霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

健康診断その後・・・

2012年11月30日 | 心霊現象
私もね、高齢者の仲間入りをしたものですから、カゼだけはひきたくないと思って、近くのクリニックを訪ねました。
予防注射をするためです。高齢者はもう10月に入ると、東京の場合は区から通知がきます。
「もう、いいよ~」ってわけです。
早いうちにと思って10月中旬になってすぐに行きました。
去年ですか、人数分が間に合わないといって、制限がかかりましたよね。
だからもう私は早め早めで、行動をとります。(聞こえはいいけど、せっかちなだけです)
そしたらね、帰されちゃいました。
理由は、まだ予防注射を打つのには早すぎるですって。
予防液が効くのは4か月間だけ。だから感染のピークがくる2月、3月はもう効き目がなくなって
いくというわけですね。(一回の注射でよしという予防液ですから)
それでまた出直しです。
ちょうどいいかなと思って行きました。
そしたら「区からきているタダで出来る『健康診断』をしてからの方がいい」と言われて、また出直しです。
書類を持って後日行きました。300円足して「レントゲン」も撮ってもらい、さあ次はいよいよ
インフルエンザの予防注射だ、と思いきや・・・。
健康診断の結果がね、一つだけ引っかかるところがあった。
レントゲンに映し出された「白い線」と、悪玉コレステロールの数値。
クリニックの先生曰く。
『この白い線、何だか分かるかな?』(分かりません。ひょっとして結核ですか、私?)
『あなたねぇ、レントゲンは何も肺に影があるかどうかを見るだけのもんじゃないよ。脂肪も見るの』っていわれても、私は昔から、レントゲンは肺の影を捜し、結核という病名を宣告するばかりのものだと思っていた。が、今は体内の脂肪をも見るのだと言う。
その「白い線(棒)」が心臓にかかっている。
悪玉コレステロールの数値も160以上では高すぎると・・・。
もっと詳しく調べないと「予防注射」は打てないだって・・・。

あーあ、注射だけすぐ打ってくれる医者へ行っちゃおうかなぁ~って、その足を他へ向けようと
したその時ね、「いいじゃないの、ここまで元気で生きてこれたんだから何言われたって。
人生おつりがくると思っているんでしょ、あなたは」って胸のあたりから声がした。
そこで、またまたきびすを返して、「心臓のエコー」とやらをとる予約をしてきました。
心は「まないたの鯉」でしたねぇ。

結果、「ともすれば一生、この薬をのんでもらうようになるかも・・・」と悪玉退治の薬を処方され
ました。
心臓が脂肪に覆われてポンプの役目が弱っていないか、その大きさが肥大していないか、ポンプが体中に押し出す血液の量が正常か等々を調べたそうですよ。
へぇ~、医学がなんと進んできたことよ。
盲腸の手術しか経験のない私には、病院や検査や薬というものに縁が薄かったんです。
幸せそのものでした。
しかし、「かすみ」しか食べられなかった時代の私は、守護霊はじめ、神さえもターゲットにして
脅し続けていましたねぇ。 何を? 決まっているじゃないですか、健康をです。
「私の健康は絶対に守れ!」と。でなければ医者へ行く金がない。もちろん手術も出来ない。
万が一「ガン」になったとして、私は末期ガンになって死ぬから、と霊界に吠え続けていましたね。

その脅しがきいたのか(?)、罰当たりな私を見るに堪えなく思ったのか、結果今日まで「健康」と
思い込んで、元気に生きてまいりました。
『ガンなんてね、出来ては消え、また出来て消えで、案外いつも体にあるものなのよ』って、姉が言ってました。(姉は引退しても、元看護婦ですから)
「油はダメ」って言われても、料理に油がないものを探すのが難しいくらいです。
スカスカになって、ギスギスして老後を送れって・・・。
きっと皺(しわ)がよって、あばら骨が出て、ミイラの一歩手前のような恰好で、これから先生きて
いけとでも・・・?。

でもね皆様、食べるってどれほど希望であり、若さであり人生の励みであり、喜びであり、明日も
生きるぞ、っという精神の高揚であり・・・。
一週間に一度「油」に浸ることにしました。
油の風呂に入るという意味ではありませんよ。
食べ物で、油っこいものも食べる日を決めた、ということです。
私は一応「栄養士」なんですけど、(仕事に生かさなかったから、ペーパー・ドライバーならぬ
ペーパー栄養士)学問的(栄養学的)料理がいかに「まずい」かを知っていますから、自分の体に
聞きながら「今何が食べたい?でもね、それは昨日たべちゃったでしょ。だから今日は我慢」とか
言いながら、大事に至らぬように注意をしているところです。


