霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

あの世からみた「エゴイスト」

2013年06月28日 | 心霊現象
富士山の入山料が、とりあえず「1000円」と決められたそうですね。
しかし、それもこの夏休みの終わるころをメドに、またしっかりと精査して決めるとか・・・。
富士登山にお金がかかるなんて、ここしばらくの間無料に慣れた日本人は、「えっ!」と思いますよね。
TV番組では、「いくらが妥当か」と面白く話を引き出していましたが、結局はこれからの話です。
江戸時代では、一人「122文(もん)」払って入山したらしい。
これが高いのか安いのかは、ちょっと分かりずらいですが・・・。
中には一人「二万円」とも、「七千円」とも言われています。「高い!」と思わずうなる我々も、今までが「タダ」という慣れからみれば、たとえ1000円でも高く感じるでしょうね。
その入山料の金額には、本音の部分も見え隠れするようで・・・。
あんまり沢山の人から登ってほしくないし、さりとて激減しては「町おこし」もできない。
丁度いい人数が登ってくれる「金額」が、これから提示されるのでしょう。(さあ、いったいいくらになるか?)
人が多ければ「ごみの山」が出来る。しかし人が来なければ「土産屋がもうからない」。
とかくこの世は~・・・、といったところですね。


今日のタイトル。これも「エゴ」からくる「富士山のゴミ」と関係しますが、「この世」はそれらの関係者におまかせし、「あの世」からみた「エゴイスト」についてお話を少々。
あの世から見た、と断りを入れたのには理由があります。
あの世とは「見た目」、つまり人が目で見た限りでは「エゴ」とは見えないが、内面つまり心の奥を覗くとき、それが間違いなく「エゴ」になるというもの。
私が過去に聞いた話です。
その最たるものが「クリスチャン」。最もエゴイストなのは、クリスチャンだ!というのです。
「えっ!」って、絶句しました。
その教えを今、あなたは私に教授しているのですよ~。分かって言っているんですかぁ~。
・・・、と思いました。しげしげ「そのお顔」を見ました。
ウインクこそしなかったが、「そうなのよ~」と頷くだけでした。
それも一瞬の間だけ。次には怖い、実に厳しい目つきに変わっていました。
私は背筋が寒くなると同時に、その背筋を伸ばし、これから始まる「話」に耳を傾けました。


「自分が天国へ行く」。決して悪いことではない。
しかし、「自分だけが天国へ行く」。心のどこかで、特権階級を意識した「エゴ」がのぞいていはしないか?。
「わたしは救われた」。しかし「あなたは罪人なのよ。救われていない人ね」。
このような「自己中心者」が「たむろ」するところが、ほんとうに「天国」だと思うか?・・・。
「神」の嘆き、悲しみが分かりますか?、とその講師は問う。
霊界からみれば、すぐに見破られる「その信仰」とやらは、「エゴ」と重なり合った醜いものだと言い切る。
「おっかない先生だこと。でも真実だなぁ」と私は思いながら、観念的な信仰や救いや、クリスチャンの呼び名を今一度胸の奥で反復したものだ。

あるキリスト教会での事だ。
めったに聞けない「偉い先生の説教」ということで、日曜礼拝は部屋に入りきれない人が集まった。
前方の人は座り、中ころから後方は椅子、さらに後ろは立ち席となった。
開場と同時に「わっ」となだれ込む人達。前方をめざして走る。私も走った。
途中、私は誰かの足蹴りにあい、あっけなく尻もちをつくハメに。
体の痛さもさることながら、なぜか「心」が痛かった。(わざとしたんじゃない、きっと。この人達はなんたって、クリスチャンだもの・・・)。自分に言い聞かせながら、後方で話を聞くことになった。
話は有意義なものではあった。
が、私は帰りの道々「神」に聞いた。
「天国は、他人よりも先に、奪うものですか?」そして「救いとは、一位になるほど褒められることですか?」と。


憤懣(ふんまん)やるかたない私の心に、神が答えるはずもない。が、時遅くして「答えられた神」を発見するのである。
「そうか、エゴイストかぁ」そして「クリスチャンはエゴイスト!」かぁ・・・。
「そうはなるな!」と神は教えているのだ。
もちろん全部が全部そうだとはいわない。
しかし「彼らのにおい」というのがある。どんな「におい」か?
私が一番最初に嗅いだ「クリスチャン」の放つ臭い。申し訳ないが「匂い」ではない「臭い」だ。
それが、私を玄関から入らせなくしていた、と今にして思う。
思い出してはいつも笑う。あんたは「オーメン」か?と。
教会も、鐘の音も、讃美歌も、キリストもみーんな虫酸(むしず)が走り、吐き気がするという「オーメン」つまり「サタン」の申し子みたいな者。私はそれほどの「悪の大物」ではないが、「その気」に怯えた。
なんだろう・・・。映画「エクソシスト」は二度見たが、違う意味で吐き気さえして止めにした。

その教団の気配。この世に400派に分かれているとさえ言われる「キリスト教」。
その一つ一つの教えに「気配」が漂う。その中で一番「神」に近いものは「どこ」か・・・。
それが一つの命題になる。教えは一つなのに、なぜここまで別れたか?。
それだけで、もはや「信ずるに値しないもの」であると、性急ものの私は値踏みしょうとする。
それを一致させる?、いやはや難儀なことだ。
きっと、多分、高邁な精神と「教え」がない限り無理であろうが、もしこの難行が果たせたら、今世紀最大の偉業といわざるをえない。
「イエス」が言う「わたしはまた来る」とは、それを指さなければおかしい。


このブログが終わる時、私は幾重にもお詫びをする。
「イエス」と呼び捨てでいつも書く、この「無礼」をである。
「キリスト教」をこきおろす「無礼」をである。
そうだ、エゴイストは、私でもある。


『それでも、来るか?』・・・、という神の声が聞こえる。