「運命論」とか、「運命論者」という言葉を聞かれたことがあると思う。
人の運命は決まっていて、決して変えることは出来ない、という論理である。
が、これは違う。何をもってそう言い切るか・・・。
いままで、私が書いてきた「ブログ」の全てがそれを証明している。
つまり、「神」が人間をそのようには造っていないというところに起因する。
人の運命が決まっていて、そのように生きていけばいいとしたら、人間はまさしく「ロボット」だ。
人にいろんな生き方を「設定」して誕生させ、喜怒哀楽も適当に仕込み、まるでゼンマイのネジを巻くようにして誕生した「人生」に、何を喜び、何を感動するというのか・・・神も人もだ。
さて、では人は人生に何を求めるか?
何となく生きて、その結果が「人生」だ、などという論理も設定もない。
人には使命があると、前に書いた通り、やるべき道がある。
それを探り当て、自分という無二の命に独自性を与え、見出し、花を咲かせて結実する。
それが人生であり、天上天下唯我独尊たる我の最高にして、唯一の人生である。
「天性」とか「天稟(てんぴん)」といわれる分野を発見し、開発するべく自分だけの人生があることを知らなければならない。
ある人は言う。
「運命は変えることが出来るが、宿命は変えることが出来ない」・・・と。
たしかに、血統を変えようなどということは出来ない。しかし、その事実を何もせずにただ流されて、甘んじて生きるということは、宿命を変えることが出来ないと、ただ諦めてながれて暮らすだけの「怠け者」あるいは諦めの人生でしかない。
それを甘んじて受けながら、さらなる高みへと誘われるべく努力してこその人生である。
出自、あるいは血統、あるいは先祖つまり「ルーツ」を変えることは出来ない。
原因は原因である。結果は自ずから生じる。これはいたしかたのない「ルール」であれば、甘んじて
受ける。そして、その次にくるものに対しては、反省や希望や祈りによって、大転換することは可能
である。それが、運命を変えるとか、運命に挑むとか人生の奇跡などということの可能であることの
証明である。
私達は「諦めた」時から、その可能性を自ら失っていく。
どん底から立ち上がる成功者や、絶体絶命からの奇跡的生還など、人間に与えられた「分野」がなければ生まれるはずがない。
これが「運命論」あるいは、「運命論者」と大きく違う人生の生き方の根本的違いである。
「祈り」もまた、この人生の岐路に何かを大きく変えるために発揮される不思議な必須要素である。
だから、人生は生きてみなければ分からない。つまり、人生は決定されていないのである。
夢で、ある人が言う。
「あなたの人生の、全てを知りたいか?」・・・と。
あなたの一生を全て見せてあげようか・・・?と、言われたら。あなたは何と答えますか・・。
そう言われた人は、しばらく考えたすえに、「知らなくていい」と答えたという。
あなたなら、どうしますか・・・?
