霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

ピラミッドと「神社」は類似している?

2014年03月30日 | 心霊現象
「絶滅危惧種」という言葉がある。
これはなにも、魚や動物や昆虫のことだけを言っているのではなさそうですよ。
先日TV報道では「言葉」のことを言っていましたねぇ~。
その言葉で、絶滅に近いものの一つに「アイヌ語」があるとか。
日本の原住民となれば、もっと掘り起し、そこから見えてくる真実をもっと探ってもよかったかも知れないのに・・・。
そこで一念発起したのが、北海道に住む「アイヌ民族」の人々。そして学者たち。
私達「和人」と呼ばれた者たちは、蝦夷征伐と称してほとんどを無くしてしまった。
彼らアイヌ民族の生き方、つまり自然と人との関わりにおいて、無駄なものはない、と解くそうだ。
子供が老人に聞く。「なんで蚊なんているの?いなければいいのに・・・」と聞くと。
答えはこう返ってくるという。
「一匹のマムシがいる。こんなもの毒で人が死ぬくらいなら、いなくてもいいんじゃないかと思うだろう?
実はね、山で熊に出くわしたお爺さんがもうダメだと観念した。そしたら、どうしたのかその熊がどうっと倒れた。マムシが熊の足に食いついたんだね。お爺さんは助かったというわけさ。だから何でも神様から造られたものは、意味がありどこかで役に立つようになっているんだね。だから大切に思う心と、大事に使うことが大切なんだよ・・・」と。
(隣のじいさま、マムシに食われて死んだけど、これはどうなるの?などとは決して聞かない?)


素朴といえば素朴であり、何とほほえましい生活態度だろうか。
まさしく現代人が忘れ去ったと思える感性を、今もって示し続けていると見える。
「アイヌ」の感性から現代を見つめるとき、何がどのように見えるのだろうか?・・・。


歴史の中に埋もれていった民族は多々ある。
が、今も少数ではあるが生き延びたものに「エトルリア人」がいるという。
その民族から学ぶことは、出土された物が無言にも語る数多い真実であるという。
彼らの日常は、すべてが「来世」のためにこそある生活様式だったという。
「今」は、来世に渡ったときのためであり、そのためにこそ戒めもいとわず、苦労も清貧をも耐えた。
「あの世」あるいは「次に生きる世」が人生の目的であり、全てである。
彼らのいう「来世」とは、どのようなものとして描かれていたのか?・・・。
来世を楽しみにして日々を送っていただろう充実した生活。それはどんな生き方だったのか?・・・。

「ツタンカーメン」などで有名になった王家のミイラ。
それは再び肉体に宿るという生命を意味したものである。
死して肉体が無くなっては、再び命を繋ぐすべがなくなる。
あの世に生きるには、肉体を滅してはいけない。だからその「保存方法」を知恵のありったけを絞ってあみだした。
つまり「内臓の取り出し方」を、一番いい方法で見つけ出した。
遺体の傷を最小限度にとどめ、内臓を全部取り出す。そして防腐剤で腐敗を防いだ。
それが幾千年という時間を経ても、その時代のままに現代の我々の目の前に違和感なく再現しうる内容で、驚きと喝采を受けるにふさわしい姿を見せる。
今でこそ「頭蓋骨」で、その人の頭部が再現できる時代を迎えた。
ならば「ミイラ」は、全身の姿を生前のそのままにほぼ似た形で再現可能であろう。
「来世」という命の次なるステップのために、民族も文明も文化も時こそながれたが同じ目的のために刻まれてきたと知る。
そして「ミイラ」には「仮面」を施し、その絢爛豪華と「微にいり細に渡る工芸」の技・術に、驚きをもって現代人は見入るのだ。
この世から「あの世」へと渡る乗り物が、彼らには馬車となる。
ゆえにミイラの周りからは「馬」の骨と車が出土するという。
つまり馬と車の化石が、土から、砂から掘り出される。
彼らの死生観は、このように徹底して営まれていった。
今でもそれを先祖とするエトルリア人は、その生活の中に脈々と流れる「意識」を大切に生きているという。


