霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

『立つ鳥跡を濁さず』

2015年02月27日 | 心霊現象
東京も寒く、久しぶりに「冬」を感じた昨日でした。
三寒四温と言われても、年寄の体には応えます。
そのそぼ降る雨の中、夕刻6時に「かの方」と会ってまいりました。
丁度一か月間、仕事を止めた彼女には「いい休息」だったのか、それとも心の傷が疼く日々だったのか、それも聞きたくて待ちに待っていた私でした。

主賓を待たせてはとの思いで、私は「現地30分前着」の親の教えをいまだに守り、寒い中で震えていました。
主賓の彼女は丁度の時間に現れ、疲れた様子もなく満願の笑みで私の方へと寄ってきます。
「あっ、身も心も元気らしい」と踏んだ私は、それでもう満足。(このまま帰ってもいいくらい・・・)
もう一人は、少し遅れて到着。(おいおい、いかんぜよ~)
『今日はわざわざ時間をとっていただいてすみません。あいにくのお天気で~。わたしの知っている超リーズナブルなお店へいきましょう』
とばかりに彼女の案内する駅前5分のところにある「食堂」へと急ぎます。
駅前は帰宅途中のサラリーマンで人も多く、寒い雨も手伝ってか人並みがいつもより早く流れていきます。
そこは、いわゆる「昭和の色濃く残る食堂」そのもの。
おばちゃんが一人で店を切り盛りしているといった、田舎風なところでしたねぇ。
家路の途中に夕食をと、労働者が定食を腹に詰め込んでいる・・・。
そこへ女三人で席を探す・・・、が「ない」。
「合席でいいからとりあえず座りましょう」と、2人と1人に別れて座る。
「椅子を動かしてもいいかしら?」と、おばちゃんに聞くと、みんなおなじみさんらしく、「もう少しで空くから~」と、いたってのんびりと構えている。
注文もなく、みなさんが一生懸命食べている。
ならばと、注文をし始めた。
昭和の食堂がそっくり再現したような店だった。
レトロでそしてリーズナブル。我々はすっかり「昭和」に浸りきった。
全て一人前を注文。
かき鍋もさしみもみんな一人前になっている。
さしあったて10品くらいが並んだ。
一人で夕食をかっ込んでいた「おっちゃん」が、「ほら、空いたよ~」と言って爪楊枝(つまようじ)をくわえながら、コートを肩に引っ掛けて「ごちそうさん!おあいそ~」と言って立ち上がった。
「すみませ、急がせちゃって・・・」と、お詫びしながらいよいよ始まる「女子会」を思った。

この三人はどこから見ても若くはない。
おっちゃん達に混じっても違和感がない我々は、そんな意味でも暖かく迎えられたようだ。
昭和に彩られながら「昭和の女が三人」、実にいい感じで杯をあげる・・・。
とりあえずビールだ。(いつも思う。ビールにすまない・・・と)
次はどうみても「このおつまみ」なら、酒だろう。それも今日の寒さからいえば、当然「熱燗」だ。
次々と運ばれてくる「熱燗」のとっくりが増えていく。
まわりのオッチャンたちやアベックが、ちらちらとこちらを見る。
なんと飲みっぷりがいいことよ。あっと言う間に5本のとっくりが並んだ。
向こうの方で「頭の禿げたじいさま」がにこにこ笑って、相方と話してはまたこちらを見る。
次はその相方が首を回して、こちらを見る。(気にしない、きにしない)

話すのは主賓の彼女に任せ、私達二人は聞き役に徹しようと前もって決めていた。
しばらくしても、話のどこにも恨み言はなかった。
就活の日々であること。とりあえず二つ決まりそうとのこと。
自分に合ったいいところらしいと、嬉しそうに話す。
そして彼女は最後にこうのたまう。
『捨てる神あれば、拾う神あり・・・、ねぇ』と。
それが唯一、彼女の心境を物語った言葉であった。
ケア・マネとしての新しい心境を開くことで、彼女は夢を語り次のステップを向こうに描いている。
私ももう一人の相方も、嬉しさを隠せない。
時計を気にすることはご法度だったが、ご主人を家に待たせての主賓であれば、腕時計のちら見位は仕方がないだろう。
「こんなに飲んだの!?」と、三人が異口同音につぶやく。
「おちょうし」の本数と、時間のことである。

