霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「分からなくてもいい、聞いて!」

2014年05月29日 | 心霊現象
最後の「寝ずの番」を終えて、帰ってきました。
来月からは、全く新しい人の中でともすれば「思っても見ない動き」をすることになるのでしょうね。
大袈裟と言われるかもしれないが、明日が定まらない「お客」と労働者(介護者)であれば、「今日」が大事な「確かな現実」ともいえるのです。
そんな中で18時間の寝ずの番は、深夜の静けさとともに、思っても見ない感覚を生む。


『今日で最後なの。
 そんなに嫌なら殴ってみれば。いいのよ。私はもういなくなるのだから・・・。
 心の本音を言えばね、不本意よ。でも仕方がないじゃない。
 あなたもそうね。ここへ来たことが不本意でしょ。それに時間を決めてトイレに連れてこられ、下 着を剥がされて、恥ずかしいし嫌でしょうね。でもそうしなければ、あなたは一日中トイレにも行 かず、拒否しつづけ、糞尿の中で日中を暮らす。
 分かるの?。それが気持ちのいいことでは決してないという事を。
 今日が最後だからいうのよ。噛みついてみれば・・・。
 それとも髪の毛をわしずかみにする?。私がいいって言ってんだからどうぞ。
 みんながあなたを嫌って、嫌がらせをしていると思う。決してそんな事思ってないよ。
 膝のケガがもとで立てなくなり、病院からここへ直行したことも知っている。
 人生にアクシデントはつきもの。
 「これ」さえなかったら、「あんな事」さえ起こらなかったら・・・。
 後ろを振り返れば、誰だってそんなことの一つや二つはあるのよ。あなた、聞いている?。
 分からなくていいの。あなたの後ろに喋っているんだから。
 つらいのは分からなくはない。でも人を拒否し、境遇を拒否しても始まらないじゃないの。
 トイレの棒にさえつかまれない、立てない・・・。口惜しくはないの。
 もし立てたら、次は歩くことが可能になる。そして次は家族を前にして「楽しくすごす姿」を見せ ることが出来るかもしれない。
 しかしそうやっていつもいつも人を睨み付け、鬼の顔をしてげんこつを相手に見せて威嚇する。
 爪を立て、ひっかき傷を負わせ、肩に噛みつき、「一番嫌なばあさん」の異名をとる。
 この年になるとね、明日がもう約束されない。今晩、今寝ながら息が絶えるかもしれない。
 いいよ、それで楽で死ねるんならさぁ。
 おあいにくさま、楽になんか死ねないよ。
 人生いろいろあったことは、みんな同じ。
 人はね偶然で逢ってなんかいないよ。あなたが「ここ」へ来たのも偶然じゃない。
 真夜中のトイレでこうしてあなたと掴み合いするのもね、偶然じゃないよ。
 もう一度言うね。立つ練習してみようよ。それだけでいい。棒につかまってさ、立って自分の身  を支えることが出来るようにがんばりなさいよ。その為ならみんな喜んで協力する。
 そういう人が集まったところさ、ここはね。もったいない。そんな人達を使わない手はないよ。
 明日からもう逢えない私が言うのだから、しっかり聞いてね。
 がんばれとも、態度を変えろとも言わない。選ぶのはあなただからね。
 自分の分身をこんな形にし、こんな所に送ったあなた。
 最後の最後は、面倒みてよね。お願いね。任せるからね。責任とってよね・・・。
 泣かないでよ。泣く気持ちがあったら、立とうよ!。立てば次が始まる。
 あなたが立ったと聞いた日、わたしはどこにいても観にくるから・・・』


「ばあさん」は、トイレの中で泣いた。
疲れたからかそれとも寒いか、それとも迫力負けして殴れなかった悔しさからか・・・。
しかし泣いていた。
さあ、終わった。
二階の住人よさらば。
「この世」と「あの世」に『分からずともいい聞け!』と、吐き出すには「トイレ」はまた恰好な
ところとなった。
泣く「ばあさま」を抱きしめて、私は一つの終わりを噛みしめた。(この方がレビー小体型認知症)

朝「ばあさま」は6時に声をかけたら、笑って起きると言った。そして自分から着替えをした。
が、騙されまい。分かってやっているわけではない。朝日が気持ちよく入る部屋の向きは、東に太陽が昇るのを見せる。人はそれだけで生きていこうとする。
しかし、ばあさまに檄を飛ばし、塩を撒いたことは「内緒の事」であれば、あとの事は神のみぞ知ることであろう。
おっと、みなさまがいらっしゃった。

さあ、仕切り直しをして「私の6月」がくる。手の甲にくっきりと刻まれた「爪痕」も一緒に連れていこう。

ではみなさま、また~。

 

「人事移動」とはいわない「ちょっとした移動」?

