霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

あの世の倍返しとは「何」?

2013年11月30日 | 心霊現象
この世の倍返しは、TVドラマなどで充分学ばれたでしょうから、それでいいとして・・・。
これからのお話は、「あの世」における罪の償(つぐな)い方の事です。
結論から申し上げれば、それは「三つ」あると申し上げましょう。


ここで思い出していただきたい話がある。
かつてブログに書いた「尼子経久」の娘、『照姫(てるひめ)』が語るあの世からの言葉を、覚えておいでだろうか。
尼子経久って誰?、と思われる方は、是非検索されたし。
話を急ぎます。
ある夫婦の因縁解きの結果である。最近どうも二人の間がしっくりいかない。
どこに原因があるんでしょうねぇ~、ということから夫婦それぞれの守護霊降霊が試みられた。
そこで奥さんの守護霊が、尼子経久の娘『照姫』と分かったのだ。
奥さんはその時、内心「やったぁ!」と思ったそうである。
「わたしの守護霊は、お姫様かぁ」(偉いんだ~)と、反射的に解釈した。
そして次々に語られる「彼女」の霊界での立場は、実に難儀なものだった。
出雲・山陰の覇者となった「尼子一族」。さらに経久の時代は、その勢力は頂点に達した頃だった。
飛ぶ鳥を落とす勢いの一族の「姫」としての「くらしぶり」は、凡人にはとうてい分からない程のものだった。たとえれば、姫様付の「腰元(こしもと)」とでもいうのか、身の回りの世話をする人が、300人近くもいたという。
蝶よ花よと育てられた「その人物」が、霊界でも「そう」だったのか・・・?。
否、否だった。「それ」がかえって「アダ」となった。霊界において「引っかかった」のだ。
引っかかるとは、何か?・・・。
償いの対象になるということである。
それも「三倍返し」だった。
彼女は言う。
「人に仕えられた者は、それを今度は三倍にして仕えなければ、この世(霊界)では許されぬ。心が痛いのだ。だから、あなたに是非お願いする。わらわと共に、その罪の償いをやってほしい。
回りの人を見たら、心から仕えてほしい。その態度を終生尽くすことで、わらわの罪深さは、和らぐ。ゆめゆめ人から仕えてもらおうなど、思ってはならぬ。・・・」と。
親の権勢をほしいままにし、一族の盛んな「今」を身を持って味わい尽くし、人としても「頂点」にあるかのような錯覚の上での「やりたい放題」は、あの世で己が身に降りかかってきたのだ。
霊界とは、そういうところであると思召せ。

さて、彼女・照姫はその行動を、「三倍」に感じたほど辛かったのだろう。
確かに、300人に「かしずかれた」日々は、その倍返しですら気が遠くなるのに、三倍返しとは・・・。
あの世の償いの方法としては、三つあると申し上げた。
照姫のように倍、あるいは三倍あるいは「半沢直樹」のように100倍返しという方法。
罪が何倍にも加算されてくる、という形が一つある。最も大きな価値をもって代償する方法になる。
あと一つは同じ程度で償う方法である。
「モーセの十戒」の時代、人は「目には目を、歯には歯を」の法律で裁かれたのだ。
霊界でも同じである。同じ形・程度で償う道がある。
さて最後の一つは、同じ「罪」でも軽くして償う方法である。
それには「許し」がなければ、成立しない。
神の許しか、キリストの許しか、一国の許しか、一族の許しか・・・。
とにかく「許し」によって軽減された罪滅ぼしがあるのである。
これは天法の範囲であれば、地上の法で決定できるようなものではない。
その罪が「大きい」か、「深い」か、はたまた度を超えたものであるかによるだろう。
「情状酌量の余地」など、地上人が計算してはじき出せるものではないと知る。


