霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「罪深いものは・・・」

2012年05月31日 | 心霊現象
では、今日は昨日の続きで、「罪深い者は、出て行け!」という「事」の次第をご説明いたしましょう。

この言葉を吐いた「宗教者」がいたことも、驚きであるが、この言葉が私のブログに度々登場する「あの霊能者K氏」に向かって吐かれた言葉だと知れば、なお驚かれるかもしれない。
なぜこのようになったのか?
この時点では、K氏はまだ自分の背景を知らない。
その宗教団体は、キリスト教を表に出してはいるが、若い者も多く「なじみやすい」雰囲気であったことは、
確かだった。
当然上に立つ者も「年寄り」ではない。
この「御仁」は、結果的に言えば何も分かっていなかったとしか言いようがない。
しかしいかなる理由があるにせよ、この言葉(台詞)はいただけない。
宗教者としては、決して吐いてはいけない言葉ではないか?

今にして思えば、あの「滋野一族」が総立ちになって事を構える体制をとったとしても仕方のない、いわば
『一触即発』の瞬間だったのかもしれない。
「めくら蛇におじず』って言葉がある。そっくり当てはまる。(いや無知と言ったほうがいい)
滋野にしてみれば、血統の代表を送り込んだら、「罪深い者は出て行け!」と言われた。
あの世とこの世のあちらこちらで、雷鳴がとどろいてもおかしくないそんな場面を、無知であるがゆえに
招いてしまった「御仁」は、団体の責任者だ。

そんな言葉を吐く宗教、あるいは団体など、とっとと見限って出てくればいい・・・と、今だから言えるが、
自分の立場も背景も、何も知らない個人が、小さかろうが大きかろうが一介の宗教団体の「お偉いさん」に
言われたら、誰だってその言葉通りに何もかも否定したくなるのは、当然のことだ。
だからK氏もご多分にもれず「自分」も「血統」も否定した。
たとえそれが一瞬であれ、「罪深いもの」として、あるいはその末裔(まつえい)としての意識を、刷り込まれたことになる。
「あの世」あるいは「先祖」あるいは「血統」を知らないまま生きていくことになれば、彼は決して今のような人生を送る事はなかったであろう。
「罪深い血統」と思い込まされて、生涯を生きたかもしれない。
先祖、それも「滋野」の怒りは、どこでどう爆発するのか?・・・。
それが「いつ」誰にむかって、どこでどのようにして、何が起こるのか・・・。
怖い、としか言いようがない。祟(たた)るとか、呪うとか、そんな次元じゃないことは、お分かりに
なりますよね?

「無知」とはこういう事です。
その宗教団体が「どこ」で、そこの「誰」が言ったのか?
「時効」になったら暴露しましょうね。
でも怖いでしょ?「無知」って・・・。

「滋野一族」は、あの「真田一族」(もとは海野氏)をも含む。
「別格とまではいわないが・・・」と言ったあの「禰津氏」がいる。「望月氏」もいる。
この「滋野」を「悪の血統」よばわりした!
だからね、皆さま。
自分(己・おのれ)を知るということは、立体的に知るという事です。
目に見えない「あの世」つまり、「霊界」の立ち位置を知るということでしょうか・・・。
先祖の罪が深かろうが、徳が高かろうが、「知る」ということが大切です。
つまり、自分の背景を知った上で納得して、それでもその団体で学んでいくというのであれば、一面
あなたの勝手であり、求道心であろうからよしとする。
が、言われっ放しで、泣く位ならば、とっとと出てきて、自分の足元を固めてから出直せばいい。
・・・とまあこうなります。

今でこそそんな出来事は、一笑に付せるが、その時はすごく傷ついたでしょうね。
だからK氏は、霊能者M氏が神前において、K氏の前で座をはずした時は、ついうつむいてしまった。
「よほどの悪縁の血統か・・・」と思ってである。(詳しくは「K氏の霊能者としての出発」のところを読んでくださいね)
「悪の血統」というマインドコントロールに、一瞬ではあるがかかっていた、ということである。
こんなどんでん返し?は、人生にはいっぱいある。
知らなかったで、すませる気でしょうか?!

さあ、立ち上がれ!
あなたは何者だ?
そんなところで、いじいじする立場か!
その徳と高貴さを、世に示せ!・・・・と、こうなる。

ねっ、元気が出るでしょ。
勇気が湧いてくるでしょう。
これぞ「魔法」ならぬ、本当の「真法(まほう)」。
天から地に落ちるんじゃなくて、地から天に昇っていけ!
先祖を知って、がんばれ!!