「いつ、死んでもいいんでしょ」って、言わないでくださいね。
いいんですけどね、実はこのブログね、神様に約束しちゃった結果始めたことなので・・・。
何って?
「本は出せなくなったけど、秘密事項ではないから、むしろ公表したほうがいい事でしょう?
 だから私はブログとして書き残して、あの世へいきます。
 そうですね~、千夜一夜物語みたいに一夜一夜あなた(神)にまずお聞かせしますから、始めてから千一夜だけ、時間をください。あとは、よしなに・・・」と。


書ける日もあり、書けない日もあり。
欠ける日がカウントされているかどうかも分からない日々の中で、私は時には楽しく、時にはむきに
なって、時には悩みながら書いている、とまあこういうわけです。

時々ね「的」がはずれていると気が付く時、「遊び心」もたまにはいいかと、お許しを頂きながら
書いています。
「的」とは、もちろん「神」であり、「真理」であり「天法」です。
「当たらずとも遠からず」という格好な言葉を思い出しながら、今も綴っているのです。


(来週はまた少しの間、留守にします)

知らないゆえに・・ごめんなさい!

2012年11月29日 | 心霊現象
一頃流行った歌で、「わたしバカよね~、おバカさんよね~」という歌い出しの歌がありました。
覚えていますか?
それを地で行ったのがこの私です。
知らないという事は、罪とまではいかないが相手にはそうとうの失礼やショックを与えるという事を、思い知らされました。
それはなにも高度な知識ではない、ただ芸能界や著名人に疎いという事でした。
ある教団に入会した時、TVを見ることは「ご法度」でしたから、約3年の間は新聞を少しだけ読んだ
という状態でした。
「下界」?に降りたらいけないとかいうものではなく、経典を理解するまでは「下世話」な交流を
断つようにという戒めを守っていました。
だから、世の中の若者たちが興味を示す映画、TV、遊び、行楽などというものとは縁を切る生活が
強いられました。
その時から私の芸能の部門に対する「うとさ」が、あたりまえのようにしみこんでおりました。
いまよりは「ゆっくり」と時が流れた感がありましたが、それでも3年もTVを見ないと、その時代の
遊興や流行り歌は全く知らない者となりました。
知らないことに「あせり」や「さみしさ」を覚える間もなく、次から次へと教義の詰め込みや、行動
(活動)が日々を忙しくしてくれていました。


そんなある日外へ出て見ると、『天地真理』というポスターがあちらこちらに貼ってある。
私はそれを「てんちしんり」と読んだ。
そこはどんな真理を教えるんだろう・・・。いつまでも気になってとうとう教団の人に聞いた。
一度行ってみてもいいか?・・と。

笑い話ではない。
それは「あまちまり」と読み、超売れっ子のアイドル歌手の名前だとようやく知った。
(いつ頃の話かは、『天地 真理』の時代に生きた人ならば、よく知っているはずです)
一世を風靡した「アイドル」、その名前さえ知らない私だった。

次も同じ失礼をしたものです。
これは身内の方に対して、「知らない」と面と向かって言ってしまった私の無知さ加減でした。。
野口五郎。(さん、を省きます)
ある日私は大垣市の街を歩いていた。
教会のパンフレットを持っての、家庭訪問でした。
表札なんか見ない。一件残らず、洩(も)れることなく、くまなく回るようにとの注意を受けて
神様の呼び出しを各家に伝える仕事だと、意気込んでいました。
その家は庭があり、広く明るく太陽が部屋いっぱいに入り込む「ステキ」な家でした。
玄関からきれいなおばあさん(まだ若い)が出てきて、ご苦労様と言いながらパンフレットを取って
くれた。
わざわざねぇ、と言いながら「ところでね、うちの孫が今東京で歌を歌っているのよ。あなた東京
ならご存じかしら?」と、私に聞く。
「あらぁ、歌がうまいんですね。うらやましいこと~」と、私はその世界を知らないから、ごまかしながらも返事をした。
「孫の名前はね、野口五郎っていうんだけど、ご存じ?」と私の返事に期待を込めて聞いてくるのが
分かった。
「はぁ、知りません。私そっちの方は無頓着なもので・・・」、とみるみる「おばあちゃん」は
失望の色を顔にあらわした。(まずかったか・・・、しかし知っているとウソを言って、突っ込まれてもかえって困るし、第一失礼なことになる)
「ああ、まだまだ孫の五郎は売れてないのね。今度電話でがんばるように言っておかなきゃ」だって。
後で知りました。彼「野口五郎」はトップアイドルでした。(スミマセン、おばあちゃん!)