外は雨もやみ、すがすがしい心で三人はそれぞれの家路へと急いだ。
ともすれば、恨みつらみの三重奏でもよかったものを、なんと彼女はさわやかに、あっぱれなる変化を私達に見せてくれたことよ。
しかし彼女の心は「こう言って」いる。
「自分がいなくなった後のことは、あなたがたのこれからの問題でもある。さあ、お手並み拝見といきましょうか・・・」


何の揉め事も残さず、耐えて偲んで1年という時を過ごした「その実績」は、ハローワークに於いては実に貴重な実績となって自分のこれからを方向づけてくれたと、彼女は言う。
例えば、数か月で止めたとなれば、「こらえ性のない」人間とみられ、自分に非があるとさえ思われかねない世間の見方があるという。
「だからね、この1年継続の実績は、何としてでもクリアーしたかったの・・・」と、しみじみ語る。
今で言うところの「パワハラ」に遭おうと、風呂場の片隅で泣こうと、今の彼女にはそのことがむしろこれからの仕事の「役」にたち、人間性を大きくしてくれた「肥やし」になったようだ。

今日の題となった『立つ鳥跡を濁さず』は、実にこのような潔さと見事さに裏打ちされた「彼女」の人生の再出発となっている。
最後別れ際に振り返った時に見せた「彼女の笑み」は、全てを吹っ切って再出発に賭けた一人のキャリア・ウーマンの頼もしさそのものであった。


ほろ酔い加減で歩く帰り道。
一駅だから歩いたのか、それとも心地よい酔いを味わいながら帰りたかったのか。(私の事である)

朝になって久しぶりに痛む頭を抱えながら、この歳になって二日酔いとは~、と苦笑いの私めでございました。

「立つ鳥跡を濁さず」、しっかりと学ばせていただきました!。
(次に続くは、私なのでしょうか・・・)

人選

2015年02月19日 | 心霊現象
「じんせん」と読みます。人を選ぶことを言います。
何気なく使い、日々おこなわれている事でもあります。
自分でも「人選(じんせん)」しています。ま、日常茶飯事のことでもあり、気にも留めない事象でもありましょう、が・・・。
事「自分」に深く関わってきたとき、「どうでもいいじゃない~」とばかりは言っていられなくなる・・・。


さてさて、2月、3月は人の動きが激しくなるシーズンでもある。
御多分に漏れず、我が職場でもその動きがドギツク露わに展開した次第。
違う職場へ行く人。職場を離れる、つまり退職する人「ひきこもごも」である。
その中で、私がこの一年間お世話になった方が、退職した。
半分は辞めるように仕組まれた?嫌いがある。つまり「いびり出された」のだ。
資格はりっぱに持っていた。介護の世界においては、現場のエキスパートと呼んでいいほどの『ケア・マネージャー』(通称ケアーマネ)。
通常その上には『管理者』と呼ばれる総監督がいる。
そのケアマネが辞めた。
その代わりとして当てられた者が、まだ資格がない、さらに経験は「ここ」で学んだしかない「一年」のみがあるだけの「者」が『フロアーのリーダー』となった男である。
50数歳のその人生経験と、人間性を見込んでの「抜擢」であると、管理者自らが説明した。
「あなたがたも、ちゃんと働いていさえすれば、今回のような大抜擢もあり得るんです」と我が意を得たり」と言わんばかりの顔で「皆、がんばるように」と、訓戒した。