そして、最後に一つだけ。
「相手をみて、ものを言え」って言葉がありますが、これからの世の中は「相手の背後をみてから・・・」と言い換えたほうがいいかもしれません。
そして、いくら背後、血統、先祖がどうこうといえ、地上人も「それなり」の徳や品格を、その身につける
べきでもありましょう。
それが「生かされている」私達の「今」とこれからの「責任分野」であると言えましょうね・・・。

さらに蛇足を・・・。
今思うとね、K氏においては「先祖」が「そこではない、他へ行け」とばかりにその「御仁」を使って
追い出したとも、言えなくもない。
結果的に、本来の「滋野らしさ」を世に現して今を生きておられるのですから・・・ね?

今また頭に浮かぶのは、あの「玉つき」。ビリヤードと人は言うが、人生は「あれ」みたいだと
思った次第です。
一回目の一撃は、たしかに痛いが、ころころ転がって、はじかれ、またはじかれて行き着く所は?・・・そこが天国だったら、一丁上がり!だ。

やっぱり何事も恨まないで、感謝したほうが、勝かなぁ~・・・?








これも縁?  2

2012年05月30日 | 心霊現象
「班長」である奥さんの目的は、「これ」だったかもしれないと思いながらも、無償で受けた恩に感謝した。
そして、これをもって返したという思惑は、わたしの下世話な損得勘定から成り立ったものかもしれない。
とにもかくにも、こうして私は「創価学会」の門をくぐる事になった。
手始めには、「奥さん」の自宅にての集会に参加することであった。
皆に紹介されて、場がなじんでくると映画が始まった。
学会に関する、初心者向けの宣伝映画である。
当時の会長「池田大作氏」の公演内容と、海外活動の内容。青年部の活動状況等々。
私が思っているよりも、はるかに大きい団体であり、その活動範囲は世界のいたる所にまで及んでいた。
日本人の知らない内容が、外国の人を、これほどまでに引き付けるのだろうか?
彼らの「マスゲーム」に至っては、あの「北朝鮮」顔負けの規模と、確かさで圧倒する。

へぇっ、知らないこととはいいながら、すごいものが日本にあったんだー!

ちょろいものだ。私はすっかり前のめりになって、心からは「学会」の悪のイメージを消し去っていた。
しかし、これだけは譲らない。
死ぬとき、何をもって、死神と向かい合えるのか。「それ」が学会の教えにあるのか・・・。
青年団の組織作りもみごとであり、それなりに魅力的でもあった。
しかし、私はサークルを探しているのではない。
男女の出会いを、求めているのでもない。
たった一つでいい、「人の道」に通じるものがあれば、私は学びきりたい。

しかし結果、私は分かれを告げた。
一人の偉大な人物は、教団にとっては必要である。
それは、絶対不可欠の要因ではあろうが、その人物につながることで、終わりではない。
私には「偉大なる池田大作教」にみえた。
これをもって、あの「死神」と、あるいは「死の瞬間」に向かい合えというのなら・・・、とうてい私には
無理だ。
所詮個人、所詮人間。「その人物」を拝むものでは決してない。
それを越えた、もっと先のものがない限り、「あの死神」に対抗することは出来ない。
これは、私にしか出せない「結論」ですから・・・。
その宗教や、団体の批判をしているわけではない。
私には向かなかった、という事です。



私にとってあの時の「死神」は、常に私の後ろを押し続け、決して離れない言わば「人生の相棒」でもあるのです。今となってはね・・・。
笑っちゃいますよね。それが私の人生らしいですよ~。

「もの」には「基準」というものがありますが、私が必要とする「それ」(教え、経典、真理性)は、死神に相対した時の、充分なる内容をもつものであるという事になります。
後ろから追いかけてくる「死神」に、くるりと向きを変えて相対したとき、「何」が一番強いでしょうか?
考えてみてください。それって、「神」しかないのでは?
なんて、面白い、滑稽(こっけい)なことになったものでしょうか?
私は「死神」に追い立てられながら、「神」に向かっていたのかしら?
人生に、これほど皮肉なことは、ないとお思いになりませんか?