まさかの事が、今起きている。
しかし、「あの世」からすれば「まさか」はない。当然おきて、しかるべきなのだ。
霊的に鈍った現代人が、思ってもみない時に、その事が目の前に起きて「驚愕」するだけのことなのだ。「起こるべき種」を植えたことを、忘れているだけの話である。
事が「偶然」に起こったとしか見れない人には、日々が驚愕の連続だろう。
明日は我が身と思って、気を付けるしか「すべ」を知らない。
そのダンから日常をみれば、全てが「恐怖」以外のなにものでもない。
「あー、今日も無事で家族そろって終わることができる~」と。しかし、明日もそうだという保証はどこにもない。
必然がもしあるとしたら・・・、私達は早くそこに目を向けるべきである。
「あの世」からの倍返しが、どんな形で地上に降りてくるのか・・・?。



最近まれに見る天体ショーだと、こぞって楽しみにしていた「彗星たち」は、夜明けの空にその尾を引こうと、あっと驚く消え方をしょうといいではないか。
今の私達にとっては、見え隠れするが間違いなく現実にいずれ訪れる「霊界からの倍返し」や、あの世へいって味わう「三倍返し」をこそ、気にしてしかるべきである。
とにかくも、人が自分に腰を低くし、仕える風をみせたら~、おっとどっこい、そうは問屋が卸しゃあしませんぞ!とばかりに、「わたし」はもっと腰を低くして相対していこうではありませんか。
『実れば実るほど、頭を垂れる稲穂かな』とか、『能ある鷹は爪を隠す』なーんていいますけど、今の世には、そぐわなくなった様な気がしていました。が、あながちそうでもないみたいですよ~。


今日のこの内容もまた、「七つの封印の巻物」の一つでもあり、是非にお知らせいたしたく書いた次第でございます。

♪ あなたの過去など 知りたくないの~、という歌が流行りましたね。
私から言わせれば、「あなたの過去こそ、知りたいの~」という事になります。
何と夢も希望もない!とおっしゃいますな。
これが現実、いや「真理」なのですよ・・・。





「天空米」というブランド

2013年11月25日 | 心霊現象
「ゆるキャラ」などというものが、全国に広がって「それ」を追っかける者まで現れる昨今。
あなたは、「天空米」(てんくうまい)をご存じだろうか?・・・。
新聞によれば、こう書いてある。

『米どころ、新潟県南魚沼市。
 収穫された稲が、スキーリフトに乗って空を飛ぶユニークな天日干し。
 リフトに掛けられた稲が、スキーリフトに乗って空を飛ぶ。
 秒速1~2メートルの速さで、スキー場を回りながら天日干しされる。
 評価の高い大沢地区産のものだけを選び、「天空米」のブランド名で販売されていた。
 5キロ1万円と高値だが、贈答用としても人気があり、それこそ飛ぶように売れている。
 例年、売り切れてしまうという 』 (9月30日 朝日新聞 )


新潟でも平地・平場の田んぼでは、昔「はざぎ」という木があり、その木に稲を引っ掛けて「天日干し」をしたものである。
はしごに上った夫に稲を投げる妻を下に見ながら、二人の呼吸はぴったり合ったものだ。
蒲原平野に日が落ちるまで、夫婦の息の合った作業が続いたものだった。
が、今はその「はざぎ」さえ見られなくなった。
そして稲はスキーリフトに乗って、空を飛ぶという。
時代の移り変わりに、感心したり度肝を抜かれたり・・・。

一度、その「空を飛んだ」という稀なる「米」を召しあがってくださいませ。
私は、地上の魚沼米で我慢します。
なぜ?、私も母に似て「上空が怖い人間」のようです。
母は、飛行機には絶対に乗らなかった人です。
父が退職後に、夫婦で外国へ旅行しょうと母を誘ったのに、ガンとして「わたしは行かない!」と首を縦には折らなかった。
父は「最初で最後だから」と説得したがダメ。とうとう私に「おはち」が回ってきて、説得してくれという。
「なぜ飛行機が空を飛ぶのか」という簡単な「本」を読んで、その後母に説得を試みたのを思い出す。
浮力、分かる?・・空気の抵抗、分かる?。重いほど飛べるのよ~、スピードさえあればね・・・。
結果は、私の惨敗だった。仕方なく父は、一人で外国へ旅立つハメになった。
子供には一切遺産は残さない、という父の頑固さは、最後に母と海外旅行をするという計画で使い切ることを(わずかな財産だが)楽しみにしていたらしい。
船とて同じことだった。あんなに重い鉄のかたまりが、水に浮く訳がないとの思い込みは、とうとう
船にも乗らずにあの世へ旅立った。
その時も私は、いかに船が海に浮かぶかを、中学校の理科くらいの程度の知識を仕入れて、母を説得したが、母は地上以外は信用しなかった。
移動手段は大地の上を走ること限定で、旅行に出た。
新幹線が今ほど走っていない田舎でも、時間さえかければ、楽しい行楽の場所へと移動できた。