では「あのエジプトのピラミッド」は、何か?・・・。
現代の謎だとも言われる「あの建造物?」は、誰が何のために造ったのか?。
ここで日本人考古学者であり、大学名誉教授である『吉村作治氏』が登場する。
彼はほとんどの時間をエジプトで過ごし、研究にその人生を捧げているといっても過言ではない。
彼をして「ピラミッド」とは?と問えば、その答えは結果「こう」出る。
「それは墓ではありません。ピラミッドとは来世のものであり、あの世で見る景色なのです」と。
さらにこうも言う。
「日本の神社と同じです。神社にある狛犬(こまいぬ)ね、あれがピラミッドにあるスフィンクスなんですね。日本の神社は鳥居を通り、玉砂利の参道を歩いていく。
狛犬にあたるスフィンクスの向こうに偉大なるピラミッドがある。そこまでの長い道・・・。
ね、日本の神社とそっくりです。
歴史学者はピラミッドの思想、つまり「来世」の思想は日本で止まり、神社として集大成したものだと・・・」。
ですって・・・。


さらに、日本の「祭り」の形態があるものにそっくりだと、言われて久しいことがあるのです。
あの「御神輿」(おみこし)。
鳥それも鳳凰が天井にいてその足で箱を踏んでいる。
その「御神輿」の中に何があるの?・・・。
昔々、エジプトを出たおり、イスラエルの民に神が与えられた十戒、それを一度モーセが壊し、再び断食して授かった戒め。「もう二度と不信いたしません」との「その契約」を記したものを箱に入れて、ヨシュアとカレブを中心にカナンの地へと渡っていった民族移動。(いわゆる契約の箱である)
それが日本の祭り「御神輿」だというのです。
だからイスラエルと日本の共通点は、今だに謎ではあるが実に多くの事を物語っているというのです。中には日本はイスラエルの末裔か?、とさえうがった考えを示す者さえ現れる。


今そのまっただ中にある「歴史認識」問題は、第二次大戦などという短いスパンなどではなく、もっともっと根本的な、つまり「人類発祥」にまつわることから考察すれば、実に面白いことが見えてくるのかもしれません。

私達は、時には宇宙を気にしてみてはいかがでしょうか?。
伊能忠敬のような「宇宙から見た自分の位置」などという大袈裟なものでなくても、せめて信号待ちをしている時に上を向いてみましょうよ。
ほら、夜ならば月が。そして昼ならば飛行機雲が見えたり、ヘリコプターが飛んでいたり、さらにその上に飛行機が灯りを点滅させながら飛んでいたり~。

時々そうする私ですが、ん?何?変なの?って、2、3人立ち止まって上を見始めたときは、さすがにこの私も慌てましたけどね・・・。(決して指をさしてはいけません!これだけは守ってね)



「セクハラ」はどこまで許す?

2014年03月29日 | 心霊現象
今日はちょっと「どぎつい」内容で、一発お見舞い申し上げます。
「♪もうすぐ春ですねぇ~」と思っていたのに、今日あたりは花見真っ盛りとなりそうな「いい陽気」だとか。
こういう陽気が、ある意味また怖いんですよね。
一つは「芽吹きどき」といい、うららかで眠気をもようす頃、精神状態が「よからぬ思い」を呼び覚ます。
ご老人たちは体調不調になり、気だるくて床からは起きたくない。
「まだ寝かせて~」と、あの部屋もこの部屋も起きてこない。
ま、90歳を越えればさもあらんと、若者の特許のように「春眠暁を覚えず」と、早起きはお勧めしまい。

その一方で職場がなぜかざわめき始めた様子。
職場における「セクハラ問題」が勃発した。
私には「セクハラ」が何なのか、いまもってはっきりしない。
どこまでの行為がそうなのか、またどんな言葉がそれに当たるのか?・・・。
「いじめ」とは質も行為も大きく違うのだろうが、された本人が「そうだ」と感じた瞬間が「そうだ」と言えるならば、まさしく芽吹き時に咲く異常の花が今なのかもしれない。


「何があった?・・・」、顔をひきつらせて青い顔で訴える女性介護士。
異様な雰囲気は、最近の私には敏感に感受出来る。
リーダーが話してこないうちは、こちらからは聞かない。
人の集まるところには、決まって何か問題はつきもの。いちいち気に病んでは身がもたない。
出来れば私のような者、つまり高齢者となり「あの世」の付き合いが始まりかけた者にとっては、下世話な浮世の話はご容赦願いたいもの。
が、同じ同僚としての気遣いもあれば、事次第によっては無関係ではいられない。
職場におけるセクハラ?・・・。この長い人生に私は経験したことがない。(もちろん自分の身に関係したことも、社内においてもという意味で)