これぞ、「縁」。神と死神の狭間(はざま)で右往左往する生き物、人間。
これこそが、えにしから繋(つな)がってきて現在にいたる対局の縁深きもの、「神」と「死神」
とは・・・・。


まあ、人生いろいろ。いろんな事があって、あたりまえ。
それだけ色濃い、深みのある人間性が養われるというものです。
だから、苦労の意味がそのとき分からずとも、信じて積み上げてみてください。
その後はじめて、
『苦労は買ってでもすれ』という言葉が納得できるのでは、ないでしょうか?・・・。
今様でいえば、苦労は逃げるに限る、買ってでもするものではない・・と言い代わっていると聞いた事が
ありますから、今ここで念のため、申し上げました次第です。










これも縁?  1

2012年05月30日 | 心霊現象
世の中には、いろんな事が起こります。
今さら言うことではないですが・・・。
しかし、こんな事言われてびっくりしませんか?
ある宗教団体で、言われた。『罪深い者は、出て行け!』と。
また言う。ある病院で看護婦に言われた。『あんただけが、患者じゃない!』と。
その前後をお話しなければ、話の全部がお分かるりにならない事は承知していますが。
しかし、「言ってはいけない事」って、世の中にはあるものですよ。
二つとも、その立場の人間だからこそ、言ってはいけないのです。いかが、お考えですか?

さて、皆様にとっても、自分が体験しなければ所詮「ひとごと」、いずれ自分の身に降りかかったとき、
その「こと」の重要性、あるいは意味するものが見えてくるというものです。
今は「看護師」などと、呼び方を変えてはいるが、昔そう呼んだ「看護婦」さんとどこがどう違うんでしょうかねぇ・・・。
今から30余年前の事ですから、これも「時効」の話として、お話しいたす次第です。
だから「実名」で。
慢性ではあるが、「今だ」と思って私は盲腸の手術を思い立った。
東大出の医師が多いという、知り合いのその言葉に押されて、東京・大塚の「大塚病院」へ入院した。
見ただけで逃げ出したくなるような古い建物だったが、東大の医師という決定的な信頼があった。
そしてたかが「盲腸」の手術だ。大事にいたるはずがない。
大安心の中で、ちょっとした休暇がとれると喜んで「まな板の上の鯉」になった。

「数を数えて~、お腹をつまんでます~、感じますかぁ~。よし、いくぞ!・・・」
メスが渡され、私の腹の皮が切られ始めたようだ。「血をふいて!」と医者が言う声が聞こえる。
そうだ、部分麻酔だから、全部耳から入ってくる。
「ところでさ、新宿の○○、行ってみたか?いいだろう。かわいい子、いただろう。
おれのボトルがあるからさ、今度一緒に行こうか・・・・」
私には生まれて初めての手術だ。いくら「盲腸」といっても、一応腹にメスを入れるのだ。
東大出の先生は、手術の時はこんな軽い話をしながら、患者の耳に入るのも知りながらメスを動かして
いるんでしょうか?
痛くないことを「よし」として、私は釈然としない思いで耐えた。これが事の「始まり」だった。

「これがあなたの切り取った物です。どうされますか?」と、ピンセットでつまんだ血だらけの「盲腸の
一分」を私に見せて、医者は言う。
今でもそんな事するんですかね?たしかに切り落とされた患部は、まぎれもない「私物」ではあるが、
いくらなんでも持ち帰る人って、いるんでしょうか?・・・。
「そちらで処分して・・・」と、手術台の上で言うしかない。
その後相部屋で寝かされて、私はやれやれと思った。あとは「ガス待ち」だ。そうオナラが出れば、手術は
成功だ。一週間で帰れる。(何事もなければ、の話だ)
しかし、麻酔が切れた後、のたうちまわる程苦しんだ。手術時に無理して引っ張り出した「腸」が、元の位置にもどるための「痛み」だそうだ。腹は切っているから痛いのは分かるが、背中の痛みは半端じゃなかった。
ナースコールのボタンを何度も押した。「みんなそうなんですよ~」と優しく声をかけ、痛み止めの薬を
くれた。度重なるにつれ、その態度が硬化した。その時出た台詞が「それ」でした。

『あんただけが、患者じゃないんだからね!』
ナイチンゲールとは名ばかり、「鬼婆」に見えたのも仕方ないでしょうよ・・・。
その後、私の首が立てられなくなった。首を支えている背骨に、電気が走るようになった。
車いすで運ばれて、レントゲン検査だ。異常なしだという。
『気のせいですよ。痛いはずがない』
盲腸の手術は、一週間すれば、退院になる。しかし私の首は一週間を過ぎても、電気が走って歩けなかった。