そんなことを思い出しながら、「空を飛ぶ米」かぁ~、と「思い」ひきこもごもであります。
他にも、「天空の~」と名を打って付加価値をつけ、売りに出ているものもあるから、お調べになれば面白いかと。
私は過去に「天空の宿」へ行ってみようかと思い、いろいろ調べたらね、値段が破格であきらめました。
高い空を「売りもの」にしているのだから、高くてあたりまえ。しかし庶民の値段をつけてほしいところだが・・・。さらに九州の「七つ星列車」は、夢のまた夢。
それが来年の何月までですって?、予約がいっぱいとか。
日本はいったいどうなっているんでしょうねぇ。
お金は、あるところにはあるんですね。

いずれ「天空の人」になって、私も飛天のように飛べる技を身に付け、たまには「この世」へ現れましょうかしら・・・。(死んでからの話ですが・・・)



今日は全くの番狂わせ。本当はね『鶴の舞』を書くつもりでしたのに、ちょっと内容がどぎつくて、躊躇しましてね、止めにしました。
書くほうも覚悟がいれば、読まれる方も覚悟がいるという内容なので、ちょっと神様に聞いてからにします。
たかが『鶴の舞』ごときに・・・、とおっしゃいますか?。
ある拷問の方法の別名が『鶴の舞』。と、こう申し上げれば少しはご理解いただけるか・・・、と。
なぜ「それ」を書くか?。
「七つの封印された巻物」の延長線にあるものですから、出来たらご紹介しょうかと・・・。
いずれ、また。



さあ、あとわずかで今年も終わります。
クリスマスだ年の瀬だと、気ぜわしくしているうちに心を亡くして、あの世からの呼び出しを受けるハメになる・・・。(忙しいの字は、心を亡くすと書く)
伊勢に行かれた方、そして出雲へ詣でた方。今年は日本中いたるところで、神様も忙しかったでしょう。
新しい館や衣は、命の再生と思し召して、『日本の再生』を神に誓う民族であれかしと、お祈りいたします。







日本人「ゼロ」になる日

2013年11月24日 | 心霊現象
このままでいくと、日本人がゼロになるという日を、国がはじき出した。
それが西暦3000年。
これほど長寿王国でなぜ?、と思いたくなる。が、その中身は実に深刻であるようだ。
行く末のことなど国に任せておけばいいと、さほど信用してもいない「お国」(政治)に放り投げていた国民全体の罪と罰でもある。
なぜそんなことになるの?・・・、と疑うかたは報道されたその事実を追跡されたらいいと・・・。
「そんなことなら、移民を受け入れ、もっと国民を増やせばいい」と思った方々も確かにいる。(かつての、とある総理の言葉でもあった)
雑多な民族が、この島国に集まって、はたしてうまくいくかは、首をかしげるしかないが・・・。
日本の文化・文明、その代名詞のような「おもてなし」。
それさえも2020年の「東京オリンピック」以降は、徐々に消えていくかもしれない。
もうすぐ先に迫っている3000年は、民族の消滅を物語る不気味な標識でもある。
他国に散った日本人が、多い少ないの問題ではない。
国に住まなければ、意味はない。
「あと○○年足らず待てば、威嚇することなく、軍備もいらず、手に入れることがたやすくなりますよ~」と、どこかの国に言ってやりたくもなる。

