「青年」という言葉で想像する我々のイメージは、それぞれの感覚、あるいは人生観などで
大いに分かれると思う。
あなたに「青年とは・・・」という題で何かを書けと言われたら、さて何と綴るでしょうか?
規制されたことではなく、ごく自由に考えご自分の言葉で綴ってみてください。
次の『青年とは』という短い文は、あの「修養団」の研修の時に渡された資料の中にあったもの
です。
そして私達はまた、『教育基本法』なるものの第一条「教育の目的」をしっかりと読みながら、
日本という国が、「何」を目指して国家の根本精神のもとで世界の一国として将来を見据えたかを
学ぶことでした。
日本という国を知るには、歴史もさることながら、「国家の憲法」を知らなければならない、と
ようやく気が付くのです。
法律の専門家になるわけでもない私なぞは、学校の社会科の時間以外は今に至っても学んだ記憶
がありません。
最近とみに騒がしくなった政界の動きでは、『憲法改正』という話題さえ上っています。
何をどのように、またどこをどのように改正するというのでしょうか?
今日は「修養団」の資料をここでご紹介しながら、またまた問題提起の場といたします。
青年とは
青年とは、生命の期間ではない。
青年とは精神の状態である。
青年とは、豊かな頬(ほほ)、赤い唇、柔らかい肢体をいうのではない。
意志の力、創造力、感激性を指すのである。
齢を重ねるだけで誰も老いてゆくのではない。
理想を失い、自信をなくした時のみ人は老いる。
年齢は皮膚に皺(しわ)をよせるが、情熱を失うとその人の魂に皺がよる。
常に明るい希望をもち、勇気凛々未来の夢に挑戦する人、生命の歓喜(よろこび)を神に
感謝する人であれば、五十歳であろうと七十歳であろうと、その人は青年である。
春たけなわの新鮮さこそ、青年の魂の真の姿である。
『教育基本法』
第一条(教育の目的)教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として
真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われな
ければならない。
と、記されています。
改めて読んでみると、なるほどと思います。
が、これを実践するには、「それ」が実現するために携わる人材の育成こそが先ず問題になる。
教育は、何も「学校」だけではないことくらいは知っている。
しかし私達の頭で思い浮かぶといえば、ほとんどの比重を学校に置くのは仕方のない今の現状
である。
そしてこの定められた「法」が、「絵に描いた餅」であり、形骸化していることも分かっている。
今後細部にわたって、法が改正されるとしたら、頭の中で考え、机の上で弄繰(いじく)り回す
だけのものであってはいけない、と誰もが思う事だ。
どなたかが言った「最期の御奉公」。やれるものならば、是が否にもお願いしたい。
日本人の根本精神を造ろうという教育の法こそ、さっそくにも待たれる内容である。
混迷の日本人の根本精神が無くならないうちに、である。
私がのぞいた(?)修養団の研修会には、当時(昭和55年、56年ころ)参加を勧めた企業が
たくさんあった。
例えば「東海青年会議所」、「アルナエ機(株)」、「日立照明(株)竜ヶ崎工場」、
「東芝ケミカル(株)」、「岐阜シェル石油販売(株)」等々が同期の桜である。
バブルの時代から、それがはじけた時代をぬって、今はどれだけの企業、あるいは会社が存続
しているかは分からない。
しかし、その時に「伊勢」にて学んだ心の糧は、永遠に残り続け、一人一人を日本国の勇士として
育て上げ今に至っていると信じてやまない。
「青年とは」という文から見れば、80歳の「じいさん達の集まり」でも『青年』といえるのだ。
その中には『暴走老人』もいらっしゃる。
「なんで俺がやんなきゃならないんだよ! 若いもん、しっかりしろよ!」
と、「あの方」がおっしゃる。
でもね、「青年とは」何をもってそう言うのか、という今日の文の通り、青年は年齢にあらず、
「魂の春のときめき」をもって、そう言うのだ。
さて、このようにして日本を見回したとき、日本に「青年」が何人いるんでしょうかねぇ。
心が見えるメガネがあるとして、それで見たら「みんなしわしわ」だったりして・・・。
さあみなさん、「青年とは」このブログを読んでいらっしゃる「あなた」ですからね~。
私は期待して、待っています!