とうとう相部屋で、私は泣き出した。
こんなところで一生歩けなくなったら、どうするんだ?
医学的に何もないと、東大出の医師が言うのだ。
世間は私と医師のどちらを信じる? (レントゲンには何も異常を示すものは写っていない)
あと数日、退院は待ってくれと頼み込んだ。
私の頭の片隅には「医療ミス」の思いが、浮かんでは消えた。
そんな時だ、同じ町内に住む「奥さん」が見舞いに来てくれていた。
彼女はその町内の「班長」だった。何の?「創価学会」の班長だ。
その家ではいつも集会がもたれているのは、私も知っていた。
複雑な思いで、「泣いた」意味を彼女に伝えた。するとすかさず彼女は「麻酔じゃないかなぁ・・・、
マッサージがいいと思う。私は勉強したことがあるから、今からずーっと治るまでやってあげるね」だって。

一日二回。彼女は午前と午後に病院にやって来ては、私の首と背骨を中心にマッサージを施しては、帰って
いった。4、5日して、随分よくなってきた。やっと少し自分で歩けるようになった。
私は彼女に心から感謝をした。お金をとらない事が、心苦しかった。
とにもかくにも、追い出されるようにして、退院した。
これで、終わればめでたしだったが、付録があった。
抜糸の糸が、抜ききれずに残っていた。そこから皮膚が炎症をおこしたりした。
最後の最期まで、私には「何でこうなるの?」という思いだけが残った病院模様でした。

占いで言えば、きっと方角が悪かったのでしょうかね?
今思えば「何の縁」でこうなったのでしょうか~と、聞いてみたいものですが・・・。
多分、それは「彼女」に意味があるのでは?・・・と。
「創価学会」に私を向かわせる「縁」。
そうです。このような事がなかったら、絶対に私は縁を持とうとはしなかったでしょうね。
「泣く子も黙る創価学会」とまでは言わないが、信者が多い反面、嫌われていた団体でしたからね。
学会の人には悪いが、知りもしないで嫌っていた人は多かったようです。
なぜ? 評判が悪かったからでしょうか。
強引な「しゃくふく」(勧誘、伝導のこと)、うむを言わさず先祖の仏壇を焼き払い、教団の仏具を備えさせる等々・・・。
人のうわさや、風評のみでしかない。本当にその教義を学んでみての結果ではないことで、人は嫌った。
この際、学べということかしら?
借りがあるそれを、これをもって返そうといった気持ちは、確かにあった。が、これも「縁」である。
その「集会」に私は出るようになった。



<次へつづく>





「悪鬼羅刹」の化身?

2012年05月29日 | 心霊現象
さて、人は何事もない時は、その影の部分を表すことはない。
「光」なるあるものがあてられるその時、その影なる部分として現れる「心の現象」を「悪鬼羅刹」の化身
と申し上げる。
光を投げかけた者に対しての現象が、「悪鬼羅刹」の化身と見えてしまうと言えばいいのかもしれない。
「それ」を投げかけた者の勝手から言えば、そうなるとも申し上げようか・・・。
反対する相手をみな「悪鬼羅刹」の化身と呼ぶは、なんと手前勝手な「妄想」かと、言われそうだからだ。
ある部分から見れば、「反対」する者の方が、常識的であり、愛情豊かであり、物のわきまえを知っている
と、まあこうなるかもしれない。

ただ、私が申し上げたいのは、それを「手前勝手」、「わがまま」、「非常識」、「親不孝」の次元で一蹴されてしまうことへの大いなる「危険性」である。
ただ「それ」が、「闘ってでも勝ち取る内容か・・・」というそれぞれの持つ「価値観」の違いでもあります。
それぞれが持つ「価値観」という「ものさし」で計るのですから、一致する事などは、夢のまた夢、
ほとんどありえないないでしょうね。
では、私を挟んで、どれだけの人達の「価値観」が、はたまた「ものさし」が行き違いをしたか、ご自分の身
に置き換えてお読みください。