最近になって、部屋の片隅で一人で泣いている彼女(ケアマネ)の姿が時折他の職員の目に留まるようになった。
また、「申し送り」と称して朝夕に短時間だが持たれる「引き継ぎの時間」に、他の職員の面前で「否定される」事が多々見受けられている。
そのケア・マネに育てられ、新しい技量を開発した新人職員や介護歴何年の人も多い。
しかし、上司からマークされたら、いや嫌われたらもはや「その職場」にはいられないのだろう。
彼女は、「針のむしろ」の日々をようやく自ら脱する決意をして、今ここに至った。
その間約三か月。
そのフロアーで日々何が行われ、人心に何がはびこったのかは、私は知らない。
昔なら、自分の上司が死ぬハメになる立場を与えた下司(つまり自分)もまた同罪である。(私は昔ではなく今もこの心情原理は通用すると思っている)
その「送別会と称する集まり」に、二人が参加を表明した。
二人とは「私」と「いつもは喧嘩ごしだったが二の立場にいた」女性だった。
来週26日の夕方、女三人で何が話されるかは、門外不出となるかそれとも・・・。
多分こんな私であれば、洗いざらい「すっぱ抜く」かもしれない。(ただ、皆さまにだけね)


この「抜擢人事」とだぶって見え隠れする「もう一つ」の影が、向こうに揺らいで見えている。
そうだあの守護霊「木村氏」が語る、一族の栄枯盛衰の「事の転末」事情である。
明智光秀に使え、城の城代家老として務め上げ、さらに「本能寺の変」以後は太閤秀吉から蒲生氏郷へと身を預けながら「今の世」つまり平成の世に木村一族は「何」をするべく「抜擢」されたのかを紐解く「一族の霊界事情」の真実である。
何の意味もなく、地上が変わり動くわけがない。
「理不尽」であれ「無情」であれ、その背後には言い尽くせない真実を語りたがっている霊界がある。
それを忘れないようにしょうと心に言い聞かせながら、解けないわが心情をかかえて今に至っている。
(皆様におかれては、「木村一族のこと」はご存じゆえ、説明を省きます。忘れた方は読み返してみてくださいませ)

常識では考えられない「事」が目の前で起こっている。
さて、その「意味」をどう解くのか・・・。
皆様に散々申し上げてきたことを、今私が解くハメになっている。
この人事で、「利用者」あるいは「その家族」は戸惑うことはないのか?・・・。
さらに、一緒に働く他のスタッフの心模様はいかがなものか・・・。
スタッフでも「介護福祉士」や「ケアマネ」の資格を持って働いている人もいる中・・・。
はたして「その男」に付いて行けるのだろうか。
具体的な専門分野における指導者としての「資質に対する不安」を、同じフロアーのスタッフたちは心に抱かないのだろうか?・・・。
彼ら(その階のスタッフ達)は、貝のように口を閉じ何一つ語ろうとはしない。
そうだ、彼ら達は「管理者」と同じ階にいて、ことあれば筒抜けの環境にある。

さーて、お立合い!(ちょん・拍子木の音)



少し前。私はTVドラマ二時間番組で『復讐法廷』(間違ったらごめんなさい)というドラマをみた。
愛する娘を失った、「強姦殺人」の親の心情を綴ったドラマである。
当然親(父親)は、復讐の機会を狙っていた。その間に母親は病に倒れ死亡。
亡き娘の仇は、一人でとる。
とうとう「憎い男」を目の前で撃った。猟銃で・・・。
もはや彼はこの世に何の未練もない。
殺意を表明し、死刑を望んだ。
そんな男に弁護は難しい。案の定二人の弁護士が身を引いた。
さて、三人目の弁護士の彼女は・・・。
そこから本当のドラマが始まる。