その日私は東京・文京区千石を歩いていました。
大きなカバンには、いっぱいのパンフレットが詰め込んであり、重たくて重たくて・・・。
ここももれなく全戸を回る「ノルマ」ですから、アパートの端から端まで奥の家まで声をかけていました。
ある「だんご屋」(甘味屋さん)へ入ると、やさしそうなお父さんが出てきて話を少し聞いてくれました。あまりない事なのでうれしくなっておしゃべりしました。
すると、今度はわたしの番だとばかりに、店の天井部分を見せ「知ってる?」と大きなポスターを
指さしました。
「あら、ええ知ってますよ。有名な女優さん。たしか『大原麗子さん』ですよね」。
「よかった、知っててもらって、じゃこのアルバムも見て行ってよ。今持ってくるからね。
 そうだ、あなた甘い物好きかな?」。
そこで私はとうとう「大原麗子さん」のお父さんの話相手となり、お店のだんごを御馳走になり、
いかに「彼女」がしあわせな結婚生活をしているかを、父の所有するアルバムを見ながら、とっておきの話を聞いたものだ。その時は一回目の結婚だったから、お相手は「渡瀬恒彦」氏。
アルバムには、家族しか見ることの出来ない写真がたくさん貼ってあったものだ。
お店は開店中なのに、客は誰も来なかった。
「今後もよろしくお願いしますね~」と、玄関で最敬礼をするお父さん。
芸能人の家族は、大変なものだと思いながら、「知っていてよかった!」と胸をなでおろしたものでした。
(その後の彼女の孤独死を知るにつけ、お父さんの顔が浮かんできます。心から合掌)



現在『福山 雅治』を知らないといったら、何と言われるんでしょうか?
その名を知らないと、私は身内の人に言ってしまったのです。
知らないものは知らない。(でも身内の気持ちからしたら、ショックですよね)
これは電話の向こうでの事。
出版社の電話番は、どんな内容のものでも一応は受ける。
その後、その内容あるいは要件によっては、各部署へとつなぐ。
クレームから注文、内容の問い合わせから出版の依頼まで多種多様な電話内容と格闘する。
それが私の仕事だった。
夜7時すぎ、注文の電話がなる。
注文内容を聞いてメモし、明日の発送で明後日には着くでしょうと答えて終われば何のことはない。
あとは会社のカギを閉めて帰ればいい。
「ところでね、わたし福山の叔父なんだけどさぁ」(はい、それが何か)
「福山雅治って知ってる?」(何をする人なのでしょうか?)
「歌をね、作ったり歌ったりしてね、バンドもやってるみたいだねぇ」(へぇ・・・)
こりゃダメだ。話にならないと思ったのだろう、「今度テレビ見たら覚えておいてね。コマーシャルなんかも結構でているらしいしさぁ」(はーい、分かりました。ありがとうございました)
どこも大変だ、身内ぐるみで応援もいいかも・・)
その後、私は会社へ「キューピーの会社」から宣伝用の写真が送られてきていることを知る。
「その写真、僕もらってもいいですか」って肩越しに社員が聞く。
「実は僕、福山雅治のファンなんですよ。これコマーシャルの実写でしょ。ラッキーだなあ」。
と、今でこそようやく「その顔」とその「声」とその「姿」が一致した私でございます。