こんな私でさえも
「痴漢退治」をしたことがある。いわゆる「痴漢」を御用!にしたのだ。
痴漢男を警察に渡した、という事である。
自慢して言うことではない。出来ることならば、そんな場面に出くわさないほうが得でもある。
が、若い時。そうだ私にも若い時があった。
映画館でのこと。
隣に座った男が手を動かす。段々私の身体に触れてきた。
腰であり、太ももであり膝である。もちろん手で払いのける。がすぐまた探り始める。
二回三回繰り返すと、今度は内側をまさぐり始める。
「ぎゅっ」と手をつまみねじったが、・・・。
さてどうする?。大声をあげて観客の前に「この男」を差し出すか、それとも・・・。
観客はある意味いい迷惑だろう。さてどうする?このまま見過ごすか?・・・。
一端その席を立つと、私はロビーに出て係員に通報した。
すぐ目の前が交番となれば時間はかかるまい。
再び席を見ると、今度は違う席で「新しい獲物」をいやがらせ中だ。
その女性もとうとう立ち上がって「違う席」へと移った。
次は?とみていると、また違う席へ移動し三番目の獲物を狙っている。
早く来ないと、逃げちゃうのに~。(おまわりさんって、案外来るのが遅いんだ?・・・)
と、やっと来た!。
丁度一人の女性が立ちあがったのを頃合いにして、つまり現行犯の証拠を見て静かに「その男」に近づいていった。
そして「その中年の男」は御用となった。実に静かな捕り物の場面である。
その後「最初から映画を見直してもいい」とのことで、タダで二回映画を観て帰ってきた。
まさか、まさかこの男は『それでも僕はやっていない!』など、言わないだろう。

またこんな事もあった。
聞きしに勝る地下鉄「丸の内線のラッシュ時」の混雑ぶり。
息が出来るだけありがたい、という時がある。
人に押されて、意に反するところへと押しやられる。
私はそれが「来るな」と思った時、近くに「花柄のブラウス?」を着た人がいたので、そこをめがけて押されていった。思った通り、すごい混み具合となった。「彼女?」の胸の位置に私の顔がある。
その顔をぐいぐいこすりつけながら、「いい臭い」をかいでいた。
ん?、ちょっと違う。何が?・・・、胸がない!。
顔を上げてその顔を下から見上げると・・・。なんと、ひげがところどころ伸びていた。
「男?」、そうだ。その「花柄ブラウスのいい臭いのする人」は、男だった。
おまけにイヤリングもつけていた。
これが東京なのね~!。私はそのブラウス男からみれば、顔を胸にぐいぐい擦り付ける「チカン女」
に見えただろう。
もしそれが、今のように敏感に反応する時代であたら・・・、「それでもわたしはやっていない!」と、申し開きができるだろうか・・・。
いやはや「犯罪すれすれ」。いつ誰によって「それ」は、犯罪と化すのでしょうねぇ。


職場の雰囲気は、一日中色めき立っていた。
複雑に絡む同僚の心情模様。
日頃「その男」を面白く思っていなかった者にすれば、ここ一番、今だ!とばかりに足元をすくおうとするだろう。
その成り行きを興味深くみようとする人の心が交叉する。
上(上司)に呼ばれて今「その男」は、ここにはいない。
その後リーダーが呼ばれて帰ってきた。
そしてその男も、すまし顔(私にはそうみえた)で帰ってきて何事もなかったかのように、普段通り仕事をしている。
『結婚は俺とするんだ。後で親に挨拶するから!』と、半分脅迫めいた台詞で威嚇されたとする「彼女」は、「嫌ならわたしの方が辞めろってことね・・・」とため息まじりにつぶやいた。
両親には伝えてある。あとこれから何度も何度も言われたら、本当に「ここ」を辞めることになる。
「わたしの方が辞め、逃げ出すように思われる。これっておかしくないですか?」と憤懣やるかたないといった顔で言う。
この男は50代。彼女は20代。ここが初めての出会いであり職場である。この癖は過去もあり、訓告の末解雇、あるいは身を引いたという「前歴」(前科ではない)を持つという男が、何事もないまま終わってくれればそれでいい?・・・。
その上(上司)の判断ミスが、ともしたら今後の自分に降りかかりはしないかと、またまた疑心暗鬼の種が蒔かれ、日を追って何かしらの芽が出、花が咲き、実を結ぶのを危惧する面々である。
「シフト」という勤務体制の中で働く者にとって、今日は誰と組むのかは「士気」にかかわるものだ。
ましてや嫌々とか戦々恐々とかいう心理状態で働く時間は、出来れば避けて通りたいものだ。
何度目かは知らない。例え「ここで」許されたとして、次はどのような形で「病」が、はたまた「因縁」が、そして時は今とばかりに答えを出すとき、私は知るだろう。
「あの時」の「強姦事件」と同じ心情圏を。
「彼女」は訴えることを視野にいれながら、20代半ばの若さを見つめている。
ことによれば、訴えるのは「会社」と「その男」双方になる。