道を歩いていたら、若い人から「一枚のビラ」をもらった。
「あなたの人生が、解けます。理解して正しい道を歩きましょう」
といったような「勧誘」のビラだった。
すぐに私は「そこ」へ行ってみた。(今思えば、「オーム」でなかった事が幸いだった)
勤労者は、夜の部に勉強会が設けられていた。
そこへ通った。講話というよりは、聖書の勉強のようだ。
まあ何でもいい。結果、自分の命や人生の事が分かればいいのだから・・・。
次は「合宿」と称して、もっと密に学ぶ機会があると案内された。(いいですよ、分かればいいんですから)
さらに次は、「半月」にわたる合宿の案内がきた。この間は2、3日だったのに。
こればかりは、難題である。簡単にいうが、そう周りの全部が整うわけがない。
一人者で、何の縁も「しがらみ」をも持たない者ならいざしらず、これでも人の中で生きている私である。

私の心は、まず無理だろうと思った。この世のしがらみを思えば、出来るわけがない。
しかし、待てよ・・・。
私はあれ以来、何の為に生きているのだ?
そうだ、雪崩の雪山で感じたあの「死神」との約束を果たすために、命乞いまでして、今ここに生きて
いるのではなかったか・・・。
それでその「人の道」とやらは、探し当てたのか?
決して忘れてはいけない「私の原点」は、意識が少しは薄れた中であるが、いつでも心の奥に機会を狙って
生きてきた。
もしも、それが「今」、「ここ」だったらどうする?
死神が見ていても、気にすらならなくなったとでも言うのか?
徐々に「あの時」の思いが、恐怖とともに蘇ってきた。
人間はいつかは死ぬのだ。それが明日かもしれない。
見つけないままの時間を、いつまで続けているというのか?

『後悔は、結果にではない。やらなかった事の後悔が、取り返しがつかないのだ』・・・と、誰の言葉だったのか・・・、胸にせまってくる。

もう、行くしかない。
ここからが、私の持ち前の(?)親不孝と、非常識の勝手放題が荒れ狂います。
「あの時の恐怖心」を、根底から取り払ってくれるものは、「真理」以外にはなかった。
それは「親」でもなければ、「彼」でもない。上司でもなかったし、恩師でもなかった。そして、
親しい友人でもない。
そろいもそろって、みんなが「無意味」だと言った。気が変になったかと、疑う者もいた。
(あなたがたに、何が分かる!?)言葉に出したら「ケンカ」になる。
「立つ鳥、跡を濁さず」だ。職場にはもう二度と帰れないだろう。
私は、死んだと思ってください・・・、と全員に置手紙をして私は消えた。
もう、帰るところがどこにもない。この世で、失うものは、何もない、命以外は。
信頼や、愛情の全てをかなぐり捨てて、「真理」とやらに真っ向から立ち向かった時でした。
「裏切り者」。私に押された烙印を、甘んじて受けて出発した。
いずれ行かねばならない道、それが「今」というだけの話だ。
「死」もそうだ。いずれ行かねばならない道、その時こそ今度は少しは分かって、あわてる事なく行こう。



結局、この「第二ラウンド」は、戦い取ることは出来なかった。
相手を説得して了解を得るまでには、時間がなかった。だから私は「もぎ取る」ことにしたのだ。
否やを言わせず、自他ともに自分を殺すしかなかった、という事です。
誰も警察沙汰、つまり行方不明者や、家出人としての届け出は控えてくれた。
これを見ても、いかに周りに迷惑をかける「やっかい者」であったかが分かるでしょう。私が、です。
でもね、これくらいやらないと「手」に入りません。あの世の世界に関することはね。
では、それで全部分かったか?
分かりません。ほんの「さわり」みたいなものですから。
でもね、深い何かを感じて帰ってきたことは確かです。
皆様には決して、すすめるものではありません。
やれとも、やるなとも言いません。
今の世では、確実に多大な「リスク」を伴うでしょうから。
ただね、「虎穴に入らずんば、孤児を得ず」って言葉がありますね。
また、「龍の絵」という題で書いた内容、つまり龍が持っているあの「玉」を取り返してくるには、簡単
ではないという事だけは分かっていただきたく思います。

「あんぱんのごま」あるいは「けしつぶのごとき」と霊界の彼らが言う言葉の通り、ほんの一部の事かもしれませんが、それでも何かに至る道だと信じて進むことが、大切ではないでしょうか
・・・。

こうして、ブログを書き続けながら、皆様と画面を通して、お付き合いをさせていただく幸いを得たのです
から、人生長く生きてみるものですねぇと、今だから言えるのでしょう。


