では、今日は昨日の続きで、「罪深い者は、出て行け!」という「事」の次第をご説明いたしましょう。
この言葉を吐いた「宗教者」がいたことも、驚きであるが、この言葉が私のブログに度々登場する「あの霊能者K氏」に向かって吐かれた言葉だと知れば、なお驚かれるかもしれない。
なぜこのようになったのか?
この時点では、K氏はまだ自分の背景を知らない。
その宗教団体は、キリスト教を表に出してはいるが、若い者も多く「なじみやすい」雰囲気であったことは、
確かだった。
当然上に立つ者も「年寄り」ではない。
この「御仁」は、結果的に言えば何も分かっていなかったとしか言いようがない。
しかしいかなる理由があるにせよ、この言葉(台詞)はいただけない。
宗教者としては、決して吐いてはいけない言葉ではないか?
今にして思えば、あの「滋野一族」が総立ちになって事を構える体制をとったとしても仕方のない、いわば
『一触即発』の瞬間だったのかもしれない。
「めくら蛇におじず』って言葉がある。そっくり当てはまる。(いや無知と言ったほうがいい)
滋野にしてみれば、血統の代表を送り込んだら、「罪深い者は出て行け!」と言われた。
あの世とこの世のあちらこちらで、雷鳴がとどろいてもおかしくないそんな場面を、無知であるがゆえに
招いてしまった「御仁」は、団体の責任者だ。
そんな言葉を吐く宗教、あるいは団体など、とっとと見限って出てくればいい・・・と、今だから言えるが、
自分の立場も背景も、何も知らない個人が、小さかろうが大きかろうが一介の宗教団体の「お偉いさん」に
言われたら、誰だってその言葉通りに何もかも否定したくなるのは、当然のことだ。
だからK氏もご多分にもれず「自分」も「血統」も否定した。
たとえそれが一瞬であれ、「罪深いもの」として、あるいはその末裔(まつえい)としての意識を、刷り込まれたことになる。
「あの世」あるいは「先祖」あるいは「血統」を知らないまま生きていくことになれば、彼は決して今のような人生を送る事はなかったであろう。
「罪深い血統」と思い込まされて、生涯を生きたかもしれない。
先祖、それも「滋野」の怒りは、どこでどう爆発するのか?・・・。
それが「いつ」誰にむかって、どこでどのようにして、何が起こるのか・・・。
怖い、としか言いようがない。祟(たた)るとか、呪うとか、そんな次元じゃないことは、お分かりに
なりますよね?
「無知」とはこういう事です。
その宗教団体が「どこ」で、そこの「誰」が言ったのか?
「時効」になったら暴露しましょうね。
でも怖いでしょ?「無知」って・・・。
「滋野一族」は、あの「真田一族」(もとは海野氏)をも含む。
「別格とまではいわないが・・・」と言ったあの「禰津氏」がいる。「望月氏」もいる。
この「滋野」を「悪の血統」よばわりした!
だからね、皆さま。
自分(己・おのれ)を知るということは、立体的に知るという事です。
目に見えない「あの世」つまり、「霊界」の立ち位置を知るということでしょうか・・・。
先祖の罪が深かろうが、徳が高かろうが、「知る」ということが大切です。
つまり、自分の背景を知った上で納得して、それでもその団体で学んでいくというのであれば、一面
あなたの勝手であり、求道心であろうからよしとする。
が、言われっ放しで、泣く位ならば、とっとと出てきて、自分の足元を固めてから出直せばいい。
・・・とまあこうなります。
今でこそそんな出来事は、一笑に付せるが、その時はすごく傷ついたでしょうね。
だからK氏は、霊能者M氏が神前において、K氏の前で座をはずした時は、ついうつむいてしまった。
「よほどの悪縁の血統か・・・」と思ってである。(詳しくは「K氏の霊能者としての出発」のところを読んでくださいね)
「悪の血統」というマインドコントロールに、一瞬ではあるがかかっていた、ということである。
こんなどんでん返し?は、人生にはいっぱいある。
知らなかったで、すませる気でしょうか?!
さあ、立ち上がれ!
あなたは何者だ?
そんなところで、いじいじする立場か!
その徳と高貴さを、世に示せ!・・・・と、こうなる。
ねっ、元気が出るでしょ。
勇気が湧いてくるでしょう。
これぞ「魔法」ならぬ、本当の「真法(まほう)」。
天から地に落ちるんじゃなくて、地から天に昇っていけ!
先祖を知って、がんばれ!!
そして、最後に一つだけ。
「相手をみて、ものを言え」って言葉がありますが、これからの世の中は「相手の背後をみてから・・・」と言い換えたほうがいいかもしれません。
そして、いくら背後、血統、先祖がどうこうといえ、地上人も「それなり」の徳や品格を、その身につける
べきでもありましょう。
それが「生かされている」私達の「今」とこれからの「責任分野」であると言えましょうね・・・。
さらに蛇足を・・・。
今思うとね、K氏においては「先祖」が「そこではない、他へ行け」とばかりにその「御仁」を使って
追い出したとも、言えなくもない。
結果的に、本来の「滋野らしさ」を世に現して今を生きておられるのですから・・・ね?
今また頭に浮かぶのは、あの「玉つき」。ビリヤードと人は言うが、人生は「あれ」みたいだと
思った次第です。
一回目の一撃は、たしかに痛いが、ころころ転がって、はじかれ、またはじかれて行き着く所は?・・・そこが天国だったら、一丁上がり!だ。
やっぱり何事も恨まないで、感謝したほうが、勝かなぁ~・・・?