これは実によく出来た、また実に意地悪な質問です。
こんなことは、あろうはずがない。これが結論です。
たとえ夢でも、「運命論」じゃあるまいし、決まったわけでも、分かるわけでもなく、未定であれば、見せられるわけもない。(これが正しい答えです)
でも、一瞬心の中で、見てみたい!と思いますよ・・・ね。
しばらく前に、「仁(じん)」というTV映画が人気でした。
現世の医者が、何かの原因で幕末へ「タイムスリップ」をするというお話です。
自分以外の人物の先が、みんな分かる主人公。
しかし、歴史を変えることははばかられる。坂本竜馬も、生かしてやれるものならば生かしたい
・・・、しかし・・・。という内容がありました。
今丁度、私が読んでいる本『十二単を着た悪魔』も、出来の悪い長男が、「源氏物語」へ「タイムスリップ」をするというあらすじです。
そこで生の人物像に接しながら、改めて知る「彼ら」の生き様、そして実際の事情や心情を味わい
ながら、物語に隠されて今日まできた「真実」を、しみじみと知るという趣向でした。
「女御(にょうご)」や「更衣(こうい)」の病を治すなど朝飯前。現世から「薬」と「あらすじ本」を持ってタイムスリップした男は、陰陽師を名乗りながら、宮廷の奥を自由に歩き回れる立場を
得て、絶大なる信用をわが物にしながら、自分を発見し、現世と「夢」の世界を選び取っていく、と
いった物語、展開になっています。
しかし、彼も「物語」の事実は曲げない。死ぬ人はちゃんと死んでいただく。
このようにして、光源氏を中心とした物語が、あるがままに綴られていく。
その中でもやはりね、自分の事は分からない。瞬時瞬時に心の変わりようによって動いてゆく自分の人生模様は、最後まで未定でした。
そう一つだけ、私が過去に見た夢がありました。
実に暗示的な夢だったことを、今でも思い出します。
それはね・・・。
ある人が、霊能者K氏の助言を得て、霊的な自分の能力を開発しつつあった時です。
途中で止めると言い出した。原因は結婚。
「ある人」とは、女性。守護霊は「上杉謙信公のご母堂」。背後霊は「望月家の娘」。
どこから見ても、「霊能力ばっちり」の候補生なる人物でした。
「最高の霊能力者になれる」と、背後が約束し、輝かしい将来をさえちらつかせたその人物が、「やーめた」と言う。男の力って、そんなに強いんですかねぇ~。いえ、「愛の力」でしょうか・・・。
結果、日本に稀なる霊能者は、この世に出現せずして、かげろうのように消えてなくなりました。
彼女は、女の子を産んで、お母さんとなり、「ごく普通」の主婦の生活をしたのです。
その前後、私は夢を見た。
夢の中で、透き通る薄い布が上から降りてくる。
一反といえば、その大きさ広さがお分かりになるだろうか。
そう、広くて長い布である。その薄い布に、よく目をこらして見ると、何かが描かれていた。
絵だ。一人の女の一生を絵にしてあるようだ。
さらにまた、透き通る布が一枚、上から重なるように降りてくる。
最初の布の後ろ側に重なるようにして、もう一反下がったことになる。
後の絵は、中ごろは火炎の中で身もだえしながら、焼けただれていく女の絵に変わる。
その顔は、そっくりではないか。「彼女」の顔に・・・。
表の布は、この世で言うところの「結婚生活」と、その後らしきあらすじが描かれていた。
その絵は、やはり幸せは続いてはいなかった。離婚を匂わせていた。
その「赤い布」が二枚、重なったり離れたりしながら、風にあおられ、見え隠れして私の前から飛んで行ってしまった。
ああ、彼女の人生の選択は、霊界の意に反してしまったようだ、と直感した。
しかし、彼女が自分で選んだのだ。そこから人生が変わっていく。
それが自分で選んだまぎれもない「彼女の人生」である。良いとか、悪いとかの前に、人生の選択は、自由だということである。
運命は、自分の自由なる選択の連続からなる人の生である。
結果は自分に返ってくる。これが鉄則である。そして結果が霊界に直結されてゆく。
この人間の「生」のしくみを知るとき、私達は、自由であり、私の選択ではあるが、どこからきた
人生であるかを、もう一度確かめる必要がある。
魂、あるいは霊からみれば、神から離して語ることは出来ない。
霊あるいは肉体の存在、つまり「人間」の存在にこそ、神がしっかりと関わって出発せしめ、生かしめ、死後の世界までも及ぶ「親の立場」であれば、これこそが、人間の宿命である。
決して変わることのない、また変えようのない宿命。神と人間(私)が親と子であるというこの関係をもって(開発して)霊界に行く。
これが結論だと申し上げたら、皆さまは「石」を投げるだろうか・・・?
「運命」にあやつられ、という言葉がある。
夢遊病者でない限り、自分の意思をしっかりと持ちながらも運命に導かれるのであれば、それもまた
いいではないか・・・。
守護霊との二人三脚は、言い方によってはそんなところである。
感謝しながら行くか、恨み言を言いながら行くかの違いである。
さあ、私達は「いさぎよく」前者を選んで、運命を切り開きましょうぞ!