その後、どうしたか?
最後に残ったのは、身内だけでした。(私を受け入れてくれたのは、という意味)
あとは、みごとに?全部、私の周りから無くなりました。
人を試してはいけませんが、時としてその人の「影の部分」(闇?)を見るのも必要です。
案外自分がその「影」をあらわにしていたりして・・・ね。



最後に申し上げたき事があります。
どんな人生であれ、責任転嫁はあり得ません。してはいけません。
たとえ、人に勧められたことであれ、そう思って行動したのは、自分です。
あの人に・・・、とかマインドコントロールされて・・・などといったら、「自分」はどこにもいない、
まるで自分が「ロボット」のような言い方になるでしょう?
りっぱな人格をもって、自己性を発揮した結果がいかなるものであっても、自分から選んだ自覚を捨てない
でいただきたい、という事です。責任と覚悟は、二十歳をすぎた者が身に付けるべきものではないでしょうか・・・。
ゆえに、その人を「成人」と言いたい。


わたし?・・・、ある面から見れば、なんて幸せな人間でしょうか。
そして、ある面から見れば、とんでもない身勝手な、箸にも棒にもかからない人間となるでしょう。
両方がわたしです。

皆様、先祖にとってあなたは「いい人」ですか?と問われたとき、せめて胸をはって頷(うなず)きたい
ものです。







親の情に負ける時

2012年05月27日 | 心霊現象
人間にとって一番難しい情の問題は、「親子」の情かと思っていましたが、現代はあまりそうでは
ないようです。一面喜ばしい反面、悲しい部分もあるという事でしょうか・・・。
もし、現代に「萱野三平」が生きていたら、またもし彼が武士の家柄ではなかったら、「死ぬ」までには
至らなかったかもしれません。
あなたも、そう思いませんか?

親が泣いて頼む時、あなたはその親の情を無視し、足蹴りこそしないが、とっとと家を出て、自分の希望、あるいは志を成し遂げようとしますか?
私は「その時」、親の情に負けました。
さめざめと泣く親、特に母の涙の前に、もろくも崩れ去る「自分の決心」を、人ごとのように見つめて
いました。
理論、理屈にはかなわない「何か」があったことは、確かです。


私が25歳くらいだった時と、覚えています。
雪崩の事故から、何年かたっていましたから、少しはそのショックが和らいでの心の状況だったのでしょう。
ある日私は「一枚のポスター」を見ていた。
大きな二つの目が、私をじーっと見つめていた。
何?。 言いたいことを、その瞳の奥に隠して、じっと見ているだけだ。
アフリカ?いや何処かはわからないが、黒い肌の子供の顔が、ポスター一面に映し出されて、「私」を
見ていた。
その上に字が書いてある。「あなたも海外協力隊へ」と。
その団体名が「何」で、どこにあるかさえも知らずに、私は決心をした。協力隊にいって、「この子」がいる
国の為に仕事をしょう・・・と。
全くむてっっぽうといえば、その通りだ。
親には、受かったら話をすればいい。
ちょっと試験を受けてくるから、と言って隣町へ行ってくるような軽さで上京した。
東京、広尾にある「日本青年海外協力隊」である。
いまでこそ名の通った団体ではあるが、昭和45、6年はまだまだ、事業も始まりだったと覚えている。

結果、試験には「合格」。すぐに入隊せよとの事だった。
親への報告と、説明、説得の日々を費やしたが、OKは出なかった。
父は黙ったまま、無視を続けた。母だけが、この時ばかりと反対の意を長々としゃべった。
時間だけが経っていく。母はみるみるうちに顔をしかめたかと思うと、大粒の涙を両目から流し、こう
訴えた。
『アフリカの奥地に行くかもしれない。どじん「土人」の相手をするかもしれない。あなたに出来るわけが
ないでしょ!・・・頼むから、止めてちょうだい!母さん、生きた心地がしない・・・。』
と言うやいなや、とうとう私に手を合わせて拝んだ。

皆様、昔はね、肌の黒い人は「アフリカ」に住んでいて、「土人(どじん)」といわれ、奥地に入れば、
人を殺して食う人種もいると思われていた。といったら、皆さまは笑っちゃいますか?それとも信じませんか?
母は、それほど古い人でもなく、無教養な人でもなかったが、こと「我が子」の事になれば「ある事、ない事
」が、気になるのだろう。
その母の涙と、さめざめ泣く姿と、極め付け拝まれちゃった事で、私は「協力隊」の願望を自ら取りやめた。