この言葉を吐いた「宗教者」がいたことも、驚きであるが、この言葉が私のブログに度々登場する「あの霊能者K氏」に向かって吐かれた言葉だと知れば、なお驚かれるかもしれない。
なぜこのようになったのか?
この時点では、K氏はまだ自分の背景を知らない。
その宗教団体は、キリスト教を表に出してはいるが、若い者も多く「なじみやすい」雰囲気であったことは、
確かだった。
当然上に立つ者も「年寄り」ではない。
この「御仁」は、結果的に言えば何も分かっていなかったとしか言いようがない。
しかしいかなる理由があるにせよ、この言葉(台詞)はいただけない。
宗教者としては、決して吐いてはいけない言葉ではないか?
今にして思えば、あの「滋野一族」が総立ちになって事を構える体制をとったとしても仕方のない、いわば
『一触即発』の瞬間だったのかもしれない。
「めくら蛇におじず』って言葉がある。そっくり当てはまる。(いや無知と言ったほうがいい)
滋野にしてみれば、血統の代表を送り込んだら、「罪深い者は出て行け!」と言われた。
あの世とこの世のあちらこちらで、雷鳴がとどろいてもおかしくないそんな場面を、無知であるがゆえに
招いてしまった「御仁」は、団体の責任者だ。
そんな言葉を吐く宗教、あるいは団体など、とっとと見限って出てくればいい・・・と、今だから言えるが、
自分の立場も背景も、何も知らない個人が、小さかろうが大きかろうが一介の宗教団体の「お偉いさん」に
言われたら、誰だってその言葉通りに何もかも否定したくなるのは、当然のことだ。
だからK氏もご多分にもれず「自分」も「血統」も否定した。
たとえそれが一瞬であれ、「罪深いもの」として、あるいはその末裔(まつえい)としての意識を、刷り込まれたことになる。
「あの世」あるいは「先祖」あるいは「血統」を知らないまま生きていくことになれば、彼は決して今のような人生を送る事はなかったであろう。
「罪深い血統」と思い込まされて、生涯を生きたかもしれない。
先祖、それも「滋野」の怒りは、どこでどう爆発するのか?・・・。
それが「いつ」誰にむかって、どこでどのようにして、何が起こるのか・・・。
怖い、としか言いようがない。祟(たた)るとか、呪うとか、そんな次元じゃないことは、お分かりに
なりますよね?
「無知」とはこういう事です。
その宗教団体が「どこ」で、そこの「誰」が言ったのか?
「時効」になったら暴露しましょうね。
でも怖いでしょ?「無知」って・・・。
「滋野一族」は、あの「真田一族」(もとは海野氏)をも含む。
「別格とまではいわないが・・・」と言ったあの「禰津氏」がいる。「望月氏」もいる。
この「滋野」を「悪の血統」よばわりした!
だからね、皆さま。
自分(己・おのれ)を知るということは、立体的に知るという事です。
目に見えない「あの世」つまり、「霊界」の立ち位置を知るということでしょうか・・・。
先祖の罪が深かろうが、徳が高かろうが、「知る」ということが大切です。
つまり、自分の背景を知った上で納得して、それでもその団体で学んでいくというのであれば、一面
あなたの勝手であり、求道心であろうからよしとする。
が、言われっ放しで、泣く位ならば、とっとと出てきて、自分の足元を固めてから出直せばいい。
・・・とまあこうなります。
今でこそそんな出来事は、一笑に付せるが、その時はすごく傷ついたでしょうね。
だからK氏は、霊能者M氏が神前において、K氏の前で座をはずした時は、ついうつむいてしまった。
「よほどの悪縁の血統か・・・」と思ってである。(詳しくは「K氏の霊能者としての出発」のところを読んでくださいね)
「悪の血統」というマインドコントロールに、一瞬ではあるがかかっていた、ということである。
こんなどんでん返し?は、人生にはいっぱいある。
知らなかったで、すませる気でしょうか?!
さあ、立ち上がれ!
あなたは何者だ?
そんなところで、いじいじする立場か!
その徳と高貴さを、世に示せ!・・・・と、こうなる。
ねっ、元気が出るでしょ。
勇気が湧いてくるでしょう。
これぞ「魔法」ならぬ、本当の「真法(まほう)」。
天から地に落ちるんじゃなくて、地から天に昇っていけ!
先祖を知って、がんばれ!!
そして、最後に一つだけ。
「相手をみて、ものを言え」って言葉がありますが、これからの世の中は「相手の背後をみてから・・・」と言い換えたほうがいいかもしれません。
そして、いくら背後、血統、先祖がどうこうといえ、地上人も「それなり」の徳や品格を、その身につける
べきでもありましょう。
それが「生かされている」私達の「今」とこれからの「責任分野」であると言えましょうね・・・。
さらに蛇足を・・・。
今思うとね、K氏においては「先祖」が「そこではない、他へ行け」とばかりにその「御仁」を使って
追い出したとも、言えなくもない。
結果的に、本来の「滋野らしさ」を世に現して今を生きておられるのですから・・・ね?
今また頭に浮かぶのは、あの「玉つき」。ビリヤードと人は言うが、人生は「あれ」みたいだと
思った次第です。
一回目の一撃は、たしかに痛いが、ころころ転がって、はじかれ、またはじかれて行き着く所は?・・・そこが天国だったら、一丁上がり!だ。
やっぱり何事も恨まないで、感謝したほうが、勝かなぁ~・・・?