ある日の電話。
『あたくし、佐藤愛子と申しますけど』と、すげぇ「おばさん」の声が電話の向こうから聞こえる。
『北海道、富良野からかけているんですけどね・・・』と低音ですごみのある声が続く。
クレームだ!次を聞かなくっても感で分かる。
それなりの部署へ、それも上の人につなぐべく、お待ちいただく。
が、誰も出ようとはしない。社長も「あんたに任せる」といったゼスチャーで手を合わせる。
相手はあの『佐藤愛子』女史だ。
「はい、わたくしが承ります」。こんな場合は、相手の言い分を全部吐き出させればいい。
こっちの言い分は、その後で話しても充分である。途中では決して言い訳はしない。
ある本の帯(本に巻く帯のこと)の内容と、自分の写真が載せられているのが、気に入らないという
のだ。
『あたくしね、あの方とはもう袂を分かっておりますの。仲良くなんかしていません!
 そんなあたくしが、その新刊を推薦すると思いますか?
 時代は変わっていくんです。帯、全部取り外して、別のものにしてくださいね。いえね、以前はご 一緒してその方の著書の推薦文を載せたことも確かにあります。でも人はいつまでも、心や考え方 が同じではございませんのよ!変わりますの。
 今回は絶対にあたくしは推薦できませんから・・・』。
佐藤愛子女史の書いた本は、「戦争」の本を一冊読んだ記憶があるが、その他彼女のことはあまり知らない。
へたな受け答えをするよりは、はっきりと受け、ハッキリと答えればことは治まるはずである。
案の定、最後は静かにお話頂けた。
『いえね、あなたにとやかく言ってるんではございませんよ。それなりの係りの方に、間違いなく
お伝えいただいて、佐藤がそう申していたとお伝えくださいませね・・・』。
はい、これで一件落着。めでたし、めでたし。


たら、ればの話をすれば。
もし私が「佐藤愛子氏」を全然知らなかったら、「変なおばさんからクレームですよ~」って言いながら電話を繋いだでしょうね。もし、女史に聞かれていたら、『自分を知らないバカを、電話番に
しているのか!って、違う用件でクレームがまたつく事になっていました。
それが「趣味」の域を脱していればともかく、「常識」や「教養」の範囲内のことであれば、事は
面倒になっていたかもしれません。

今また私は「無知」の境地に入っているかもしれません。
歌にしても趣味にしても、IT機器にしてもTV番組にしても、きっと「知らないこと」が多いかと・・・。
最近ね、回る寿司屋さんへいっても、画面を指で押して注文するんですよね。
会計もね、テーブルの上のボタンを押してから清算するようになっている。
お客がするべき「システム上」の動作をしていないと、計算出来ない仕組みになっている。
たかが、回る寿司でですよ。
機械で注文して、機械が届けてくれる寿司。その裏では機械が「にぎり」をにぎっているかもしれない。
便利なんでしょうけどね、暮らしにくくなった気分がどうしょうもなくしてきて、機械より人が相手をしてくれたよき時代をなつかしがっている「私」は、もう時代遅れなんでしょうねぇ。


今はっと、気が付きました。
「知らないってことは、時代遅れってことですよ」って、どこかで声がしたような・・・。






「ものごと」の点と線

2012年11月28日 | 心霊現象
「点と線」という題名の推理小説があった。
有名な松本清張氏の著書である。
点を結べば線になる。しかしそれは、必ず二つの点がなければならない。
とまあ、推理の構造が見え隠れする物語に、私達は一喜一憂したものだ。

また、こんな形もある。

『彼は一人海岸に仁王立ちになり、紺碧の海を睨んでいたが、実際には何も見ていなかった。
 頭の中で一心不乱に情報の断片をつなぎ合わせていたのだ。
 難解にして巨大なジグソーパズルへの挑戦である。
 断片の収まる場所を間違えなければ、情景が見事に浮かび上がるはずだ。
 (中略)
 敵は恐ろしく頭のいいやつだ。ますます面白くなってきたぞ。彼の闘志はいよいよ盛り上がった。
 砂浜に足を踏み入れると、大きな岩の上にドッカと腰をおろした。
 彼は目を閉じ、また頭の中で知識の断片を動かし始めた。こっちは駄目だ。あれとあれをつなご  う。ジグソーパズルは少しづつ形を作り始めた。
  二十分後に、最後の断片が収まるべき場所にピシャリと収まった。
 彼はそのときパット目を開き、心の中で歓声を上げた。
 <ブラボー! この天才には、ぜひお目にかからせていただこう>     』


              (シドニィ・シェルダン 作 『血族』から)