私は今だに「許し」が分からない人間でいる。
たった一つ、それも「性」を蹂躙する行為は、許さない。
例えそれが因縁であったとしても・・・。
私の過去味わった「復讐心」は、今は眠っているかにみえる。
いつまた目を覚ますか知れたものではない。その件においては、何も修行を積んではいない。
そしてここに居る。
だからかもしれない。まさしく「地獄の門番」たる所以(ゆえん)だろう。
霊界の門。そしてそこにある「地獄の門」。
私がこれから、そう遠くはないいつか行くところ、地獄の門の門番。
残されたわずかな時間が迫る今、またもや「セクハラ問題」で心を試されている私である。

さらに「おまけ」がついた。
私と「その男」は、シフトが常に一緒となった。
70歳近い「いわくつきの女」(私のことである)と、「セクハラ男」との今後の対決が、そしてこれからの行く末が楽しみである?。


そして日々、神様に何とご報告しょうかと、今から武者ぶるいをしております・・・。
これぞまさしく「私を計る秤に乗る事」でもありますからねぇ~。




介護貧乏

2014年03月25日 | 心霊現象
月曜日、「たけしのテレビタックル」でやっていたもの。
三時間番組の最初に取り上げられたものが「これ」でした。
超高齢者社会がすぐ目の前に迫る「今」だこそ、取り上げられた内容でもあるのでしょう。
が、その実態ははるかに想像を絶するものでもありました。
社会(世の中)が変わったから、人が変わったのか・・・。
それとも人が変わったから、世の中が変わったのか?・・・。
この番組を見ながらも、「昔はそうではなかった・・・」と、つぶやく人もいたのではないかと思われるのです。


最初の話題は「介護前離婚」。
「その時」ではあまりに露骨だと、先に見定めたその時、つまり少し前に離婚を決める夫婦のことを言っていた。
夫婦には、介護を必要とするであろう予備軍?が四人いることになる。
つまり夫と妻のそれぞれの両親である。
妻は出来ることならば「自分の父母」の介護がしたい。夫の父母までは面倒を見きれない。
体力的に、経済的に、そしてなによりも「心情的」に実の父母の面倒を見たい。
夫の父母は彼がみればいい。と、こうなるのだ。
だから「その時」になってからではなく、少し前に離婚する・・・。
なるほど、なるほど。
昔はね、「嫁にいく」とはそういうことではなかった。
嫁いだ家の者になるのだから、実家の父母は実家に任せるほかない。
多分長男がいれば家を継ぎ、建物から財産から父母の先行きまでの一切合切を譲り受けた。
都合のいいことも、悪いことも一切であった。
そして「家」や「家系」が成り立っていったのだ。

しかし今は違う。
結婚とは「二人」だけの結合であり、そこを出発点とする。
過去だの家系だの血族だのは、この際関係ない。
愛する者だけの自由の世界。自分を縛るものは全部切り捨てれば、事は足りる。
そう思うことが、結婚という常識になっていった。
既成事実の前には、両親といえども何も言えない。つまり「出来ちゃった結婚」は、完全にまかり通る時代となった。(霊界が複雑になるとも知らないで・・・)
そして時を見極め、都合にそぐわなくなった時「もういいでしょう」とばかりに別れを言い出す。
自分勝手に、と怒る者も諌める者もいなくなった「良き時代」に、彼らは青春を謳歌して今を迎え・・・、そしていずれ老いていくのだろう。
その老いの先に何が待ちうけているのかは、・・・誰も知らない。