日々の積み上げの結果であり、これつまり歴史の最終結果だと思えば、いままで日本国民が何をしてきたかが、分かる。
誰も怠けたわけでもない。誰も亡国を願ったわけでもない。
なのに「亡くなる」のだとしたら、・・・、他国の輩(やから)が事ある度に言う「神の罰」なのだろうか?・・・。
確かに「その兆し」はみえる。
人心の堕落である。いや、無知といってもいい。
教育の衰退といってもいい。日本人のバックボーンの無さといってもいい。
「だって、それをはぎ取ったのは他国の彼らでしょう?・・・」と言ったところで、もう遅い。
前にブログで書いた「はすの葉のクイズ」。
「今はまだ大丈夫」、そう言っているうちに「まさか!」の日がくる。

ここで少し脱線しますとね。
先のTV番組で、今年のNHK紅白歌合戦に「まさか」の出場が決まった「ある女性歌手」が、お笑い番組のようなところで、こう言っていました。
『人生には三つの坂があるの。一つは上り坂、いま一つは下り坂。そして「まさか」ってね』
拍手と大爆笑でした。

こんなところで不謹慎な!、と言われますな。
「まさか!」。
少子化問題を担う大臣。さらに女性や妊婦の教育を担う大臣。さらにさらに「悪質な交通事故」を取り締まる大臣。将来の日本を担うであろう青少年の教育を担う大臣。国民の生活の困窮を救う大臣。
高齢者の行く末を担う大臣。日本国を他国から防衛する大臣などなど。
書き出せば全員になる。
その「お歴々」が、何を今、どうしょうとされているか、「あなた」はご存じか?。
恥ずかしいながら、私とて興味がある部署の、それもおおざっぱなところしか知らない。
足元に火がつけば?、役所へ出向くくらいしかやっていない私でもある。
国民健康保険、都民税、生活保護、民生委員、介護保険、年金等々、やはり自分が今一番必要であることばかりである。
滞納の解決法で一番いいことは、「分納」くらいだ。それも年「36回払い」でお願いした私に「ローンの返済とはわけが違う」と、やさしく諌めた役所の職員は、それでも私を褒めてくれた。
「そうして、ご自分から出向いてくださったことには、敬服します」と。
リストラされ、無職になった後でくる「税金」は、確かに苦しい。(低所得者にとっては)
「下で」に出て、ことに当たるのが一番いい方法だと、知恵もついた。私の隣の席では零細企業の社長と思しき人物が、それこそ口角泡をとばして「バトル」を繰り広げていた。
みーんな真面目に頑張って、今日まで日本の片隅で頑張って生きてきたのだ。

何かが狂っていたのか?・・・、何かが悪かったのか?・・・。

そうだ。確かに「おかしい」と思われることを、どこかでやってきたのだ。
今、報道番組でも騒がれはじめた「出生前検査」なども、その一つだとおもわれる。
この度の3500人からなる「検査」の結果が、それを物語る。
結果「陽性」と出た人の90%が、人工中絶をしたという。
命の選別が始まったと、社会欄では警鐘を鳴らす。
先に私がブログで書いた時のように、日本も欧米と同じ現象が出始めている。
「人口」というくくりで計れば、「少子化」に頭を悩ませる人をあざ笑うようなものである。
「産む世代」の人にとっては、増々広がる現象とみる。
表に現れない「中絶」や、親の虐待で命を落とす子供たち。
口を貝のようにして、決してものを言わない世代の人は、もう感づいている。
このような日本が、将来どうなっていくか・・・を。(ろくなものにはならない、と)