この本の帯には、「空前のサスペンス・現代小説の傑作」と書かれている。
文面の「彼」とは小説に出てくる「刑事」である。(外人の名前は面倒なので彼とした)
この刑事が探せる限りの事実を目の前に置き、そこから浮かび上がってくる犯罪の質、奥深く沈んだままの血族の深い闇、登場人物の背景と事情等々から、その天才的な頭脳をもつ犯人を割り出していく、というものだった。
辣腕(らつわん)刑事が主人公ではない。この小説の主人公はあくまでも他の人物である。

しかし私はこの小説の進みゆく面白さもそうだが、この刑事の点と点を結びながら、それを「絵」にして浮かび上がる情景に「人間の罪」をあぶり出す、というやり方に脱帽したのだ。
ジグソーパズルの断片をはめ込んでいくなかで、カチットはまるその一ツの断片を探して行動する。
人が見過ごす「それ」を決して捨てない。
確かなものをはめ込めば、その情景(絵)は確実に「真実」を語る。

このようにして犯罪の捜査も、そして人生の真実の意味も、さらに神の声からうかがえるその意図も
必ず確かなものとして、その姿を現すはずである、とそう思っている。


今私達がこの世に生き、日々味わい続けている人生の機微(きび)の中で、あるものを忘れ、あるものを捨ててきた。
しかし、捨てたものの中に「神」が意図する大切な「断片」があるとしたら・・・。
私達は、永遠に真実の「絵」を見ることなしに死んでゆく。
自分の人生なのに、それも一度っきりの人生を何も知らないで死んでゆく・・・。
これって・・、気持ちいくないでしょ(今風にいう)。
これは個人の人生においての事である。
が、一つの血族においてもそうだ。同じことが言える。
血統の点と点を繋いで、浮かび上がる「絵」あるいは「情景」を見たいとは・・・、実は誰も思わないのだ。
国家においてもだ。
そこに私達が、遠くその「ツボ」を神の前に外し続けてきた歴史をみる。



さあ、がんばれ、がんばれ!
まだボケる年じゃない「あなたがた」。
これからだって間に合うでしょ。断片を探して繋ぎ合わせるくらいはね。
人生の不思議は、偶然ではないのです。
その背景に見える「霊界の思い」を、是非あなたの人生という「絵」に埋め込みながら、「真の意図」を探り当ててくださいませ。
人の人生は、「絶望」に向けて誕生させられたものでは決してないから・・・。

『永生』

2012年11月27日 | 心霊現象
「永生」は「えいせい」と読みます。
またまた「蓮沼門三主幹」の言葉です。
「道のひかり」という言葉集の、第九章として載せられています。
神道を中心とした神、しかし聖書でいうところの神と、蓮沼氏のとらえたその確かにまします「神」
と人の生き方を、このように記されているというところでしょうか。
そしてそのご自分の人生に、確実に実践された足跡としてこれらの「言葉」がのこされたことを偲ぶ
とき、それがまた「真理」に通じることを思い知るのです。
全十章にわたる言葉の中の、第九章をここにご紹介いたしましょう。


  第九章  永生


  中天(ちゅうてん)に輝く太陽もやがて西山(せいざん)に沈むべし。
  咲き誇る花の色も褪(あ)せては土に帰るなり。露より脆(もろ)き人の生命(いのち)
  たれか明日(みょうにち)のわれあるを知らん。
  青雲(せいうん)の志胸に燃ゆるとも紅顔(こうがん)果たして幾時ぞ。
  玉楼(うてな)にむすぶ栄華の夢も覚めては悲傷(ひしょう)の涙あり。
  功(こう)成り名遂ぐるもその霊は満たされず、富足り身健(すこやか)なるもその魂は
  医(いや)されず。
  全世界を得(う)るも生命(せいめい)を失わば何の益かあらん。
  肉に属(つ)ける心には肉に属ける悩みあり、地に属(つ)ける情(こころ)には地に属ける
  憂(うれい)あり。
  頼むべからざるものを頼み依(よ)るべからざるものに依らば、いずれの日にか平安を求めん
  や。
  百計(ひゃっけい)尽くれども希望(のぞみ)を失わず、病めども悲しまず老ゆれども衰えず、
  死ねども朽ちぬ生命は、誠に実(まこと)に神を知り仏に仕(つか)え、その恩寵(めぐみ)
  によりてのみ与えられる。
  絶えず霊光(れいこう)に照らされ大愛(たいあい)に励まさるる時、艱難(かんなん)何か
  あらん窮乏(きゅうぼう)何かあらん。
  水火(すいか)も辞せず白刀(はくじん)をも怖れず、聖旨(みむね)のままに、血と涙とを
  彩(いろど)りつつ人世のために戦うなり。
  たとえ世に敗(やぶ)れ肉に死すとも、その明魂(めいこん)は輝きて暗き現世を照らし、
  その英霊は降(くだ)りて悩める後人(ひと)を慰め、永久(とこしな)えに人の魂の中に
  生きて亡びざるなり。
  智ある者よその智を誇ることなかれ、冷やかなる魂は悩みの中に亡ぶべし。
  権(ちから)ある者よその権を誇ることなかれ。驕(たかぶ)る魂は憂いの中に亡ぶべし。
  富ある者よその富を誇ることなかれ、淫(みだら)なる魂は奢(おごり)の中に亡ぶべし。
  ただ誇るべきは、神を知り仏を仰ぐの一事(いちじ)のみ。
  ただ誇るべきは、霊光によりて永生を得(う)るの一事のみ。
  ああ平安の生涯は霊光(ひかり)によりて導かれ、永遠の生命は恩寵(めぐみ)によりて与えら  れる。


