霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

相手を知ること

2013年06月20日 | 心霊現象
いずれの時にも相手がいるときは、「相手」をよく知ってから行動を起こさなければならない。
「モンブラン」の山の頂まで案内したガイドが、TV画面の向こうでこう言う。

『まず山をよく知ること。自分の限界を知ること。戻ることの勇気をもつこと。
 そして最も大切なことは、楽しむことだ』と。

相手を知り、己(おのれ)を知る。
これこそ闘いに勝つ秘訣である。そして人生を生きる秘訣でもある。

第二次大戦の時の話である。
アメリカは莫大な予算と資源をつぎ込んだ。あらゆる英知を終結させ、可能な限りの人数を投与した。
この大作戦は、もう一つのことを加えることによって、大方は勝利を約束されていた。
それが「相手」、つまり「日本」を知ることだったという。何でもいい、知り尽くすまで徹底した。
日本で「今」一番歌われている流行り歌は何か?。そして今上映されている映画は何か?。その内容はいかなるもので、国民の心をとらえているのか?。今一番読まれている本は何か等々。
分析に分析を重ね、「日本人」とは何者であるかを、まず知ろうとしたという。
歴史と文化を造ってきた日本人(日本)を知ろうと、本当に努力したのだ。これもまた戦の作戦である。
知ればこそ、その裏も分かる。ゆえに「その裏を欠く」ことも出来る。
その努力のすえ、日本の暗号文はほとんど解読されていたという。
手に取るようにわかる日本側の作戦。ましてや終戦前は全ての物資に事欠いていた。
勝つ、と分かっていても、たった一つだけ誤算が生じるとすれば、日本人の「大和魂」だけである。
彼らアメリカが硫黄島を責めるころは、アメリカ国内でも「もめていた」。
もうこれ以上闘うのは嫌だという、国民の意気消沈したムードが蔓延し始めた時だったらしい。

日本への「原爆投下」は、別の視点で語られることもある。
その一つは気象状況である。つまり、投下当日の「天気次第」という意味である。
一回目。投下の予定地は「新潟」。しかし雲が多く狙いが定まらない。その時雲の切れ間は、広島の上空だった。急遽投下地は変更され「広島」に原爆が落とされた。
新潟、それも「長岡」の地だったという噂もある。
いずれにしても、「雲の切れ間」が運命の分かれ道になった。

いま一つの視点がある。
「クリスチャンの迫害」という歴史的事実から、投下の地が決定したとする見方である。
歴史を知ってか知らずか、日本において「とりわけ厳しい迫害」のあった場所。
それが新潟、長崎だというのか?。
あとからのこじつけかもしれない。が、現実に投下された事実をみれば、広島も長崎も「迫害の地」であったのだろうか?・・・。

日本の歴史的事実から、彼ら「アメリカ」が神に代わって割り出したとは思えない。
たまたま、偶然にそこだったと思いたい情の中で、こうも考える。
偶然が重なりあって、神の手が的確に的を当てた・・・と。
しかし、これを他国の人が言ってはいけない。
「原爆投下は、神の罰だ」と。どこかの国が「バカな事」を言ったっけ~。
『罪のないものから、石を投げよ』。
そのダンから言えば、何人も、何国人も指をさし、石を投げることは許されない。
よしんば「神の罰」だとして、それを「ざまぁみろ!」と言ったものは、いずれ「その罰」を今度は受けるハメになる。という因果はめぐるということを知らなければならない。


相手を知るという「作業」の中で、是非忘れずにやっていただきたいことがある。それが目に見えないが確かにあった歴史的事実と、霊的背景である。
多分、きっと、「マッカーサー」の先祖は、日本国天皇に会うとき、地上の彼にありったけの力をもって霊的に働きかけたのだろう。でなければ、絞首刑か銃殺刑はあたりまえのように敗戦国の長に対する罰、あるいは見せしめとして「実行」されることは常の事であった。
前のブログで書いたように「先祖の功労」は、神といえども「アンタチャブル」だと。
歴史を賭けて積み上げてきた「皇室の祈りによる功労」が、現実に意味を現した稀有な一瞬でもある。
こういった意味からも、「天網恢恢疎にして漏らさず」が現代に生きている。


一人で生きていかない限り、必ず「われ」の相手は存在する。
日常、その相手を何人も代えては、日々を生きていくわたしでもある。
形だけしか見えない私達は、霊の世界からすれば盲目である。
何も見えない状態で、目にうつる実態のみで判断し、常識に当てはめて生きている。
それが、いつか割り切れない事実を生む。見えない部分を無視して繋いだ人生に、待ったをかける時が来たのだ。
「あの世」だって黙っていられない時を迎えたのだ。
実にい~い時が来た。
それが「丁」と出るか、「反」と出るか?・・・。
「相手」をあなどることなく、よくよく知った上でお相手なさいまするよう、くれぐれもご注意申し上げます。

そうそう、「相手」を知ることで最も難解であり、かつ重要な事があります。
それが「神」を知るということ。
神は信ずる対象ではなく、「知る」ものであると思召せ。
そういう意味で、わたしたちはお互いに「これから、これから」~。