人の運命は決まっていて、決して変えることは出来ない、という論理である。
が、これは違う。何をもってそう言い切るか・・・。
いままで、私が書いてきた「ブログ」の全てがそれを証明している。
つまり、「神」が人間をそのようには造っていないというところに起因する。
人の運命が決まっていて、そのように生きていけばいいとしたら、人間はまさしく「ロボット」だ。
人にいろんな生き方を「設定」して誕生させ、喜怒哀楽も適当に仕込み、まるでゼンマイのネジを巻くようにして誕生した「人生」に、何を喜び、何を感動するというのか・・・神も人もだ。
さて、では人は人生に何を求めるか?
何となく生きて、その結果が「人生」だ、などという論理も設定もない。
人には使命があると、前に書いた通り、やるべき道がある。
それを探り当て、自分という無二の命に独自性を与え、見出し、花を咲かせて結実する。
それが人生であり、天上天下唯我独尊たる我の最高にして、唯一の人生である。
「天性」とか「天稟(てんぴん)」といわれる分野を発見し、開発するべく自分だけの人生があることを知らなければならない。
ある人は言う。
「運命は変えることが出来るが、宿命は変えることが出来ない」・・・と。
たしかに、血統を変えようなどということは出来ない。しかし、その事実を何もせずにただ流されて、甘んじて生きるということは、宿命を変えることが出来ないと、ただ諦めてながれて暮らすだけの「怠け者」あるいは諦めの人生でしかない。
それを甘んじて受けながら、さらなる高みへと誘われるべく努力してこその人生である。
出自、あるいは血統、あるいは先祖つまり「ルーツ」を変えることは出来ない。
原因は原因である。結果は自ずから生じる。これはいたしかたのない「ルール」であれば、甘んじて
受ける。そして、その次にくるものに対しては、反省や希望や祈りによって、大転換することは可能
である。それが、運命を変えるとか、運命に挑むとか人生の奇跡などということの可能であることの
証明である。
私達は「諦めた」時から、その可能性を自ら失っていく。
どん底から立ち上がる成功者や、絶体絶命からの奇跡的生還など、人間に与えられた「分野」がなければ生まれるはずがない。
これが「運命論」あるいは、「運命論者」と大きく違う人生の生き方の根本的違いである。
「祈り」もまた、この人生の岐路に何かを大きく変えるために発揮される不思議な必須要素である。
だから、人生は生きてみなければ分からない。つまり、人生は決定されていないのである。
夢で、ある人が言う。
「あなたの人生の、全てを知りたいか?」・・・と。
あなたの一生を全て見せてあげようか・・・?と、言われたら。あなたは何と答えますか・・。
そう言われた人は、しばらく考えたすえに、「知らなくていい」と答えたという。
あなたなら、どうしますか・・・?
