では、一族が救われるためには、どのような形態(システム)をとっていくのかを、
最初に申し上げよう。
まず、救われるための確かな形が、この世、つまり地上に現れはじめると、霊界は
こぞって地上人を、その「救いの場所」へと、導きはじめる。
しかし、地上人のほとんどは、救われることなど、思うことなく、日々忙殺されて、
生活することで、せいいっぱいである。
しかし、霊界はいち早く知る。
なぜか・・・。
人間が、肉体を脱いで霊になったとき、もはや肉体に関したいっさいの物は、必要なく
なる。着ること、食べること、住むこと、飾ること、病を治すこと等々・・・。
霊界へ行って、必要になることは、全く次元が違ってくる。つまり、高い霊界へいくこと。
すなわち、霊格を高めることに、徹頭徹尾費やされるのである。
高い霊界とは何か・・・。
地獄から天国への、無限大に近い霊界の距離を、ひた走りに走ることである。
暗闇から、光のさす明るいところへと、行くことである。
もちろん、「天法」を知ることでもある。
地上で何一つ出来なかった「さとり」を学ぶことである。
自分自身の、本当の姿に近づくための、その「真理」を得ることである。
いっさいの肉的観念を、かなぐり捨てて、地上において修行した、わずかばかりの
「さとり」を土台にして、自分に目覚め、開発し、完成することが、いよいよ始まる
のである。遅かれ、早かれ、すべて「人間」である以上は、やるのである。
そして、もはや肉体のなくなった霊界では、さとりの内容一つにしても、地上の人間
の体を借り、地上人がさとるにつれて、共に少しづつ、霊格の高揚をすすめていくのである。
その時、より強い味方を得ることは、可能である。
より直接的な救いの内容を、因縁によって、一番身近かなところで得ることができる。
守護霊は、霊格に応じてつくのではない。血統的因縁において、つくのである。
ゆえに守護霊は、自分の血統的因縁を辿り、出来ることならば地上人に、より高い霊的
内容があることを、望むに違いない。
「霊感の強いあなた」は、このためにも日々、霊力を正しく鍛錬しておく必要がある。
救いは、全員が一挙に救われる形はとれない。救いは一人からである。
まず、魁(さきがけ)の一人が必要であり、その人こそがカギである。
つまり、すべてを代表する選手となるその人物が、「霊界の門」のどこまでたどり着くか
やり残しがあれば、また次の人が引き継いで、少しでも高い、明るい門に向けて、道を
つけておけばいい。
例えて言えば、前人未踏の山を登ると思ってみればいい。
道なき道を、まず一人が足を踏み入れ、跡をつけておくのだ。その一人が途中で倒れれば、
行きついた所までは、道標が立つ。そして次の人は、そこから先を目指せばいい。
このようにして、氏族が救われていくには、代表選手一人を、いかに選ぶにかかっている。
先に例をあげたように、一族、一門の中で「かなめ」となる人物に、白羽の矢が立てられる。
この時こそ、一族(先祖)からの「召し出し」が下るときである。一族に一人。
これこそ、難関中の難関、東大の入試以上の、狭き門である。
しかし、不思議なことに、いや悲しいことに、この召命を地上人は、ほとんど喜ばない。
百人のうち、九十九人は確実に蹴る!
なぜか・・・。
自分に不都合だからである。かって、歴史の中で、「人身ごくう」という言葉があった。
すべての犠牲を一身に受けて、ただ一人で、運命に身をさらすのである。
時として、生命を取られることもある。
霊界からみれば、栄えある我が一門の救いの「かなめ」でも、それは霊界の事情である。
地上人の事情からいえば、「人身ごくう」にほかならない。
もっと悪くいえば、「貧乏くじ」を引いたことになる。
勝手気ままに生きてゆきたい人間にとって、たとえ「かなめ」だの「選手」だのいわれても、
嫌なものはイヤなのである。
そして、今この時代に、代表選手たる人物を得ることが出来ずに、深い悲しみと、
いらだちを持って、さらなる時を待つ続ける霊界なのである。
自分の将来の夢や、希望や、生活の、いっさいをかなぐり捨てて、ひたすらに、ただ氏族の
ため、身を挺する覚悟のある一人を探し得ずして、一族一門の救いは、まずありえない。
ここに、歴史が再び地上に降り立ち、いつにない深い思いで、より強い念で、のりうつろうと
している理由がある。
今こそ、歴史上かつてなかった、期待とあせりを胸に秘めて、霊界は思いに思いつめて
いることを、知らなければならない。
そして、宗教者も霊能者も、その時をいち早く知らせ、今この時に神あるいは、先祖の召命を
いかに受けるかを、地上人にさとらせねばならない。
結局は、宗教者、霊能者、はたまた道案内人たる諸々の立場の人も、この一つの事のために
「神」から使われている「使者」にすぎないのであろう。
さて、厳しいこの内容を、一体何人の方が、読み取ってくださるか・・・
K氏は、いつも言っている。
あの世は、厳しいんだよ。
この世で考えるほど甘いもんじゃないよ。
この世の人は、逃げられるだろうが、あの世じゃあ、とても、とても・・・と。
除夜の鐘をききながら、108ッあるという煩悩を思いながら、来年も出来れば