過去、「緒方拳」が演じた映画『復讐するは我にあり』というのがある。
聖書のある部分には、「人は復讐してはならない。復讐は神に委ねよ」とある。
人の心情には神も住めば、サタンも住む。
その心が体を使って行動となり、さらに人の命を奪ったとなれば「取り返すこと」は出来ない。
行動は事実となり、この世の真実となって永遠性の時間帯に刻まれる。
消す事?・・・、消すことは他の誰かの清算の結果において、許されることをもって終わる。
終わるのであって、歴史的事実からは消えない。
それが「因果律」である。
復讐を心に抱き、企てた者にしか分からない「心理」は、今も私の心にある。
そして呼び出せば、間違いなく血が通った生き物のように私の目の前に躍り出る。
しかし「あの強姦事件」が、過去同じことが違った立場、つまり「真逆の事」としてこの世に起こった。と、そう説かれたとき、私は「あの世に対する無知」を痛いほど噛みしめた。
そして大切な霊・魂・心を「鬼」にしなくてよかったと、今でも危機一髪の「救い」に感謝し続けている。
今から何十年前になるか・・・。
母親と子供が「ラーメン屋」の前で「郡司」と名乗る男に刺殺された。
道路端にころがる親子の遺体。
それを侮蔑するかのように「郡司と名乗る男」が言う言葉。彼は何と言ったのか・・・。
「俺に殺されて、本望だと思え!!」と・・・。
常人が吐く言葉ではない。彼は精神を病んでいたのか?・・・。
当然、今でいうところの「精神鑑定」の範囲内の男だと言える。
が、この台詞は「今」ではなく、過去性をも語った言葉に聞こえる。
あの殺人現場は、霊的にみたらともすれば過去性があり、あの時真逆のことが起こった「写し絵」のようなものであったかもしれない。
その時の心情に駆られ、(つまり怨みや復讐心であるが)思ったままそれを行動に走らせては危険であると、ことあるごとに「ブレーキ」をかけ続ける霊界が、今も私の周りに「たむろ」している。
きっと、だからでしょうね私が「地雷を撤去」したのは・・・。(私の職場のことを言っています)
そしてそれは「霊的な地雷」です。
言葉を代えれば、復讐の地雷と言ってもいいでしょう。
同じ立場になって初めて知る「心の痛み」、という地雷です。


ここまでくると、何と恥ずかしい人生でしょうね、いえ私がですよ~)
地獄の門番としてふさわしいでしょ。
その地獄が今後救われていく?・・・。
(ふふふ。むかしの私なら、ふざけんじゃねぇ!と、言ってますよ)
でも今は、少し静か、穏やかに暮らしています。

今般の抜擢人事をどのように解くか、明かすか、つまり解読するかは「神」が一番見たがっているんじゃないでしょうか。
きっとある意味で、「地獄の門番の第一次試験」とでもいうか「品定め」の内容ではないかと・・・。



これぞまさしく「人選」。
神あるいは霊界からの「人選テスト」だったとしたら~。
さてさて、この絵解きは何と答えを出すべきか・・・?。
(皆様にも、そっくりこれを「出題」いたします)
お互いに頭をひねり、心をひねって考えてみましょう~。






私と、そして「あなた」の使命

2015年02月06日 | 心霊現象
結論から申し上げれば、なんら違いはない。
生きて肉体をもつ限り、同じ使命のもとで生かされている。

・・・、とまあ言ってみればこうなりますね。

よって、今までの長き?に渡り「このブログ」を読み続けて下さった皆様(60人近く)、お一人お一人に改めて御礼を申し上げるとともに、これから行くべき、いや「行かねばならない」道をお示し申し上げる日が、ようやくやってまいりました。
ここまで来たら、逃げ出すことはもうできますまいて~(ふふふ)。
だって、最後に残ったのは皆様方なのですから。

大きくは、生きて「神のみ言」を学び、自分のものとし、あの世にては我が氏族圏において教示する役目こそが「あなた様」のお役目でございましょう。
運よく数人、あるいはもっと大勢の方々に「この世」にて伝授出来た場合には、これ以上の幸運(徳)はありますまい。
一人で戦うより二人の方が、またそれ以上の多勢の方が「戦さ」には有利と決まっていますから。
信仰とは、ともすれば「戦い」であり「忍耐」であり「もののふの言うところの潔(いさぎよ)さ」でもあります。
その「あなた」が行くべき「人の道」を指し示し、ある時は「ジャンヌ・ダルク」のように、そしてある時は「自由の女神」のように、我が氏族を導く先導者となられます。
間違いなくこれから行くべき「ところ」は、確かに在り、天の法則で成り立っているところであれば、魁(さきがけ)る者がいなければ、「その氏族」は確実に「霊界」で迷い子となっていくでしょう。