2014年05月24日 | 心霊現象
お久しぶりです。
皆様から「檄をとばされて」、感謝しつつ労働者の一人「私」は励んでおります。
あれから4か月、丁度日数にすれば120日経つことになります。
そこで、この私に「移動」の命令が下りました。
同じグループホームの2階から4階への移動のこと、大袈裟に言うなということで「ちょっとした移動」ということになりました。

いままでの「二階」はようやく慣れ、お客さんにもスタッフにも「さあこれから」という時期に移動ですから、「なぜ?」という思いもないわけではありません。
介護のタブーその一が、早い移動によるデメリットなのですから・・・。
120日の期間が長いか短いか、また早いか遅いかは結果を待つしかありますまい。
が、人心が落ち着かないことには「双方」変わりはありません。

私の代わりとして2階に入る人は、「フィリッピンの女性」。
それがいいとか悪いとかではなく、言葉がおぼつかなく、カタカナしか読めないという状態が問題となるのです。
言葉を解して、介護の意味が分かってようやく動く内容が決まるのに、そこまでに時間がかかるというわけです。
夜勤はどうするんでしょうねぇ。などなど上が決めたことなれば、私など「はい」と二つ返事で動くしかなく、今後のなりゆきは人任せ、おっと「神まかせ」ということでしょう。

人事の裏側には、のっぴきならない「霊界の事情や意図」が隠されていることがおうおうにしてある、と前にも実例をあげて申し上げてきた私ですから、いなやは申しません。
ただ、今後の二階は「大変」の一言に尽きると・・・、事情を知った者ならば誰もが思う現状にあるのです。
一人が患ったところが再び冒され、明日から一か月の休職を願い出て、それを会社は了解した。
5月の始めに二人が他から移動し、ようやく一か月が経ったばかり。
そんなところに今回の、人という駒が回る・・・。
月夜勤7回。こんなシフトを組んでみて「リーダー」はため息をつく。


さて、では「神の願い」は何か?。
その思惑はどこにある?。
またまた読めないままに「今」を迎えている私である。
「小規模」から「グループホーム」の移動はりっぱな「人事異動」となるそうである。
が、私のように階から違う階への移動は「人事異動」ではなく、「ちょっとした移動」というのだそうだ。
では「その」ちょっとした移動の背後に、どんな「ちょっとしたこと」が隠されているのか?・・・。
こんご私は「そのちょっとした意味」をしっかりと探らなければならない。
ちょっとやそっとでは分からない、とは言わさない!、と「あの世」がすこし騒がしくなったような気さえする。

「慣れ」が人や職場をダメにすると、移動を頻繁に繰り返す「職種」もある。
が、慣れこそが必要でありその上に成り立つ「安心」もある。
さてさて私の場合は何と出るのか?・・・。答えは「丁」と出るか「反」と出るか?。
4階とは表向き「穏やか」に時間は流れ、自立の人がほとんどで手がかからない人達だと一面的に見れば「楽」と踏める。
しかし「夜」になれば何かが蠢き暴れ出す「魔界」をも併せ持つところだ。
杖でスタッフを殴り、電気コードで体を縛る御仁がいるかと思えば、こんな人もいる。
一人の女性が職場から去るとき。
私は偶然?にも話を聞いた。
「何か棒のような物はないかな?。あったら貸してほしいんだ」(一人の男性がたのむ)
「こんな夜更けに、何に使うんですか?」
「あんたを殺すためだよ!」


すたこらさっさと「彼女」は止めていった。
認知症というくくりの中での話だ。気違いとはいわない。
そんな話を残していく者は、笑い者になることを嫌って、一人としていない。
さて今度は「私」が、その真実(事実)を暴き、次なるステップに向かう道具なのか?・・・。
先日、「管理者」が私に寄ってきてこう言った。
「爪の後、まだ傷が残っていますか?。労災がありますからどうぞ使ってくださいね」と。

私は「労災」を使う前に、今度こそ「やる」ことがある。
「二回目」は難儀で苦労が多いと書いた「その事」を、どこかでまるで見ていたかのように周り廻ってくる「この偶然とよべない出来事」に、本気で「最期のステージ」を感じている。