大いに分かれると思う。
あなたに「青年とは・・・」という題で何かを書けと言われたら、さて何と綴るでしょうか?
規制されたことではなく、ごく自由に考えご自分の言葉で綴ってみてください。
次の『青年とは』という短い文は、あの「修養団」の研修の時に渡された資料の中にあったもの
です。
そして私達はまた、『教育基本法』なるものの第一条「教育の目的」をしっかりと読みながら、
日本という国が、「何」を目指して国家の根本精神のもとで世界の一国として将来を見据えたかを
学ぶことでした。
日本という国を知るには、歴史もさることながら、「国家の憲法」を知らなければならない、と
ようやく気が付くのです。
法律の専門家になるわけでもない私なぞは、学校の社会科の時間以外は今に至っても学んだ記憶
がありません。
最近とみに騒がしくなった政界の動きでは、『憲法改正』という話題さえ上っています。
何をどのように、またどこをどのように改正するというのでしょうか?
今日は「修養団」の資料をここでご紹介しながら、またまた問題提起の場といたします。
青年とは
青年とは、生命の期間ではない。
青年とは精神の状態である。
青年とは、豊かな頬(ほほ)、赤い唇、柔らかい肢体をいうのではない。
意志の力、創造力、感激性を指すのである。
齢を重ねるだけで誰も老いてゆくのではない。
理想を失い、自信をなくした時のみ人は老いる。
年齢は皮膚に皺(しわ)をよせるが、情熱を失うとその人の魂に皺がよる。
常に明るい希望をもち、勇気凛々未来の夢に挑戦する人、生命の歓喜(よろこび)を神に
感謝する人であれば、五十歳であろうと七十歳であろうと、その人は青年である。
春たけなわの新鮮さこそ、青年の魂の真の姿である。
『教育基本法』
第一条(教育の目的)教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として
真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われな
ければならない。
と、記されています。
改めて読んでみると、なるほどと思います。
が、これを実践するには、「それ」が実現するために携わる人材の育成こそが先ず問題になる。
教育は、何も「学校」だけではないことくらいは知っている。
しかし私達の頭で思い浮かぶといえば、ほとんどの比重を学校に置くのは仕方のない今の現状
である。
そしてこの定められた「法」が、「絵に描いた餅」であり、形骸化していることも分かっている。
今後細部にわたって、法が改正されるとしたら、頭の中で考え、机の上で弄繰(いじく)り回す
だけのものであってはいけない、と誰もが思う事だ。
どなたかが言った「最期の御奉公」。やれるものならば、是が否にもお願いしたい。
日本人の根本精神を造ろうという教育の法こそ、さっそくにも待たれる内容である。
混迷の日本人の根本精神が無くならないうちに、である。
私がのぞいた(?)修養団の研修会には、当時(昭和55年、56年ころ)参加を勧めた企業が
たくさんあった。
例えば「東海青年会議所」、「アルナエ機(株)」、「日立照明(株)竜ヶ崎工場」、
「東芝ケミカル(株)」、「岐阜シェル石油販売(株)」等々が同期の桜である。
バブルの時代から、それがはじけた時代をぬって、今はどれだけの企業、あるいは会社が存続
しているかは分からない。
しかし、その時に「伊勢」にて学んだ心の糧は、永遠に残り続け、一人一人を日本国の勇士として
育て上げ今に至っていると信じてやまない。
「青年とは」という文から見れば、80歳の「じいさん達の集まり」でも『青年』といえるのだ。
その中には『暴走老人』もいらっしゃる。
「なんで俺がやんなきゃならないんだよ! 若いもん、しっかりしろよ!」
と、「あの方」がおっしゃる。
でもね、「青年とは」何をもってそう言うのか、という今日の文の通り、青年は年齢にあらず、
「魂の春のときめき」をもって、そう言うのだ。
さて、このようにして日本を見回したとき、日本に「青年」が何人いるんでしょうかねぇ。
心が見えるメガネがあるとして、それで見たら「みんなしわしわ」だったりして・・・。
さあみなさん、「青年とは」このブログを読んでいらっしゃる「あなた」ですからね~。
私は期待して、待っています!