    花は散りにほひも消ゆる人の世に

        永久(とわ)のいのちを種子(たね)にのこして





昨日見たTVでね。
かの世界一の美女と言われた『エリザベス・テーラー』に、こう聞いた人がいたそうです。
「あなたが手にしなかったものは、もうこの世にはないでしょう・・・」と。
結婚8回、離婚が7回。富と名声はほしいままにしたであろう「彼女」が、それに答えてこう言う。

「明日という日を手にしたことは、ないわ」と・・・。


はい、今日はこれでおしまいです。

「愛」という名の赤壁(レッドクリフ)

2012年11月26日 | 心霊現象
長く人と関わってきて、私はいかに人は「愛」という名の壁を越えられなくあがいてきたかを知る。
それがいずれ「恨み」となって、人生を思ってもみない方向へと引きずることも承知の上で、その愛
に溺れ続けるのだ。
「愛の奴隷」という題名そっくりの人生模様が、エデンの園以来の人類がたどる宿命と言い切るには、あまりにも情けなく、非常だ。
しかし愛に翻弄され、愛に傷つきはてそのあげくに命をも失う「さだめ」に、なぜ人はそれでも囚われ続けるのか・・・。


登るに登れない、越えるに越えられない「この赤壁(せきへき)」は、文字通り人生の神に至る
分岐点である。
つまりエデンで起きた事の「罪」の経緯を逆に元返すには、自分を中心とした「愛」に決別し、それを切り捨てて「親」に帰る、ということしかない。
神の創造によれば、愛は絶対的なものとして人類に与えられた神からの「子としての証」であった。
その「愛」を親の神へではなく、天使の誘惑にのり「幻の愛」(架空の愛)を真実の愛と錯覚して心に刻み込んで「今」に至ったという経緯を知らなければならない。

ずいぶん前に流行った歌。大橋 純子さんがうたっていたと記憶している『サファリナイト』。

 ♪ 人は悲しい獣(けもの)
   追われるほうも 追うほうも
   愛し方を 知らないなんて
   アスファルトに 降る雨は すぐに乾く 都会の涙  (間違ったところはご容赦を)

これは、私のこじつけである。
はたして作詞家が、人類の罪だ、清算だ、救いだなどという抹香くさいことを意識して作っているわけがない。
しかし、「本当の愛」そしてその「愛し方」を知らないで、生を紡ぎ続けて人類歴史が今に至っていることは、確かだ。


人が誕生してから先ず知る愛は、親子の愛である。そして次が「異性」への愛、そしてさらに博愛、人類愛といってもいい。そして自然、森羅万象に向ける愛。「動物愛」もそれに入る。
結局「人」は「愛の完成者」となって霊界へ行く。
これが、神の人に与えた目的と言える。(愛からみた場合ということである)
しかし、この「愛の壁」。つまり神に近づく道のりに、必ず立ちはだかる「障害物」、これが愛の
壁である。
情の中でも最も深く、気高く、本来はその生命と等しいくらいの位置ずけをもって人を左右するもの。これがなければ生きてはいけない、あるいは次の生命へと続く道がない、とまでも思わせるもの、これが親と異性への愛である。
これを「切れ」と、神は言う。
その教団の教えは、そこから出発した。
「イサク献祭」とは、そういうことだった。人は物には最終的には執着しない。