ここへ招かれてきた初心を、私は再び思い出している。
この歳寄りを招いて、何がご所望か?・・・。
私は最後まで「笑顔と感謝」を貫こう・・・、と。

「ちょっとした移動」としか言わない私の身に降りかかった事は、本当にちょっとした事であればそれでいい。
しかし・・・・。
ま、長い間「あの世」を相手にしながら来た私であれば、きっとあの世もこの世も品定めが終わり、いよいよ「時期到来!」となるのかもしれない。


久しぶりに「上野駅・女子トイレのおみくじ」を引いてみました。
新幹線に乗るのも久しぶりでした。

『今は同じところで守るより、攻めるとき!』と書いてありましたぞ!。

ふむふむ、それに乗ってみるのもまた一興。
私の心は決まりました。

みなさま、「細工は流々、仕上げをごろうじろ」とまではいかずとも、またまたご報告をばさせていただきますね。

どうぞよろしくお見守りいただきたく、お願い申し上げまする~。(ははーっ。平伏したところです)

あれから三か月・・・

2014年05月13日 | 心霊現象
今年の2月から始まった「新設の介護施設」の業務、つまり仕事がようやく「三か月」の期間を越えました。
結果が出た以上、回る「ふるい」にかけられ「淘汰」され、利用する人も仕事をする人も、これで一応第一関門をくぐり抜けたと言えるでしょうか・・・。
「この三か月」で何が起こり、何に気を取られ、何を得て何を失ったか?・・・。
人それぞれの人生観あるいは価値観に、結果が出たと思えばいいのか・・・。


早い話、職場を去った者がいる。
人事異動が小規模で行われ、その結果「問題」もうやむやになった幸運な者もいた。
適材適所とはとうてい思えない結果の人事異動も、慣れと努力で何とか越えていこうと奮起する「やさしい者たち」の心根の上で、第二回目の船出となったことを思う。

私は全ての結果を「ありがたく」受け取ることにした。
親しい友が去ったことも、難儀な同僚が与えられたことも、全て私にとっては「神のふるい」から残された者たちであった。
さて、いよいよ始まるか~。
仕切り直しの結果に、いよいよ「来る」神のおぼしめしの人に逢えるという「最期のステージ」にふさわしい人との歴史的出会いを感謝して待つ。
いまだに「この人だ!」と的を絞れない私の霊性のぼけようもさることながら、次第に失せていく「観察力」の乏しさに驚愕する日々でもある。
「ピン!」とこないどころか「ビビッ!」ともこない。
反省点は一つある。
それはね、ただ与えられるのを待つという姿勢にあった。
これが最後なら、むしゃぶりついてでも「要求したい者」がいてもいい。
『せめて生きているうちに、最後に一度でいい、逢わせてください!』・・・と。
そして万が一、まさかの事であるが、「その人」が死んでいるならばその縁者でいいではないか。
その人の存在が、もはや「この世」にはなく、「あの世」にあるのであれば、それを知ってからあの世に渡るのも悪くはないか・・・。(私がである)

さて、今からもう始まっている「二段階目の期間」に向けての時間の流れは、さらなる私の絞り込みによってより明確に浮彫にされ、私の前にその姿を現すであろう。
霊性というアンテナを、より高くより確かに張り巡らし、的確に神の意図をキャッチしなければならない期間でもある。
これまでの期間に、私も二度止めたくなった。
くたくたに疲れ果てては、ブログを書く気力さえなく、パソコンの電源すら入れない日が続く。
「もうここまでくれば、いつ終わりにしてもいいんだし・・・」という心が湧く。
でもね、それに火をつけた人がいる。
『黙れ、バカ!』・・・、とコメントをくれた「あなた」です。

ことの「なりゆき」を生きていたら書いてお伝えしたいと、その言葉に奮起してニヤリと笑いながら
書いている私でもあります。
背後の「三人の尼様」が、いつもいつも「私」に「行け!」と声をかけ、先を指し示す。
「カルシュームが足りないんですけど~」とつぶやきながら、せめての一年間の保障を取り付けながら、日々精進?している私でもあります。
「二度目」は危険であり大変であり難儀なことは、前に申し上げている通りです。
二度目の「ふるい」が助走を始めた今、私だけは念には念を入れ、心して、ゆめゆめ目的を違えることのなきように後の三か月間を過ごしたいと思っています。
何のことか?って・・・。
介護のことをやりにきたのが、私の目的ではありません。
会社に入るのが目的でもない。(人に逢うことが目的なのです)

