、と思い出しています。

皇室では、「紀子さま」が手話をなさるのは周知の通りです。
また一頃、「手話落語」をされる方がいましたが、残念ながら亡くなってしまいましたね。

知人の話では、「彼女」が聴導犬と一緒にアメリカへ渡ったとき、その何とかいう州の、その街では、ほとんどの住人が手話が出来て、彼女は何の不自由も感じなかったとか。
日本も早くそうなればいいのに・・・、と言っていましたが。



一転して世の中を見てみた時、道路の標識から信号、足が踏む道路の「ぼちぼち」まで、完璧という
ものはなく、使いにくいんだそうですね。
雪が降って道路に積もったら、もう用をなさないものがあるって聞かされると、本当ですね。

東京駅で私は、同じ地下道を五回歩きました。
一回づつ聞く度に、駅員さんは違う道を案内してくれましたねぇ。
今では駅員さんを探すのも、骨が折れる時代になりました。
外へ出て、タクシーに乗ろうとしたら、運転手さんが、目の前のビルを指さして・・・。
バタンとドアーを閉めて急発進して行ってしまいました。
「目」と「口」があれば、東京駅は絶対迷わないように、表示されていると、誰かが言っていました
が、そうなんですかねぇ?
そのダンで言えば、私は何なんでしょうか・・・・。
(方向音痴はなはだしいことは、確かですが)

今は「色盲(しきもう)」といったら、差別用語とかになるんでしょうか?
その人々は、ほとんどが地下鉄の案内標識の識別が不可能とか。
あれは「そうでない人」が作ったもので、本当に色弱の人が作ったら、ああはならないという。
黄色や土色や、黄緑や微妙な色はみんな一色に見えるという。
最近は信号などの色や光具合が、かなり改善されて見やすくなっているとか。
また人生の途中で、「光」を失った人が一様に口をそろえて言うことは、夢を見る楽しみが一番という。
特に色つきの「総天然色、カラーつきのワイドスクリーン」なぞは、夢が覚めてそのショックが尾を引くという。
でもね、彼らはこの世では「酷」の人生を送ったかもしれないが、あの世では心の目で見る世界が
目の前に広がり、どれ一つとっても、何年も見つめ続けていても飽きない、とまでいわれる程、
すべてが強烈に魂に飛び込む世界のようです。
いずれくる、歓喜の世界に入る準備をこそ怠ることなく、地上に置いて健常者だといって魂を磨く
ことを怠った者が見ることのない「真実の魂の法悦」の世界を、永遠という時間楽しむことが出来る
「恵み」に、むしろ感謝出来るというものです。


人生「今」をみて「幸せ」「不幸せ」を決めてはいけません。
結果は「あの世」です。
勝負はまだついていません!
元気を出して、めげずに日々の「玉入れ」に、善の玉を入れ続けてまいりましょう。


「さんま」の水揚げのニュースが、復興とともに耳に入ってくる昨今。
空の「いわし」は、どうなのでしょうか?
「いわし雲」の事です。
そうそう、俳句をやるかたがね、TVの向こうで「ぼやい」ていましたねぇ。
こんな気候だと、「季語」がまるで現状と合わず、まいった・・・と。


そこで、一句。

「いわし雲」、秋の「さんま」は大漁かえ~。(季語のてんこ盛り)
(今年こそ、食べたいものです・・・)