もう一つの「介護貧乏」。
ある45歳の男性の話だった。
大手企業の中枢にいた彼は、年収950万円という恵まれた環境にいた。
なぜかまだ独身だった。そんな時「父親」が倒れ、介護が必要になった。
彼は何とかやっていけるだろうとふんだ。経済的にも体力的にも、そして心がそれを望んだという。
最初はよかった。父を助けることに生きがいがあった。
しかし蓄えの1000万円は、想像以上に早く消えて行った。
一年くらいで父親は亡くなった。
葬式や墓を作るのに、ほぼ貯蓄は使い果たした。
さて、しかしまだ40代だ。50にはまだ間がある。
たかをくくっていた自分をようやく知ったのは、その後の就職活動を通じてだった。
世の中がこれほどに辛辣だとは思わなかったという。
ハローワークの窓口で、何度「年齢」に引っ掛かり面接にさえも辿りつけなかった。
年収950万円の生活しか知らない彼は、日に日に落ちぶれていった。
家賃の滞納が始まり、住む家を失った。
行く末は、道路に出ることしかなかった。つまり路上生活である。
こうして思ってもみない「路上生活者」になった自分。
一年前は、こんな境遇の人は所詮他人事だった。テレビの向こうで「炊き出し」をもらう人を自分はTVを見ながら不思議な思いで見ていたものだ。
それが今、自分が「ここ」つまり路上にいる。寝る場所は新宿のとある公園のベンチだ。

過去5年間に49万人が介護のために離職しているという。
昨年は年間10万人の人が職を離れた。
国も地方自治体も、今後の高齢者社会に向けて手厚い福祉を約束しているかにみえる。
が、実態は明るくも、輝かしくも、幸福でもない福祉社会(国家)の影の部分が見え隠れする。
有料の施設は「頭金・預入金」と称して20万~25万円収める。
さらに一月の料金が15万~22、23万は必要になる。
四人の夫婦の両親を預けたら、一家は破産の憂き目にあうだろう。
では一人が犠牲になれば済むことだろうか・・・?。


「あなた」は、今の現実から何が見えますか?・・・。
きっと先になって「まさか・・・」とか、「想定外」などとは言わないでしょうねぇ。

今でいう「認知症」は、昔は年寄病といい『あっこんちのばあさま、もうぐれなったそうだのし』といえば暗黙の了解で、誰でもが納得したものでした。
そこの家では「開かずの間」があり、その「ばあさま」が家族によって養われていたものです。
隔離したようにはなっていても、誰でも日に一度は覗き、「元気でいなすっかね」といって、ご機嫌伺いをしたものです。
介護学も、介護用品もヘルパーもいない時代でしたが、「家族」がいて「長男」がいましたからみんなの中の一員として暮らし、最後は看取ってもらいながら息を引き取るのでした。
身内の死に初めて会うという順番からくる「死に目に合う体験」は、こうして自然の成り行きで経験出来たある意味幸せな時代だったといえましょう。


日本の家族が形を失っていくとき、その心も失われてゆくのではないかと心配です。
福祉や介護や施設が悪いのではない。
その便利さの裏で、やるべき事を忘れないがしろにし、あわよくば楽をして利のみを求める者に成り下がることを危惧するということです。
ま、霊界があり血統があり先祖があり・・・、今まで私達が学んだことは結局「何が大切か」を教え諭していたのでしょう。


すでに「答え」をご存じの皆様に、私は深い信頼をよせてこれからも綴っていきたいと思います。

「もう限界です!」という心のテスト

2014年03月24日 | 心霊現象
がんばって18時間の「寝ずの番」を終わって、帰ってまいりました。
コメントを頂き感謝でございます。
『がんばりすぎないように・・・』とのお言葉が、胸に染み入るようでございました。
今の私を、まるでどこかで見ているような、そんな気さえして泣けてきます。
そうなんです。みんな頑張って、頑張ってここまでついに来た。
そしてその先は、それぞれが少しずつ違う方向を向き始めたようです。


いろんな限界を感じ始めるのも、「今頃」でしょうか・・・。
少しは回りが分かり始める。それが同僚であり上司であり会社組織そのものであり・・・。
さらに介護という業界であり、自分の技術(技量)であり志の甘さであり、とまあ頑張って走って、二月が経とうかというこの時が、一番己をしみじみと考える頃のようですね。
三か月の「研修期間」といわれて、たかが三か月と思った人も、予想だにしなかった事(出来事)にぶちあたれば、初心など脆くもぶっ飛び、すたこらさっさと逃げ出したくもなるというもの。
いや、そうではない。
私達は「この三か月」を甘くみていた。
この世で計る「三か月」なら、あっと言う間であり仕事や環境や人に「慣れさえすれば」いいと、タカをくくっていたかもしれない。
しかしどうだ。想定外の事が自分を見舞う。
「このわたしが、お客に嫌われている?」。
「このわたしが、この仕事に向かないと思われている?」
「このわたしが、上司に役に立たないと思われている?」