最後に神は、私に何をやらせたいのか?。
肉体をもってのあとわずかな時間を、どうすれとおっしゃるのか?。
最後のステージとは「何をどうする」ことをいうのか?。
ここまで生きてきた私には、いや、こだわって生きてきた私にはそれは「一つ」しかありますまい。
『限られた時間空間で、出来る限りの精進をして「わたし(神)」を伝えよ』ということでしょう・・・。
歴史のクライマックスの今、血統の功罪が目で見える形をとって提示されるという一面「恐ろしい時」。
自分が何者であったのか、はたまた我が血統はどうであったか、そしてこれからどうすればいいのか・・・、を骨の髄まで思い知る時代が「今」でしょう。
言い方を代えれば何と幸せな時代であるか。
また言い方によっては、「何と苛酷・残酷な時代」であるか・・・。
全て積み上げた「結果」を見る時代が、今だと思召せ。
うれしいか怖いか・・・。その「思い」こそが血統の歴史的産物であります。


あーあ、思えば遠くまで来たもんだ~。
今初めて思う。「この台詞」をしみじみ吐く年齢になったことよ~と。

神の胸に「むしゃぶりついてでも」逢いたい人とは?・・・。
今から40年余前に、私に「この事」の一切を伝えてくれた人。
つまり「伝道してくれた者」その人であります。
道を伝えながら、私より先に教団を出、姿を消した人。
「あなたの神」は、その期間何をどう教え導かれたのか。
何が建前で、何が真実だと教えられたのか。
家族を捨て、田舎に帰れないあなたが見た「神の世界」とは何だったのか?
村一番の「出来た子供」が、新潟大学の理工学部に入学したことが、村の歴史で一つの栄誉となった日。あなたの家族は有名になった。
そして「神の召命」を受けた。
没落する故郷での実家を横目で見ながら、長男のあなたは何を得、何を捨てたのか?・・・。
そして、多分あなたは知らないだろうが、後ろつまり守護霊の「北村方義」という人物。
信州・佐久の活動家、彼は神に何を訴え、人に何を願ったのか?・・・。
その「北村方義氏」は、人々を何処に導こうとしたのだろうか?・・・。
「あなた」が辿ったその人生は、守護霊以下では決してないだろう。
今となっては私もあなたもお互いに高齢者となり、いわば「老人」である。
しかし、「あの時」は人生でたった一度の出会いであるが、神が間に入って出会わせてくださったことには間違いはない。そして若いいい時であった。
もし神が「親」であられるなら、『兄弟』が再開することは当然の願いであり目的であり、夢でもある。


私が霊界の存在を学び、ゆるぎない真実をいくつも知るとき、「霊界で逢える」という最後の手段をありがたくもあり心待ちにしているのも事実である。
しかし、人の情、つまり「人情」から言えば、やはり形(姿・肉体)をもって、「この世」でこそ逢いたいではないか。
歴史を辿れば、佐久地方と「武田」は決して穏やかな関係ではない。
むしろ血を流し、恨みこつずいの関係といってもいいだろう。
だから、最後に会うように仕組まれているといってもいい。
しかし、そんな「あなた」でないかもしれない。
ここで第二回を迎えた「ふるい」にかけられながら、私も決心しようではないか。
一つは、今いる「ここ」が長居をするところではない・・・、と。
そしてまた、「この世」も長居をするところではない・・・と?。



「進退窮まる」という言葉がある。
今はそれに近い感を覚える。
しかしなぜか心地いい。
待っていた者に逢える。待っていたことに出会える。
武者ぶるいとはこんなことを言うのか。
それにしても今まで、なぜか縁者「武田の一族」にあまりにも出会いがなかった。
全てが武田ゆえに亡びた血統だった。
さて、ここまできた「極め付け」は、誰なのだろう。
そしてそれは何なのだ・・・?。
不思議といえば不思議であり、理不尽といえばそうも言える「私の人生」でもありました。

あっ、そうか。まだ結論づけてはいけませんなぁ~。

みなさまも、精進してお暮しくださいまし。
健康であることも、信仰の一つでございます。
カルシュームを日々忘れず摂取するべく、努力しています。


骨が全て!・・・?