これは実によく出来た、また実に意地悪な質問です。
こんなことは、あろうはずがない。これが結論です。
たとえ夢でも、「運命論」じゃあるまいし、決まったわけでも、分かるわけでもなく、未定であれば、見せられるわけもない。(これが正しい答えです)
でも、一瞬心の中で、見てみたい!と思いますよ・・・ね。
しばらく前に、「仁(じん)」というTV映画が人気でした。
現世の医者が、何かの原因で幕末へ「タイムスリップ」をするというお話です。
自分以外の人物の先が、みんな分かる主人公。
しかし、歴史を変えることははばかられる。坂本竜馬も、生かしてやれるものならば生かしたい
・・・、しかし・・・。という内容がありました。
今丁度、私が読んでいる本『十二単を着た悪魔』も、出来の悪い長男が、「源氏物語」へ「タイムスリップ」をするというあらすじです。
そこで生の人物像に接しながら、改めて知る「彼ら」の生き様、そして実際の事情や心情を味わい
ながら、物語に隠されて今日まできた「真実」を、しみじみと知るという趣向でした。
「女御(にょうご)」や「更衣(こうい)」の病を治すなど朝飯前。現世から「薬」と「あらすじ本」を持ってタイムスリップした男は、陰陽師を名乗りながら、宮廷の奥を自由に歩き回れる立場を
得て、絶大なる信用をわが物にしながら、自分を発見し、現世と「夢」の世界を選び取っていく、と
いった物語、展開になっています。
しかし、彼も「物語」の事実は曲げない。死ぬ人はちゃんと死んでいただく。
このようにして、光源氏を中心とした物語が、あるがままに綴られていく。
その中でもやはりね、自分の事は分からない。瞬時瞬時に心の変わりようによって動いてゆく自分の人生模様は、最後まで未定でした。
そう一つだけ、私が過去に見た夢がありました。
実に暗示的な夢だったことを、今でも思い出します。
それはね・・・。
ある人が、霊能者K氏の助言を得て、霊的な自分の能力を開発しつつあった時です。
途中で止めると言い出した。原因は結婚。
「ある人」とは、女性。守護霊は「上杉謙信公のご母堂」。背後霊は「望月家の娘」。
どこから見ても、「霊能力ばっちり」の候補生なる人物でした。
「最高の霊能力者になれる」と、背後が約束し、輝かしい将来をさえちらつかせたその人物が、「やーめた」と言う。男の力って、そんなに強いんですかねぇ~。いえ、「愛の力」でしょうか・・・。
結果、日本に稀なる霊能者は、この世に出現せずして、かげろうのように消えてなくなりました。
彼女は、女の子を産んで、お母さんとなり、「ごく普通」の主婦の生活をしたのです。
その前後、私は夢を見た。
夢の中で、透き通る薄い布が上から降りてくる。
一反といえば、その大きさ広さがお分かりになるだろうか。
そう、広くて長い布である。その薄い布に、よく目をこらして見ると、何かが描かれていた。
絵だ。一人の女の一生を絵にしてあるようだ。
さらにまた、透き通る布が一枚、上から重なるように降りてくる。
最初の布の後ろ側に重なるようにして、もう一反下がったことになる。
後の絵は、中ごろは火炎の中で身もだえしながら、焼けただれていく女の絵に変わる。
その顔は、そっくりではないか。「彼女」の顔に・・・。
表の布は、この世で言うところの「結婚生活」と、その後らしきあらすじが描かれていた。
その絵は、やはり幸せは続いてはいなかった。離婚を匂わせていた。
その「赤い布」が二枚、重なったり離れたりしながら、風にあおられ、見え隠れして私の前から飛んで行ってしまった。
ああ、彼女の人生の選択は、霊界の意に反してしまったようだ、と直感した。
しかし、彼女が自分で選んだのだ。そこから人生が変わっていく。
それが自分で選んだまぎれもない「彼女の人生」である。良いとか、悪いとかの前に、人生の選択は、自由だということである。
運命は、自分の自由なる選択の連続からなる人の生である。
結果は自分に返ってくる。これが鉄則である。そして結果が霊界に直結されてゆく。
この人間の「生」のしくみを知るとき、私達は、自由であり、私の選択ではあるが、どこからきた
人生であるかを、もう一度確かめる必要がある。
魂、あるいは霊からみれば、神から離して語ることは出来ない。
霊あるいは肉体の存在、つまり「人間」の存在にこそ、神がしっかりと関わって出発せしめ、生かしめ、死後の世界までも及ぶ「親の立場」であれば、これこそが、人間の宿命である。
決して変わることのない、また変えようのない宿命。神と人間(私)が親と子であるというこの関係をもって(開発して)霊界に行く。
これが結論だと申し上げたら、皆さまは「石」を投げるだろうか・・・?
「運命」にあやつられ、という言葉がある。
夢遊病者でない限り、自分の意思をしっかりと持ちながらも運命に導かれるのであれば、それもまた
いいではないか・・・。
守護霊との二人三脚は、言い方によってはそんなところである。
感謝しながら行くか、恨み言を言いながら行くかの違いである。
さあ、私達は「いさぎよく」前者を選んで、運命を切り開きましょうぞ!