霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

何事も起こらない日々(ニュースがない日)?

2013年06月29日 | 心霊現象
「氷川丸の先生」が、ニュースを見ている私に向かって、こう言われる。
『面白い?』と。 どんな意味で面白いかと問うのか?・・・私は「はい」と答える。
ニュース自体が、「良い事」よりも「人の不幸」を伝えている方が多いと、きっと知ってのことだ。
「はい」と答えた私の返事には、きっと「人の不幸が面白い」という意味にとれた可能性がある。
「先生は見たくないんですか?」と私は聞いてみた。
「だって、面白くないんだもの・・・」。これが答えだった。
世間の事にはとんと興味もないし、面白みも感じない。関係ないわぁ、とも受け取れる。
「年金が減るかもしれないし、電気料金はもう上がったし、今年の夏は猛暑となれば水だって足りなくなる。大変でしょ?」と反論しても、『そんなことないでしょう?』と言い切って終わりである。
国際情勢のニュースが耳に入っても、どこ吹く風。
『日本人は強いはずですから~』で終わる。
まあ、忘れたいことが多かった時代であれば、その思いは分からないでもない。
「人の不幸」や「国の不幸」は、見たくも聞きたくもないのかもしれない。

考えてみれば、何事か起こるからニュースになる。何事も起こらなければ、ニュースにはならない。
ニュースの時間に、「今日はニュースがありません。これがニュースです」などと言ったら、笑い話になってしまう。
今日も何かが起こって、それを知って明日に繋げ、安心してあるいは不安の中で休む。
世間が狭くなり、全てに疎くなっていく高齢者の生活は、ニュースを見て情報を得ることで世間とつながり、今の自分の立ち位置を確認して、今日を終わろうとする。そんな心理状況の中で生きている。
だから、「ニュースを見ること」や、「知ること」は欠かせない。
いわば、あたりまえの生活である。ただ幸か不幸か、そのニュースの中に自分が「登場」しなかっただけの話である。
考えてみれば、「無くてすめば、こんなにいい事はない」という職業もある。
しかしそんな想いを「あざ笑う」かのように、「その職業」は日夜フル回転しているという有様だ。
この世に犯罪がなければ・・・、国際情勢も安泰ならば・・・、自然災害もなければ・・・。
しかしニュースの無い日は、ない。


わたしたちは時あるごとに、「一寸先は闇」と言って自分を戒めている。
しかし『一寸さきはヤミがいい』といった人がいるとか・・・。
亡くなった山本夏彦さんの本が、同じ題で出版されているらしい。(新潮社)
「さすがに人生をよく知った人のいうことだ」とは、「養老氏」の言葉だ。(ほんとうに、そうなんですかねぇ)

人間の思考の中には、「こうすれば、こうなる」という思いがまずある。
それを学ぶのも勉強であり、常識であり、学校や会社やサークルや家庭から影響もうける。
その結果、「こうすればこうなる」という定義が崩れることを知る。つまり「こうしても、こうならない」という事実を知る。なぜだ!
世の中が「単純」から「複雑怪奇」になった、と申し上げればことはすむかもしれない。
実際生きてみなければ、「人生」なんてわからない、となる。ある意味真理である。
しかし、それは「自分の生き様」であって、「人の生きる道」をいったわけではない。
先を見通せる目がもしあるとして、その目で見れば、常に二つの道が見えてくる。そして二者択一を迫られる。その連続が人生だと言ってもおかしくないだろう。

いままで「あみだくじ」なるものをやったことがない、という人はめずらしいだろう。
あれは先が見えないまま「自分の先」に「しるし(印)」をつけるようなものである。
開けてびっくり。だれもが「良いこと」を思いに抱いて、選ぶものである。
決して「人」が介在できないもの、として「くじ引き」があり、ことあるごとに「公平」や「文句のつけようがない」代名詞として使われてきたらしい。
聖書でも出てくる場面。
「ユダ」の裏切りのあと、その抜けたユダの代わりに誰を選ぶか・・・。
くじ引きをして選んだとある。それが「マッテヤ」であった。
どこかで聞いたことだが、神様でさえ「くじ引き」には介在されない・・・と。(?)


ニュースのトップが、「国難」に関わることは出来ることならば「ご勘弁」願いたい。
さらに「火山噴火」や「大地震」、竜巻や台風など、難を避けたい気持ちは誰も同じである。
しかし所詮それは、この世の出来事であり、目で見える世界でのこと。
もう一つある世界。目に見えない「あの世」の事情はいかばかりか・・・。燃えたぎる心(魂)が、
そろそろ「沸騰点」に達しているころではないかと、心配である。
それが、「こうすれば、こうなる」はずのことを覆し、「こうしても、こうならない」一番の原因であると申し上げてきた。
人が生きる日常のニュースの中にこそ、「その投影」が見え隠れするがゆえに、アンテナを高く張り、世の動きを見落とすことなく、「あの世」が「わたし」に教えようとする「かすかな声」と「わずかな知恵」を確実に受け取りたいと思うのである。

ニュースは人が存在する限り、無くなりはしません。
ただ、その中身が変わるでしょうね。
戦争や災害や病気や、人の殺傷ごとなどから解放され、今までに考えたことも、見たこともない希望と喜びのニュースが、日々流され、瞬時に世界が反応し、人類が繋がっていることを、つまり「運命共同体」であることを身を持って知り、喜び合う世界・・・、それを告げるニュースで朝から深夜まで報道され続ける・・・。


世界の大陸を全部「ハイウェー」で繋ぎ、食糧供給は一日で成る。
すべては「地球規模」で行われるゆえに、どこに住もうと、報道されるそのニュースは、「わたし」に直接関係するニュースとなる。
と、こんな構想を聞いたことがあります。
「夢のような」という言葉がありますが、その実現、つまり具現化されたものを是非「この目」で見たいと思いませんか!。
その「青写真」は、すでに霊界では出来上がっていますから、もうすぐ?(人の心次第です)地上に降りてくるでしょう。
そんなニュースの、あふれんばかりの数々を、生きて見たいものだといつも思っています。

こんなニュース、見たくもない!、という日から、こんなニュースなら、いつまででも見ていたい!
と、移り変わっていく日を夢見ています。

「氷川丸の先生」と私が二人で乾杯する日。つまり、この世の見たくもないニュースが無くなる日。
二人はいつでも「その用意」があります~。

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