2014年05月08日 | 心霊現象
いつも通うクリニックへ行ってきました。
「骨」の検査結果を聞かされて、返ってきたところです。
『あまりにも下がり過ぎた数値』を危惧し、先生は今回特別な薬を出しました。
それが「アクトネル錠」というもの。
週一回のむ骨粗粗鬆症の薬でした。
朝早く起きて飲み、その後は30分は横になってはいけない。さらに何も食べずにいることが注意事項です。
毎週曜日を守り、時間も早朝を決めて飲み続ける。
規則正しい生活に慣れていない者にとっては、なんと難儀な服薬事情でしょうか。
しかし「骨」の話を、いつもの「老先生」に聞かされてみると、納得する私でありました。

昔「骨まで愛して」という歌が流行り、一世を風靡したことがある。
最初はみんな笑って、「まさか~」とか「変な題」などと気味悪がっていたが、メロディーと歌い手のアンバランス?も手伝ってか、あれよあれよという間に、チャート一位になっていた。
「異性の骨まで愛する・・・」など考えたこともない国民に、いかなる意味を説きたかったのか?・・・。
ま、深い意味があるにせよ無きにせよ、流行ったのだからいいとするか・・・。
その「骨」。
私はその骨のレントゲン・フイルムを見せてもらった。
「ね、ほら薄いでしょう」と医者は言う。
写り方のことらしい。もっと色濃くくっきりとフイルムに焼き付いていないといけないらしい。
いわゆる「この世でも言う・影が薄い」状態らしい。
これをみると、「急激に降下した骨の数値」の原因が「骨密度」をこのように「薄く」写真に写す結果として現れたらしい。
私には思い当たることが一つある。
急激に6キロ痩せたことだ。
原因は仕事。それも夜勤、つまり「寝ずの番」の疲れがたまったのだと思えた。
医者は「骨の仕組み」を、模型を使って私に説明した。
骨を輪切りにしたものだった。
骨の中にはね、カルシュームが蓄積されている~・・・。
それが足りなくなるとね、どんどん各部署へ放出されて、結果その「貯金」が少なくなり、ゼロに近くなっていく。それが「骨がスカスカになる病気」つまり「骨粗粗鬆症」という病になりる。
若い時は栄養も取り、運動量も多い。そしてなによりも「肉体が若い」。
年寄はね、それがみんなバランスを失って危険な状態になる。
言い換えれば、年寄病ともいえるけど、怖いのはそこから起こる数々の病。
骨折から寝たきりになり、体調をくずし、1年以内に亡くなる人もざらだといえば、笑える状態じゃない。
僕が思うにはね、この骨の中に貯蓄されている「カルシューム」こそが命。
日々どんどん摂取して、貯金のように貯めておかなければならないのが「高齢者」。
「全てはこのカルシュームが、人を生かしている」と、極端に言えばそうなるとさえ、僕は思っている。
あなたも「若くない」とか、「運動しないから」とか思ってカルシュームなんか今更~、と思わずにどんどん摂取しないと(「命のもと」なんだから)命にかかわるよ~・・・、だって。

「骨の髄」という言葉がある。
骨の髄までしみる~、言葉でしたねぇ。
カルシュームを含む食品は気にするけれど、毎日牛乳をがぶ飲みするわけでもない。
また「にぼし」のように骨ごと食べるものも、歯が欠けるから止めてしまう。
今の私は「体に貯めた栄養素」を使い果たして、今に至っているらしい。
ほんの耳かき一杯の量の「栄養素」が摂れずして、命が脅かされるって話?、あるでしょう?。
「あれ」何の栄養素でしたっけ?・・・。
今は「昔とったきねずか?」さえ、みんな忘れて『今』と、『あの世』を気にして生きている自分を噛みしめています。

PPK(ぴんぴん、ころり)もいいけれど、体と心が健康でこその老人になりたいと思って、さてさて再びの「栄養学」でも学ぼうかと思っている私です。
カルシュームが足りなくなると精神不安定になることは、みなさまもご存じの通りかと。
ストレス満載の昨今。
いろんな意味で、カルシュームがわたしを救うかもしれませんぞ。
カルシュームを含む食品を取っても、体に入ってカルシュームになり、さらに骨にまで辿りつき、それがさらに貯められなければならない・・・。
まさに「体内を旅する彼ら栄養素」の最後を後押しし、見届けてこそ「健康体」を維持できるというもの。



肉体の条件が半分、霊界の条件が半分。
こうして「私」も「あなた」も「一人(前)」として今を生き、これからも生き続けることが約束されるのでしょうね。
霊的条件とは祈りであり、天法を知ることであり、そのごとくに肉体を誘導する心根であります。


その「両輪」で今とこれからを生きて頂きたく、今日はこんなことを書きました。

(あなたの貯めた肉体的貯金が、今底をついていますよ~、という警告を頂いたと思っています)