良い年であれかし、と祈る者です。
最初に申し上げよう。
まず、救われるための確かな形が、この世、つまり地上に現れはじめると、霊界は
こぞって地上人を、その「救いの場所」へと、導きはじめる。
しかし、地上人のほとんどは、救われることなど、思うことなく、日々忙殺されて、
生活することで、せいいっぱいである。
しかし、霊界はいち早く知る。
なぜか・・・。
人間が、肉体を脱いで霊になったとき、もはや肉体に関したいっさいの物は、必要なく
なる。着ること、食べること、住むこと、飾ること、病を治すこと等々・・・。
霊界へ行って、必要になることは、全く次元が違ってくる。つまり、高い霊界へいくこと。
すなわち、霊格を高めることに、徹頭徹尾費やされるのである。
高い霊界とは何か・・・。
地獄から天国への、無限大に近い霊界の距離を、ひた走りに走ることである。
暗闇から、光のさす明るいところへと、行くことである。
もちろん、「天法」を知ることでもある。
地上で何一つ出来なかった「さとり」を学ぶことである。
自分自身の、本当の姿に近づくための、その「真理」を得ることである。
いっさいの肉的観念を、かなぐり捨てて、地上において修行した、わずかばかりの
「さとり」を土台にして、自分に目覚め、開発し、完成することが、いよいよ始まる
のである。遅かれ、早かれ、すべて「人間」である以上は、やるのである。
そして、もはや肉体のなくなった霊界では、さとりの内容一つにしても、地上の人間
の体を借り、地上人がさとるにつれて、共に少しづつ、霊格の高揚をすすめていくのである。
その時、より強い味方を得ることは、可能である。
より直接的な救いの内容を、因縁によって、一番身近かなところで得ることができる。
守護霊は、霊格に応じてつくのではない。血統的因縁において、つくのである。
ゆえに守護霊は、自分の血統的因縁を辿り、出来ることならば地上人に、より高い霊的
内容があることを、望むに違いない。
「霊感の強いあなた」は、このためにも日々、霊力を正しく鍛錬しておく必要がある。
救いは、全員が一挙に救われる形はとれない。救いは一人からである。
まず、魁(さきがけ)の一人が必要であり、その人こそがカギである。
つまり、すべてを代表する選手となるその人物が、「霊界の門」のどこまでたどり着くか
やり残しがあれば、また次の人が引き継いで、少しでも高い、明るい門に向けて、道を
つけておけばいい。
例えて言えば、前人未踏の山を登ると思ってみればいい。
道なき道を、まず一人が足を踏み入れ、跡をつけておくのだ。その一人が途中で倒れれば、
行きついた所までは、道標が立つ。そして次の人は、そこから先を目指せばいい。
このようにして、氏族が救われていくには、代表選手一人を、いかに選ぶにかかっている。
先に例をあげたように、一族、一門の中で「かなめ」となる人物に、白羽の矢が立てられる。
この時こそ、一族(先祖)からの「召し出し」が下るときである。一族に一人。
これこそ、難関中の難関、東大の入試以上の、狭き門である。
しかし、不思議なことに、いや悲しいことに、この召命を地上人は、ほとんど喜ばない。
百人のうち、九十九人は確実に蹴る!
なぜか・・・。
自分に不都合だからである。かって、歴史の中で、「人身ごくう」という言葉があった。
すべての犠牲を一身に受けて、ただ一人で、運命に身をさらすのである。
時として、生命を取られることもある。
霊界からみれば、栄えある我が一門の救いの「かなめ」でも、それは霊界の事情である。
地上人の事情からいえば、「人身ごくう」にほかならない。
もっと悪くいえば、「貧乏くじ」を引いたことになる。
勝手気ままに生きてゆきたい人間にとって、たとえ「かなめ」だの「選手」だのいわれても、
嫌なものはイヤなのである。
そして、今この時代に、代表選手たる人物を得ることが出来ずに、深い悲しみと、
いらだちを持って、さらなる時を待つ続ける霊界なのである。
自分の将来の夢や、希望や、生活の、いっさいをかなぐり捨てて、ひたすらに、ただ氏族の
ため、身を挺する覚悟のある一人を探し得ずして、一族一門の救いは、まずありえない。
ここに、歴史が再び地上に降り立ち、いつにない深い思いで、より強い念で、のりうつろうと
している理由がある。
今こそ、歴史上かつてなかった、期待とあせりを胸に秘めて、霊界は思いに思いつめて
いることを、知らなければならない。
そして、宗教者も霊能者も、その時をいち早く知らせ、今この時に神あるいは、先祖の召命を
いかに受けるかを、地上人にさとらせねばならない。
結局は、宗教者、霊能者、はたまた道案内人たる諸々の立場の人も、この一つの事のために
「神」から使われている「使者」にすぎないのであろう。
さて、厳しいこの内容を、一体何人の方が、読み取ってくださるか・・・
K氏は、いつも言っている。
あの世は、厳しいんだよ。
この世で考えるほど甘いもんじゃないよ。
この世の人は、逃げられるだろうが、あの世じゃあ、とても、とても・・・と。
除夜の鐘をききながら、108ッあるという煩悩を思いながら、来年も出来れば
良い年であれかし、と祈る者です。