などなど。
いろんな「疑心暗鬼」にみまわれ始める。
なぜ?・・・、ほらほら「長成期完成級」を忘れている。
「サタン」が一番狙いやすい「時」は、「そこ」だったはずであり、人類歴史は常に「そこ」で失敗してきた、という歴史の繰り返しがあった。
何と大袈裟なと言われるだろうが、「時」を軽視してはならない。
個人から団体、国や民族に至るまで「時間との勝負」には鉄則があるのだ。
そして「それ」を一番よく知っているのは「本人」よりも「サタン」である。
霊界である、といってもいい。
試しの時は、そうして我々の心を確かめはじめる。いわゆる「心のテスト」である。
「あなたは、これでも耐えられるか?」「この人についていけるのか?」「それでもやりたいか?」と、あらゆる角度から試しの矢が放たれる。
この三か月こそ「自分との闘い」になる。疑心暗鬼の連日の中で、「わたしは、何の目的でここへ来たのか」に焦点を当て、その答えをはじき出さなければならない。

人に可愛がられるために来た者は、すぐに出て行ったほうが身のためであろう。
疲れるから、汚いから、可愛くないから嫌というならば、最初っから的外れだったことを反省した方がいい。


結果、今日までに一人が辞めた。
いや、首になった。ま、「身から出たさび」と、私は解釈しているが、人はどう分析したかは分からない。
その「処分のしかた」、つまり「しうち」に対して「否」を唱える者たちは、次の機会を狙って「自分の言い分」を強行に「上」に「会社」に推し進めていくだろう。
私は今人の動きを見つめている。
ある意味冷静に、またある意味冷たく・・・。
それは「言葉一つ」で反応し合う。ちょっとした言葉それも「上役(リーダー)」が吐いた言葉に異常ともいえる敏感さ、反応の速さを示す。
「許せない!」・・・と。
まるでここは戦場か、と思えるほどの激情ぶりに驚く。
「冷たく見据える私」には、職場ではなく「ここは戦場」と化す。
まるで「関ヶ原」のまっただ中にいるような錯覚さえ覚えて、「組」が、「派」が出現する。
旗こそ立てないが、それぞれの言い分を背中に背負って相争う様が見える。
「何が言いたいのか?」・・・。結局どうせよと言いたいのか?・・・。


時は今。
どこかで聞いた台詞だ。何かが始まる時は、決まってこうだ。
一つのものが二つに分裂し、さらに分裂を繰り返し、次第に「良きもの」にと変わっていく?。
「正反合」、こうして歴史は繰り返して今に至ったという?。
だから反発こそが、分裂こそが「良きもの」を産みだす原理原則のものであり、正義だと説くこの思想。それを唯物主義、社会主義、共産主義の思想の原点といって近世の世界を作り上げようと計った。
見えない世界が糸を引く。つまり霊界が意図をもって引き寄せ、手繰り寄せ、一つの集団を作り上げていく。
「あなたは何をしに、ここへ来たのか?」・・・。
全ての限界を今自分に感じ始めた「今」だから、立ち止まって己の魂に呼びかけ、問い正してみよう。
神の世界は、「正反合」ではない。
反発や分裂からは何も生まれない、と解く。

私に与えようとされた神の「最終ステージ」。そして「ここ」。
何をしに、何を果たさんと、私は今ここにいるのか・・・。
人は時間とともに、少しづつぶれていく。魂も目的も意識も感性も、全てが今いるところをずれていく。
しかし、次もなく、またもなく、「ここ」と決めた私には、今起こっている「出来事」を的確に分析し、確かな答えをはじき出さなければならない。
目の前に繰り広がる「この光景、有様」は、この私のためにあるのかもしれない。
そう考え直して、パソコンのキーを叩いている今の私なのです。

特に新しい理想を掲げ、志を持って始まったところは、作り上げるまでの苦労は当然ある。
それをこそかえって望んできた者同士であれば、きっと行くべき一つの道が、必ずあるはずである。
熱いマグマがエネルギーの出口を求めて突沸する場所が、つまりここから『日本の介護』を担うにふさわしいものとして産みの苦しみであってほしいものだと祈りながら、「今」をみつめている。

