霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

先輩諸侯が人に求めたこと

2013年06月22日 | 心霊現象
「我が先輩諸侯」というにはあまりにも僭越であるが、かつての日本人が「人」に求めたものが何であったかを知ることは、重要である。
それは「特別な人」を要求したわけでも、トップ争いの末に選ばれた人を指したわけでもない。

一人の人物は、自分の建築の技を学校造りに一生の仕事として賭けた。
『子どもは次代を背負う者である。この子どもが学習する校舎は、永久に使用できる力がなくてはならない』このように考えた氏は、これ我が天命なりと感じ、独力でできる限り永久校舎建設を計画設計し、その実現を
期したのである。現在の厚木市○○がその一部である。
厚木市郷土の「井上 篤太郎」氏。大正五年四月に勲一等端宝賞を、昭和三年十月に藍綬褒章を、昭和十三年
八月に紺綬褒章を授与せられた「郷土の誇るべき人物」である。

いきなりこんな「偉い」人の話をしても、だから何!といわれそうですが。
この人をよく知っていた人が、前に何度か書いた「霊能者O氏」でした。
厚木の地で生まれ育ち、かの地で骨を埋めたO氏が、第二次大戦を軍医の助手として闘いそして終戦を迎えた。前線の残酷な場面を見聞きしたO氏ではあったが、そのことは最期まで語ろうとはしなかった。
ただ、土地の人たちや、クラスメートのことは、聞く人さえいれば語りたがったものです。
その中に「井上氏」がいたというわけである。
彼が社員の採用に際して、一般的学力試験だけでなく、人物審査も慎重に行った。
例えば、採用試験の日に弁当を出す。その食べ方、蓋についている一粒の米でも、むだなく「折詰め」を食べ、礼儀のよい者を採用したという。

最近の話では「三菱鉛筆」の会社でのこと。
採用試験を無事とおり、新社員の入社式の折、全員に鉛筆が配られた。
その次には「小刀(こがたな)」も配られた。
「さあ、鉛筆を削ってください」の号令で、みな取り掛かった。が、中には鉛筆を削れない者もいたという。
鉛筆削りなんて、「電動の削り機」がやるものだと思っていた者には、びっくりだっただろう。
あるいは「ハンドル」を回しさえすればいいと・・・。

これが現代に何を語り、会社は彼ら若者たちに「何」を見たかったのであろうか・・・。


先日ご紹介した「養老氏」も著書の中で言っておられる。
「現在はボタンを押すだけで、風呂が沸く」と。
風呂だけではない。ボタン一つで、米も炊けるし火もつく。
なんと便利な時代か~。これが悪いと言うのではない。
「ボタンを押す」前に、どうしたら火がつき、「ごはん」がどうすれば出来たのか。
風呂もどうしたら湧いたのか。その前段階を知った上での行動でなければ、分からずに、あたりまえのように、使って終わるだけだ、と。
そこで子供に「火を起こさせて」みる。米を炊かせてみる。風呂を沸かさせてみる。
何も出来ない。目の前に「紙屑」と「杉っ葉」と薪(たきぎ)を置く。
「さあ、どうぞ」といってもどれをどのようにすれば、「火」を絶やさず燃やし続けることが出来るのか・・・。たった三つの材料を重ねる、あるいは使う術(すべ)さえ知らない。(養老氏談)

多分、コンピューターが「火」をおこし、米を炊き、丁度いい湯加減の風呂が、目の前に提供される事が「あたりまえ」なのだろう。いまさらわざわざ、それをおさらいして何がある?
それこそ無駄というものではないか・・・。ある物をあるとして使いこなせばいいのだ・・・。

確かに、私も時々思う。
おぎゃーと生まれた時から「カラーテレビ」があり、炊飯器があり洗濯機がある。
「エアーコン」があり掃除機があり「ロボット」が留守を守る。冷蔵庫は部屋の大きさほどになってきた。
便利の中で、衛生的なくらしはもうあたりまえの事である。何も驚くことでも、感謝する事でもない。
ごく普通であり、当然であり、あたりまえなのだ。
これから先、もっともっと便利になったとき、人に何を見ようとするのだろうか?


学校の玄関前に昔あった『二宮尊徳』の像は、今はほとんど見かけない。
これが世の移り変わりであり、習いだといいながらも、あえて次に「二宮尊徳翁」の句を書いて終わりにしたいと思います。(私も知らなかった訓ですが、O氏がいつもいっていました。尊徳像の脇に必ず記されていたはずだよ~と)


    報徳訓

 父母の根元は天地の令命に在り
 身体の根元は父母の生育に在り
 子孫の相続は夫婦の丹精に在り
 父母の富貴は先祖の勤努に在り
 吾身の富貴は父母の積善に在り
 子孫の富貴は自己の勤努に在り
 身命の長養は衣食住の三に在り
 衣食住の三は田畑山林豊に在り
 田畑山林は人民の勤耕励に在り
 今年の衣食は昨年の産業に在り
 来年の衣食は今年の艱難に在り
 年々歳々、報徳を忘るべからず


昔も今も、人の「何」をみたとき、進歩とか進化とかいえるのでしょうかねぇ~。
それとも、人には関係なく周りの環境さえ便利になれば、それでもういいんだよ~、とでも?。