霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「桜の木」受難のとき

2013年06月27日 | 心霊現象
富士山が「世界遺産」に登録されてから、富士山を画面で見ない日がなくなりました。
喜ばしいことですから、その美しさがニュースになるのは歓迎です。
へたをすれば、「爆発」のニュースで騒がれる可能性もゼロではない「いわくつき?」の山なのですから~。
それにこの度は、「美保の松原」も一緒に入れての決定。泣いて喜んでいた「旅館のおかみさん」の顔も忘れられません。一緒に世界遺産にしたいくらいです。(おかみさん付きで世界遺産って、どうでしょう)
銭湯の「絵師」も、これからもっと絵を描かせてもらえれば一挙両得と満願の笑みでした。
富士には松原がつきもの。一体なのですね。日本にとってはめでたしめでたしでしょう。


その一方で、富士山の写真を撮るのに「邪魔」になると、ある場所で「しだれ桜」の木の先っぽを「ちょん切った」輩(やから)が出現。30メートルある木、それも「しだれ桜」。そのさきっぽがすっかり切られて無い!。写真撮影をする「その人」にとっては、富士山以外は、邪魔なんでしょうねぇ。
もしかして「そのしだれ桜」が、絶妙な場所にあって、富士山をさらに引き立てていたとしたら・・・。
彼らは絶対に切らなかったでしょう。

さらにニュースになった「桜の木」の受難。
京都・宇治での話。
宇治市にある「宇治公園」。知らないうちに100本の桜の木が根こそぎなくなった。
川べりにある桜の名所でもある。全部で350本あった桜が、100本はすでに切られ、これからも100本は切る予定とか・・・。
「いったい誰がやった?誰が決めた?」と怒り心頭の市側。そんなことってありますか?
犯人?は「国土交通省」。国の決めた「護岸工事」のためだから、市には断らなくっていい、だって。
市の職員も「マメ鉄砲くらったハト」みたいな顔をして、市民の抗議に四苦八苦しているという有様だ。

「宇治世界遺産を守る会」という人が泣きださんばかりの顔で、怒りで震えていた。
市民に相談もなしで、よくまあ「あの名所の桜」を100本も切ったものだ!(いくら事務的、お役所仕事でも、名所の桜を根こそぎなくすか!!・・・、と)
さすが、お役人の言い分。自治会長さんとか、川の周りの住人の方には説明をし、同意を得ていると・・・。

本当に「同意」したんですかねぇ。それにしても「宇治市」が知らなかったでは話になりませんなぁ~。
謎ですね。 ただね、こうして「邪魔」だとばかりにドンドン「桜の木」を切っていく日本人になってしまったのを聞くとね、桜が泣き泣き日本人と「さよなら」をする時期を、悟ったのではないかと。
日本から「桜」が無くなる日を思い浮かべてみてください。
そのうちに、外国の人から「桜を見にいらっしゃい!日本の人大歓迎!」なんて観光案内される日がきますから・・・。
桜並木が「有名」になるまでに費やされる「時間」や「労力」は、計算できません。
そうでなくても「桜が大好きな虫」にやられたら、またふりだしに戻るわけですから。


日本人がこよなく愛した「桜」を詠んだ歌。
歴史は古い。実に日本が生まれた時からあったような気さえしてきます。
あの木はいつ、だれが、どのようにして植えたのでしょうね。
もし、日本列島という地にいた原住民が「あった」ものを大切にしていたものだとしたら、「あとから着た
異邦人である」わたしたちは、ここに住む資格を失うハメに、いずれなるでしょう。
ましてや、八百万の神の時代、すでにあったとしたら、神の木でもある。
勝手気ままに「神の木」、それも列島民族に最もふさわしい「心の象徴としての木」として神が与えた「その木」を切って捨てようという民族は、いずれそのしっぺがえしを受けるでしょうね。

一回あることは二度あるんです。そして二度あることは「ほら!」三度あったでしょ。
たとえ小さな出来事でも、こと「桜の木」を切ることは、特別中の特別なのです。
その証拠に、誰も「あーあ、よかった」って思わないでしょう。
「なんて事だ!」「なにやってんだよぅ!」「けしからん!」と思う人のほうが絶対に多いはず。


♪ 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨(いかり)

そう歌いながら逝った若者の魂は、何を思って今をみつめているでしょうか・・・。(古い話ですねぇ)
あっ、なるほど。「七つボタンは桜に怒り」だと。
何のことか分からない方のために。 第二次大戦に駆り出された若い兵隊さんのことです。
彼らがよせた心のシンボルが「大和魂」であり、「桜ばな」だったということでもわかるように、いわば「桜」は日本のシンボルだったのです。今でも「国花」は桜でしょう。
蛇足ながら・・・。
桜の開花を告げる気象予報士の足が向くところ。
東京は靖国神社の「そめいよしの」の樹なのです。

「ガン」を宣告されて余命いくばくもない人。
その人がたった一つ心残りがあるとすれば、「来年の桜」が見れない・・・、という事だと聞いたことがある。
今は「その句」が頭に浮かんでこないが、「西行」が詠んだ歌に「この桜の木の下で死にたいものだ」という
のがある。
そこまでの「思い入れ」がある西行もうらやましい限りであるが、心乏しい私には、「その桜の木」の下で死にたいと思う木もなければ、その気にさせる他の木にさえ、出会わない。
そういって自然、とくに樹木を見たときに、「そこ」を「死に場所」と見初める人の心のDNAは、きっと今も日本人に宿っているはずだと信じたい。

現代になって「樹木葬」というのが出現してきた。
営利抜きで見たとき、「西行」のように自分の愛(め)でる木に会って、「ここがいい!」と自由に決められたら、死に場所もさぞかし華やぎ、風流の極みであるかもしれない。
それこそ国土交通省の出番である。それも「待った!」と。


桜の木が切られて、どれほど「さびしい」か・・・。
体験した者が一番強烈なショックを受けるのは、私も経験ずみですからよく分かります。
なぜにこんなにも深く、人の心に影響力のある「花」であり、「木」なのでしょうね。
人が変わっていくといいますが、本当に段々と人が変わっていき、そして「日本」も変わっていくのでしょうか。
いい方へ変わっていくことを祈りながら、桜だけは残してください!と、心から祈ります・・・。