「人がやるだろう」と思ってはなりません。
「あなた」がやるべく今日まで導かれているのです。
神でもいい、仏でもいい。
より高い霊的存在から「見初められて」今に至っているとすれば、もう暗黙の了解が成されて久しいかと・・・。
さあ、立ち上がるのは「今」。
時を失っては、一生の不覚となりましょう。
・・・、とまあ、皆様方の尻を蹴飛ばすお役目を、今日は致したく存じます。


今日ほど「殺人」がいとも簡単に行われ、人の心が「またか・・・」と大した反応さえみせなくなった昨今。ここまで麻痺した感覚をもった人の世界で、さらにそれ以上の事が、事件が、恐怖が用意されていると知るとき、私達は歴史のクライマックスをもっと「危険」と「反省」と「おののき」をもって構えなければならない。勿論、何らかの用意(準備)をしてこその話である。
「事件」の背景には、必ず過去に撒いた種の実りがある。
これが因果律でもある。
事は偶然にはおこらない。起こったことが、何かの間違いでもない。
ただ、その事の起こった原因つまり背景が見えないだけである。
下校時に見ず知らずの男に刺されて、搬送先の病院で死ぬ「男の子」。
可哀そうに、運が悪かった・・・、では終わらない。
ストーカーに悩まされ、挙句に殺される。・・・、これもたまたまであり、運が悪かったのか?・・・。
文化も歴史も違う異国で災難に遭う。・・・、これも偶然か?。

目に見えない「糸」ほど、始末に悪いものはない。
が、言い換えれば「観ようとしなかったあなた」が悪いか、それとも「見えないまま今日まできたあなた」が悪いかのどちらかである。
勝負は、「戦う相手」が分かって初めて勝因につながる。
相手が「何かがさっぱり分からない」ということは、負けるしかない。
つまり歴史の過ちを再び、あるいは三度繰り返すしかない。
「今、自分の周りに何が起こっているのか」あるいはまた「これから先何が起ころうとしているのか」を、確実に見極めることの出来る人物が必要になる。
それが地球規模ならば、「メシア」と呼ぼう。
さらに国単位であるならば「国家的メシア」と呼ぼう。
さらに民族であるならば「民族的メシア」あるいは「民族的指導者」と呼んでもいい。
さらに氏族ならば、・・・「あなた」だ。
その一人を見つけようと「霊界」は躍起になっている。
それが「今」だと申し上げる。
「いない!」とは、言いたくもなければ、思いたくもない。それが霊界人の心情である。
今まで「何事」も起こらなかったのは、これから起こるというだけのことである。
先祖があり、霊界があるのであれば、必ず何かを起こして知らせるはずである。
昨日までは他人事だった出来事(厄災)は、今日は現実的なものとなって「あなた」の目の前に起こり、その意味を無言で問う時がくる。


海外における「邦人(日本人)」の安否が、ようやく気になりだした今。
事が起こっても、多分きっと「手も足も出ない」日本であるかもしれない。
かつての日本人とまるで外形も根本精神も違ってしまった「今様日本人」には、何をもって世界に日本あるいは日本人の特異性(徳性?)を知らしめるのだろうか・・・。
結局は今日まで世界に撒いてきた日本人の「種」が、芽を出し花が咲き、実ったまでのことだ。
「それ」を受けるのが、めぐり合わせでもある。
個人を煽動し、国民を煽動し、国と国を繋いで煽動するものは、悪と善に別れざるをえない。
何が正しいのか、何が正しくないのか~、今だからこそ見極める必要がある。
自分個人の趣向ではない。天の法則からみての善と否を識別する霊的基礎が出来ていることが必須になる。
答えが分からない時、彼らは悩みそしてその挙句に祈ってきた。
天からの啓示(あるいは教示)は、そんな時に現される。
答えが分かるから指導者でもなく、先見の明があるから魁けでもない。
「天」あるいは「神」に繋がってこその指導者が、霊界が必要とする「我が指導者」となれる。