エネルギーの突破口第一だった彼女。
あなたは私の同僚であった。
「話がある」といって、あなたは私を誘った。
しかし「その相談内容」のことごとくを、私は諌めた。時期尚早である、と。
夢を語り、理想を語り、生い立ちを語った「あなた」だったが、一人で立ち向かうには無謀であった。周りの誰一人「あなたをよし」とする者を持たずして、事を進めるのは危険であり破滅であると。そこで私は「三人」を先ず集めろと言った。
あなたの夢、理論理想を共有する人集めが先決だと、語った。
一人で浮いていることを、彼女は自覚していなかったからだ。
「でもさぁ~」「だけど・・・」・・・と反論する。(私一人をも説得できないあなたは、人をも、この世をも舐めている・・・)。
その後、職場で上司に食って掛かるという場面を二つ演じた彼女は、自らのマグマとエネルギーに身を焼いて果てたことになる。
どんなに「正しく」「的確で」「いいこと」でも、与える印象が良くなければ「それさえ否定」されてしまう、という簡単なこの世の道理を、ご存じなかったようだ。


「喧嘩両成敗」、江戸時代の法であれ私の頭には、なぜかこの言葉がぐるぐる回っている。
いつか「この損」が私達をみまい、学び直す時があたえられるだろう、きっと・・・。



神の発展の原理原則は「正分合」である。
分は分裂ではなく、二つになったものが相乗作用によって、前より「よりいいもの」となって発展していくという事である。

同僚一人を失うハメになった「現状」を、私は神に謝罪しながら祈っている。



「神」とは信じるものではなく、知るものです!

2014年03月18日 | 心霊現象
かつて6チャンネルの報道番組で、女性アナの「小林さん」がこうおっしゃった。
「仏とは、浴びるものです」と。
まわりにいたコメンテーターは、唖然としたり喝采したり色々だった。
彼女は仏像を見て周るのが好きらしい。
その挙句に身に付けたもの、いわゆる悟ったことは「浴びる」という状態でこそ「仏」を理解出来たのだろう。


私が遍歴した「キリスト教会」の、最後のところで「こう」言われた。
みなさんは、神を信じて日々を送っていらっしゃる・・・。
しかし、本当のところ「神」を知っていますか?・・・、と。
「神」は信じるだけで終わるのではありません。知る事です。
その意味から言って、みなさまは本当に「神をご存じ」なのでしょうか?・・・。

「神を知る」とは、どういうことか・・・。
それは親を知るという事でもある。
この世において、自分の親は「信じる」などという対象ではない。
全部信頼仕切り、命の出発として認めなければ、人生は始まらない。
それが何一つ裏切られることなく、生涯を終われれば、今の世では「幸せもの」というしかない。
生まれ落ちたその瞬間から、自分の身に「何が起きるか」分からない時代であれば、今は何を信じ、何に自分を委ねていいのかも、おぼろげになる。そんな時代はあってはならないのだ。が、現にある。
病院での乳児取り換えなど、故意であってもなくても許されることではない。
両親からは決して生まれないであろうと思われてきた「血液型」をもつ子供。
今は科学の進歩によって、「それがあり得る」と結論付けられた。
「人間」はいわば「結果」である。人がこの世にあった時まで遡(さかのぼ)るしかない。
神代の世界(時代)は、分からないがゆえに人は切り捨てて知ろうともせず今日まできた。
しかし、一番大切な「事の始まり」(起源)、命の発生の原因を見ずして、知らずしてこの先の何も見えてこない事を、ようやく気付き始めたようだ。
甚大なる犠牲を払いながらも、ようやく人は足元を見ることに気付き始めた。
間違った種をいくら植えても、撒いても、刈り取りには「思いもしない事象」だけが実ってきた。
この事実にようやく気が付く。
「わたし(人間)」は、何なのだ?・・・。