先日、いつも通うクリニックで順番を待ちながら週刊誌を読む。
11月7日号だから少し古い。が、取り扱っている内容はまさしく「今」であり、「旬」の話題だった。
「生まれてこない権利」、「まちがった命」の二語が、強烈に目と胸に突き刺さる。
フランスの出来事である。
出生前検査の結果、「生まれた」男児の行く末を追った記事だった。
「彼」の人生は下り坂の一途を辿ったという。
「それ」だけが原因だったかは、分からない。が、「生まれなかったほうがよかった」と、彼は結論をだす。社会はそれをみて(それを知り、「そら、みたことか!」と誰もが思った。
彼は「生まれてこない権利」を法廷に持ち出した。
12年間闘ったすえ、勝訴した。国あるいは親からの「賠償」を勝ち取った。
こんなことが目にふれれば、誰だって中絶をするだろう。
「だからね、言わんこっちゃない。産んだらいけないんだよ」と、中絶が正当化されかねないだろうに・・・。
霊界に行けば、間違いなく「殺人」である。(その情状酌量の余地は?・・・、私は知らない)

いずれにしても世界は今、地球規模でこの事が蔓延し、その反面問題にされていくだろう。
こんな時こそ、「宗教界」がそれに「待った」をかける時でもあるでしょうに・・・。
日本においても世界においても、宗教はもはや名ばかりで「形骸化」していると言いたくもなる。


「間違った命」は一つもない。
いかに「その状態」が望まない形であっても、必ず何かの意味をもって「天から与えられたもの」であることを、私達は忘れている。
人が望もうと、望むまいと「命」は授かる。のであるならば、ありがたく受けよ・・・、と言ってはいけないのでしょうか?・・・。
ここでまた「ルーツ」というTV映画を思いだす。
いかに原始的であろうと、文明から取り残されようと、「人」が人として、人らしく生きれば天空は観ている。
昇る太陽、満天の星と月を見せて、子供に「その命の重さ」を子供の耳に自らの口をつけて吹き込む
父親の姿に、崇高なものを感じるのはなぜだろう。


いにしえの日本には、「それ」があったのでは?・・・。
古いのがすべていいとは言わない。
が、「これだけは」という日本の「骨(バックボーン)」、魂の宿る国と国土と人に、今後を賭けたいと思う。
「どうせわたしは、関係ないけど・・・」との言葉は、高齢者には禁句として頂たい。
あの世からでも見ていますぞ!と、むしろ若い者を発奮させていただきたいもの。
そうです、「さとり世代」は何も若者たちではなく、あの世に近づいた高齢者こそ、この世を見限るという間違った「さとり世代」に落ちかかっているのです。
そのダンから言えば、2020年にくる二回目の「東京オリンピック」は、高齢者こそ前回を詳しく知る者として、最前線を担ってほしいものです。
私も考えを改めました。
2020年のオリンピックを見ずして、「あの世への土産話」はない、と。
あと7年。
・・・、生きられぬ年月でもあるまい、きっと~。
(西暦3000年も、見てみたいとは思うけど・・・)



香らず、そして煙も出ない「線香」今様

2013年11月18日 | 心霊現象
これから書き出すものが、現代人に好まれているそうな。
最初に書いた「香らぬ線香」、「煙の出ない線香」「涙の出ないタマネギ」「魚を焼いても煙の出ないロースター」。
さらにさらに、健康で働くだけの夫、言うがままの妻?。
適当な歳で死んでくれる高齢者・・・?。
さあ、みなさまが日常生活で「こんなものがあったらいいのに~」と思うことを、思いつくだけでも書き出してみれば、分かってくる。何が?。
はい、どんどん「自分勝手」がエスカレートしていく時代背景がである。

先般の「イグ・ノーベル賞」受賞は、マウスの延命で証明された『歌曲・椿姫』の音楽による効果だったという。
さらに「タマネギ」も、その一つらしい。みんな日本人によるものだ。(前者は新見正則博士による)
時代とともに、「勝手」も「便利」も、ないまぜになって進化していくようだ。
気が付けば・・・。(何がどのように残り、この世がどんな風に変わっていくのかは、多分私には想像すら出来ないだろう)