「彼・彼女」と一緒に手をつないでその勉強会に出た二人は、結局は戻らなかった。
一人で研修会に出た人も、親の情に負けた。
そうなのだ。これが普通なのだ。
今の生活や、人生設計の途中でそれを曲げさせる「もの」は、例え神といえども、真理といえども
「自分は、いりません!」、これが2012年に生きる地球規模の人間の答えでもあろう。



小笠原家の姫を守護霊にもつ「彼女」も、そうだった。(「霊界の人脈」に出てくる人)
人智をこえたところからの「なんらかの作用(働きかけ)」がない限り、人の心は常識の域を超える
ことは不可能である。
かつて書いた通り、100人中、99人は確実に蹴る。
神あるいは先祖からの呼び出しは、結局こうして愛の壁の前にもろくも崩れ去る運命にあった。
が、「彼女」は最後の「夢」で変わった。
その見た夢とは・・・。

婚約一歩手前の彼女は、分かっていた分悩みはした。
が、最後の一歩を踏み出すことが出来なかった。
「彼」に相談したとして、反対されるのは人情からも常識からも当然だと覚悟していた。
自分の心、いや「魂」だけが叫び続けていた、と彼女は後で語る。
悶々するうち、夢を見た。

二人でなぜか「線路」を歩いていた。
向こう前方から汽車がくる。すごいスピードで迫りくるその列車が目の前に来たとき、二人が繋いでいた「手」が離れた。
そして二人は線路の向こう側と、こちら側に分かれて転げ落ち・・・助かった。

はっとして目が覚めた。
まだ心臓がドキドキしている。寝汗もかいて・・・。
しかし「彼女」はその意味を悟った。そうだ、あれの事だ。それしかない!
人智を超えたところから、それもあらがえきれないところからの暗示だと思った。
彼に会ったら、自分は多分負けるだろう。決意が鈍ることは目に見えている。
彼女は手紙に書いた。
「私達の知らないところからの呼び出しを受けた、として私は行ってきます。もう縁は結べないでしょう。しかし、どこかで、例えあの世でも、もし逢えたら、今よりもっといい女になったと、あなたが感心するような女になっているから。そして、よくぞ俺を蹴ってくれたなと、むしろ言ってもらえるくらいの魂を持った女になるためがんばるから、すべての事を許してください」・・・と。


結果「彼女」は泣けるだけ泣いて、その「愛の赤壁」を越えて行った世にも稀有な存在となっている。
私が数多く出会った人々の中で、愛という赤壁を越えた人はあまりにも少ない。
「それでも、わたしを取るか・・・?」との神の試練は、「失楽園」の結果における人類への手かせ、足かせとなっている。
では今の愛は、何なの?
と、もし聞かれたら、いずこも幻であり、かげろうのようなものであり、一時の蜃気楼のようなものと、申し上げざるをえない。
順序からいえば、親の愛を知ることが最初である。その段階を飛び越えて知った「異性への愛」。
この番狂わせこそが、エデンの園の失敗だったと、聖書が教えている。
「聖書」こそは読みようによっては(信じれば)、「赤壁」には違いない。
しかし人は、自分にとって都合の悪い壁は避けて通ることをも知っている。
その運命は、避け続けたことによる結果、つまり自業自得という法則に則るということもまた真である。

私もいま、どうするか思案している事がある。
逃げる事は出来まい、と思っている。ならば、迂回して避けて通るか・・・?
それも嫌ならば正面衝突、つまり闘うしかない。
これは他人事ではなく、身内の事であれば、『いよいよきたか!我が人生の最期の時と知って・・』
と思うことしきりである。
あの世からみた時、やり残しがあることは私といえども百も承知である。
しかし、なぜ私なの? なぜ今なの?

言ってもいいなら、こんな事を一度私も言ってみたかった。
『わたしはもう、月へ帰る』・・・、と。

その後、思い出した。
コマーシャルでは「まだ債務が残っておろうが」と、おばあさんが言って・・・。
そうか、私もまだあの世からみれば、いえ神からみれば「債務」が残っておろうが・・・、という
事だ・・・。

みなさんと一緒に、がんばるしかないのですねぇ~。