そして「親」だと教えられた「神」を、信じ従い、その結果に「天国」という「いい国」(安住の地)へとの約束をとろうとした。
しかし、それさえも「ご利益」以外の何ものでもない。
自分に都合よく働く神を、最初から望み、それを叶えてくれるはずだという条件つきの、身勝手な信仰でしかなかった。その時の「目」が目論見を外した時、私達は信じたであろう「神」を捨てることは、簡単である。
そうして人は勝手な信仰、あるいは解釈によっていく度親なる神を捨てたであろうか~。
それは信じてみたというだけで、「知った」こととは程遠いことであった何よりもの証拠(証明)となる。
では、「知る」ってどんなことだ?・・・。
神の歴史を知ることであり、その時々の心情を手に取るように知ることである。
神の歴史とは、今まで捨ててきた「あの時代」をもう一度学ぶことでもある。
誰に、いつ、どこで?・・・。
それは「あなた」が知っている。
望みさえすれば、霊界は知り、即座に動く。明日にはもう道が提示されるところまでに、今はあの世が近い。
「出発」に全てがある。つまりそこに「動機」がある。
神はなぜ「人」を造ろうとされたのか、そこの出発させた動機が全て凝縮されて載っているのが、「エデンの園」である。
結果として「失楽園」となったが、それは人が親なる神を知らなかったがゆえの出来事である。
「知るための期間」が成人になるべく与えられた「21年期間」でもあった。
それを称して、「成人」と呼ぶ(はずであった)。が、今の成人式でいう「成人」とは、肉体がただ成長して時が満ちた、というだけのたかが「魂のいれもの」としての完成体でしかない。
りっぱな体をもっていても、その中身である魂(霊)は何が入っているのか?・・・。
「得体のしれないもの」が入っているだけとなった人間の歴史が、今日まで続いている。
「人間改造論」とは、ひところ流行った言葉である。が、多分このようなことを言ったわけではないだろう。
本当に改造しなければならないのは、これからである。
その期間(時間)を言うとすれば、実に7000年の歴史を語らねばならない、というのが聖書の伏線として見え隠れする「真の内容」でもある。

「神を知る」。
偶像を礼拝するところからは、神の真実を知ることから遠くなる。
というのが、偶像礼拝への戒めである。
日本文化でも多い「偶像崇拝」は、見えない仏の世界を「見える化」した、という点では時の人への教育、伝承には当たっていたのかもしれない。
が、人の教育水準が高まれば、もっと高尚なる「目には見えないが、確かにある世界」を見る、感じる感性を練磨させるべきであった。
右脳こそが最後の砦であることを、知らせるべきであった。
なぜか?・・・。そこでしか人は「神」を察知出来ないからでもある。
しかし、左脳の教育、開発のみが進み、いわば人は「左脳のみの頭でっかち」という「かたわ者」になった。これが「物質主義」である。
人を「物」としか見なくなった人間社会の末路は、遺体への尊厳も生命への畏れも皆無となった。
いわば、神の出発に対し、無知と「くそくらえ」の根性だけが植え付けられて「今」を産み出したといっても過言ではない。

周りを見渡せば、頷けることは多いはずである。
嘆くことではあろうが、それを植え付けられた「わたし」と社会が、今日まで続いてきた結果だと思えば何も言えなくなる。
気にもしなかった出発や原点に、命の方向付があるなど肉体の親でさえ知らないし、ましてや子に教えてくれようもないではないか。
先生?、政治家?、宗教家?会社の上司?・・・。今までに「わたし」を本当に教え、導こうとした「人」はいたのか?・・・。
魂から見れば、「わたし」は孤児(みなしご)であり、捨て子に等しい。
『親はなくても、子は育つ』と、人は言う。
育つとはそういうことではない。身も心も同じく「親の愛」によって育まれるべき存在である。
そこが原点であるとなれば、その目で今をみれば自ずから分かってくる事がある。
原点から外れ、狂った世界。これが今である。
親をしらないところの結果を見、神を知らないところの結果を見ているのだ。
これが「人生であり」、社会であり世界であり歴史であるなど、口が裂けても言えないのが、真理からみた、あるいは霊界からみた「言いよう」である。
これは実に「悲劇」の極みとしか言いようがない。



さてさて、「あなた」はどれだけ「神を知っていますか?」・・・。
そして私はまた、どれだけ神を知っているだろうか?・・・。
その「知る」範囲や基準こそが、あなたと私が真実生きるバロメーターになるのです。
そして「その全て」は、当然霊界の基準と同じであり、そのまま「あの世」で通用するものとなるのです。

「神」をつまり「親」を知るとは、一つにはこんなことを基準に確かめて頂きたく存じます。

あなたの言葉(呼びかけ、祈り)で、「神」は慟哭されただろうか・・・?。

そんな言葉をたった一つでいい、生きてあの世に持っていっていただきたいと思います。