さてさて「線香」について、とある新聞では一面の半分を使って「その移りゆく線香今様」についてふれていた。
少しだけおすそ分けを・・・。

『煙や香りを抑えた線香が人気だ。そもそも香りづけをするものなのに、売れ行きは急上昇。家が狭 く、風通しが悪いといった住宅事情も背景にあるようだ。
 大阪の主婦。居間にある仏壇に毎日10分ほど線香を供えるのが日課だ。「家が汚れる気がするの
 で、煙が少なくて香りのきつくない線香を使っている」。
 国内産線香の地とされる堺市で、創業280年の奥野晴明堂は6年前、香りと煙をほぼなくした線 香「ZERO(ゼロ)」を発売した。
 売上はこの二年間で25%伸び、約50種類の商品の一割を占める一番の売れ筋になった。
 この夏には関東地方の寺から、新たな注文が入った。
「香りのない線香なんて作りたくはないが、仕方ない」。
 仏壇の購入が減り、墓参の機会が少なくなったことが影響しているとみられる。
 こうした中で、煙や香りの少ない線香は売上を伸ばしている。

 ホテルや料理店での法要も増え、香りや煙を押さえた線香は重宝されている。
 スミレやラベンダーといった花のほか、コーヒーや日本酒など、故人の好みにあわせた香りの商品
 もある 』
                  (10月9日  朝日新聞)


ここで一つ、みなさまにお聞きします。
そもそも「線香」って、何のためにあるんでしょうねぇ・・・?。
私もよくは分かりません。仏教伝来の歴史から、伝えられてきたものがきっとあると思いますよ。
霊界の香りといってもいいでしょう。夢や現(うつつ)の中で、「あの」線香の臭いを嗅いだ経験はおありでしょう。
私なぞ、尼様に囲まれている日々ですから、炊いてもいない線香の臭いがすることなど、日常茶飯事です。
彼ら、つまり仏門に帰依し、身も心も「線香」の香りに浸ってすごした人達にとっては、「臭い」は魂の拠り所(よりどころ)でもあるのです。
その臭いが、消されたり、コーヒーだったり、酒だったり、花だったりして・・・。
いいんですかねぇ~・・・。
今の仏教界も、ここまできたかぁ!、と思った矢先。
ありました。浄土真宗のお坊さんが、こんなことを言っています。

『仏様にきれいな花やいい香りを差し上げるのが供養。線香が登場する前は香りを損なう煙が出ない
 ようにお香をたいた。煙は不要だが、香りは別。
 いいお香を上手にたくと甘いにおいがする。線香のにおいに慣れないのは良質の線香を使っていな いからでは。線香の意味を伝えていない坊さんにも責任がある』(浄土真宗本願寺派の元総長で
西福寺(兵庫県西宮市)住職の豊原大成(だいせい)さん(83)の話)


この世も最近は、「香り」(臭い)で勝負する商品が増えた。
シャンプー、洗剤、化粧品などあたりまえ、冷暖房機や消臭剤や入浴剤、アロマなどなど、周りは「香り」であふれている。
そこへ当然のように「香水」が、我が物顔で幅をきかす。
女性が一人、電車の席に座ると・・・、さらにもう一人、そしてまた一人。
化粧品から、洋服から、香水から「香り」が漂う。それがみんな混じり合う。
香りはもはや公害に代わる。なぜ?
私は自慢じゃないが、香りには敏感でありさらに「弱い」。
むせて、せき込み、呼吸困難になる。大袈裟?・・・。
はいはい、何とでもおっしゃいませ。事実だから治しようがない。
香水の強い人が乗ってくると、さらにその人が私の隣に座ると、そそくさと私は席を立つ。
エレベーターでも同じ行動をする。が、あと一階だけとなれば、死ぬ気で呼吸を止めて我慢する。
今は、犯罪捜査にも「残り香(のこりが)」が重要視されるとか・・・。