あなたは何処から来て、何処へ行くのか・・・・。
このことが分からない限り、道を目指すことは出来ない。
肉体ある今から霊になってからも辿るその道が、一貫したものとして魂に刻まれていなければ、目的まで辿りつくことは至難のことである。
求道者の道はすべからくこのようなものであった。
途中に起こる「惑わしの術」にはまってはならない。
目には見えないが「尖刃の谷」が脇に迫っているのを、見極めなければならない。
我が血統の「功罪」を知らなければならない。
先祖を意識し、最初(出発)から最後(終着)まで、全期間を愛と覚悟をもって「責任と祈りの人」になりきり全うする者を目指していく・・・。
そのような者が血統圏に三人いたらどうなるか?・・・。
答えは明らかだ。

皆様が今こそ霊界に向けて「所信表明」をされる事を、心から願いそしてお勧めする。
そこからしか霊界は動かない。
何かを起こす「キッカケ」を、地上で肉体を持つ「あなた」から発信することを、彼ら霊達はどんな思いで待っているか・・・。
全ての発信源は今は地上にあり、霊界は従の立場で動くようになってきた。
地上が動かなければ、霊界は動くように刺激をするが、それはあくまでも「つっつき」にすぎない。
『来るのか、来ないのか!』と、私が恫喝されたように、「やるのか、やらないのか!」という一喝がいずれ皆様を襲うことになる。
ま、関ヶ原の合戦の時の「小早川家」への脅し、つっつきに似たような場面と思えば納得がいくというもの。



皆様が最後の頼みの綱と申し上げて、今日まで何度も同じことを繰り返し綴ってきた訳や意味を、ここで再度確認させていただきます。
時々私も古いページをめくるように、過去に書いた文章を読み返しております。
中には明らかに、私が書いたものではないといったものがあります。
ああ、書かされたか~、とね。
私の想い(心)を使って、そのごとき文章にしたて、あの世から送ってきた「嘆願書」のようなものは、今思えば動かない地上人への「苛立(いらだ)ち」だったかと思ったりして、ただただ申し訳なく思う今日このごろでございます。

人の想いというよりも、私個人の我の想いが先に立つ日々を暮らしている現在。
「血統が違うわい!!」・・・、と開き直る事多き私めでございますが、この罪深さ、業の深さこそ我が心を通して現れる先祖であり、修行者たちであり霊界人の抜け出せない「囚われの身」となっている「今の現状からの訴え」であろうかと思う次第。
許せない事は、やはり許せない!。
愛せないことは、やはり愛せない!。(これが私の正体である)
しかし・・・、主よ、あなたは「怨讐を愛せ!」とまで言われる。

地上の修行で足りるとは思ってはいません。
しかし、あの世での修行はもっともっと辛く、さらにはかどらないと聞く。
なぜ?・・・。
肉体あってこその霊の成長である、という鉄則があることを思えば、歳こそ重ねても肉体あるうちに身に付けた「心」こそ「使命者」としての「戦利品」であるかと・・・。
人に見る「魔」よりも、それに反応する己の魔をこそ克服せよ!・・・、とどこかで言葉がこだまする。
そうだ・・・。(いつも言われているあの言葉)

♪ 人に勝つより 自分に勝てと
  言われた言葉が胸にしむ~      



「姿 三四郎」の唄の歌詞を、皆さまにお贈りしながら、今日もまた深く反省する「私め」であります。
(職場にばら撒いた私の「目に見えない地雷」なるものは、反省するとともに撤去いたしました事を、 謹んでご報告させていただきます)

そうそう、若い職員が私に聞きました。
「いつも元気でがんばってますねぇ。いつまで続きますか?」と。
いろんな意味を含んでの問いかけだったのでしょうが、すかさず私の口から出た答えは・・・。
『あと、半年位ですかねぇ~』・・・と。

言った私が驚いています。
えっ、あと半年なの~。(私が答えたんじゃないとしたら・・おお、怖!)
皆様、どうぞお付き合いくださいませ~。