これが「大望」かどうかは分からないが、私にとってみれば「大志」だ。
親の目でいえば「わがまま、勝手」な事であり、「親不孝」のなにものでもない。
親と縁を切ってまでも・・・という、大それた事は考えにない。
それよりもなによりも、「情」に負けた。
「親の反対で・・・」と、二十歳すぎた女が、実に情けない台詞を吐いて、世界への大望を捨てた。
ある意味で、私が死んだ瞬間でもあった。(腹こそ切らないが、志を売ったのだ)
その自責の念は、しばらく続いた。
私が私でなくなって、しばらくしたある日。
私は再びの蘇(よみがえ)りを計った。死んだ私を生かさなければ・・・!
何かに取りつかれたわけではない・・・が、「あの二つの目」が私を呼んでいる・・・。

まさしく「リベンジ」だ。
今度は負けない。誰が何を言っても、私は負けないで、初心を貫徹せねば!
どんな邪魔が、誰からはいっても、切り捨てればいい。
その為には、先ず試験に合格しなければならなかった。
再びの上京。再びの広尾であり「協力隊」だった。
「へーぇ、二度目ですかぁ」(はい、親に負けまして・・・)
「なるほど・・・。はい、わかりました。ご苦労様でした。次のかた~」
私はもっと話したかった。心の内を、熱く語りたかった。が、ものの4、5分で面接は終わった。

結果、「合格」。
親が泣こうと、はたまた死のうと?私は行くぞ~!
あきれ果てた親は、今度は娘に負けた、というよりも見捨てたのかもしれない。
あこがれの入隊日。日本全国から「燃えた」若者たちが、集まった。
まだまだ日本も、いや日本の若者も捨てたもんじゃない、と思えた。
その後、私の派遣国は「インド・パンジャブ州」と決定した。
朝早くから、起床、国旗掲揚、4キロのマラソン、そして朝食。
授業ほとんどが英語に費やされた。寝言も英語で言うくらいになる、と先輩諸侯がおどすくらいだ。

その後どうしたか?
無事に研修が終われば、私はめでたく「インド」へ渡り、インドの女性たちの「栄養状況を改善」するべく
大いなる役目について、世界狭しと、飛び回っていたかもしれない。
しかし、人生は「何」が起こるかわからない。
今、私がこうして霊界だ神だ人生だと、口やかましく、かまびすしい立場にいるという事は、その「何か」
が起こったからです。それは・・・。
研修中、あまりの激しい、厳しい日課に、体が悲鳴をあげてしまった。
脈が乱れてきた。時々止まったり、動いたり、早くなったり、普通になったり・・・。
医学的にいえば、病名は「不整脈」。医師の診断では、私は「不適正」。
つまり、インドでの「海外協力隊」の仕事は無理、という事だ。
即刻、強制送還された。どこへ?田舎の自宅にである。
人生にこんな事って、あるんですねぇ・・・。
私は声も出ない。泣くにも泣けない。人生の無情を嘆くだけだ。誰を怨めというのか・・・。
親は飛び上がるほど喜びたかっただろうが、私の顔色を見ながら、気を使ってくれた。




結果を見なければ、言う事を聞かない「私」に、何を言いたかったのか・・・。
今となれば、多分・・・、という気もしてくるんですが・・・。

このようにして、親と私の闘いの第一ラウンドは、終わりました。
まさかこれが、次にくる「第二ラウンド」へのテストパターンだったなど、この時に、どうして分かりましょうか。

その後、国際情勢も不穏になり、パキスタンの国境が封鎖されたり、インドにも飛び火したりで、一時は
「あわや」の時もあり、日本人も一時帰国した人もありましたが、その後治まって、今に至っているようです。
「テロ」や、「タリバン」などというものが無かった頃のことですから、今思えばそれでも穏やかな
国際情勢だったのでしょうね。

二度ある事は三度とは、さすがの私も決意が鈍り、協力隊の話は私の人生から消えました。
「二度目の親との闘い」は、神であり、霊界であり、真理であり、真っ向から「これ」を引っさげての
闘いとなりました。
今にして思えば、「こればっかりは、譲れない」という霊界からの押し出しがあったことと知るもの
ですが、実にみごとに邪魔がはいりました。

次回はその事をば、お話申し上げようかと。
「ブルータス、おまえもか!」(シェイクスピア)
それはまさしく、そんな思いになった事を、思い出します・・・。
ではまた次回に。