「えっ、もうそんな時期なの?・・・」と、決まって私は周りを見回す。
「きんもくせい」の咲くころである。
正体?は分からないが、確実にその「かぐわしい香り」があたりに漂っている。
神は何と「粋(いき)」なことをなさるものよ~、とこんな時にいつも思う、とは誰が言った言葉だったでしょうか・・・?。
こんな「香り」が漂う「楽しみ」こそ、あの世の思わせぶりだと思っていた。
霊には「光」も「色」も「香り」もある。
この表現は「良い」意味を現す。が、悪い、低い、暗い、悪臭は霊でも低級であることを現す。
その霊界に漂う「香り」は、どのようなものであるか・・・。
この世より100倍の機能で働くといわれる、あの世の霊的機能、第6感の機能は「嗅覚」においてもすさまじいという。
動物でも嗅覚が優れている犬。あの世に行った人間の嗅覚に比べれば、犬のそれなど足元にも及ばないと聞く。
その霊感で、私達はどんな香り(臭い)を嗅ぐのだろうか。その霊体から発散される「かぐわしい香り」か、はたまた吐き気をもようす「悪臭」を自他ともに発散し、嗅ぎ合うのだろうか・・・?。

この世における「香り」は、あくまでも肉体の世界でのもの。
この世にあっても、目に見えないが確実にあり、確かに発散されている「霊の香り」を私達は嗅ぎ分けることが出来るだろうか。
そして、今の自分の霊の香りは、どんな臭いなのだろうか。
「死臭」「悪臭」を放つ者ではなく、その香りを人が探すほどの者になって、「100倍」の世界へと、希望をもって行こうではありませんか。

今はその「練習期間」と思召せ。
どんな「香り」が、あの世で「いい」といわれる香りなのでしょうねぇ~。
先達たちが求めた「高貴な香り」、と言われた「蘭奢待」。
一度「その香り」を魂に叩き込み、一つの指標にしても悪くはないかと・・・。
やはり、「正倉院」まで行ってくるといたしましょうか。

人の霊を玉として・・・。
どんな色で、どんな香りで、どんな光り方をする「玉の緒」を「あなた」は目指していくのでしょう・・・。
さて私?、香りでむせる事だけは、治して行きませんとねぇ~。





死に際に合った目

2013年11月17日 | 心霊現象
交通事故多発の現代社会において、たまたま「事故現場」に出くわすなどということはもう稀ではなくなった。
へたすれば、自分が被害者になるかも知れなかった場面が、おうおうにしてある昨今。

「彼」は、事故の現場に運悪く出くわしたそうな。
トラックの下敷きになり、女性が引っ張り出されている真っ最中だった。まだ息がある。
「可哀そうに・・・」、彼は思った。
これから何をしに、どこへ行くつもりだったのだろうか・・・。
また、一緒に歩いていた人もいたかもしれない・・・。
しかし彼女は今、トラックの下でひん死の状態だ・・・、彼はやさしさから「彼女の今」を想像した。同情や憐みの念が湧いた。
と、その瞬間彼女は彼を見た。二人の目は、しっかりと合わさり、そして彼女は目を閉じると動かなくなった。死んだのだ。

彼は、しばらくやるせない想いで歩き、用件を終わらせて夕刻にまた安アパートに帰ってきた。
手を洗い、うがいをして・・・、何か人の気配がしたので部屋を見回した。誰もいない。
気のせいか・・・。ひょいと玄関に目をやると・・・。
女性が立っているのが見えた。玄関のカギは、確かに閉めた。
薄暗いところでは、はっきりとは見えず灯りをつけた。
全身が固まり、寒気に襲われた。「あの彼女」だった。
また再び目が合った。(心では、目をそらせ!と叫んでいた)叫び声さえ出ない。
しばらくして、すーっと彼女は消えた。出て行ったのではない。消えたのだ。
腰を抜かしたまま、彼はしばらく呆然としていた。

「あなたは、これを信じますか?・・・」
彼と同じことを、今私はみなさまに問う。
今の私なら即答する。「信じます」と。
でもその時の私は、「冗談やめてください!」と言った。
怪談話にすぎないと、おどかしの一つだと当然思ったからだ。


昔私は、事故があると必ず友人が迎えに来たものだ。
友人の兄が、田舎の警察官だったこともあったが、死体に興味を示すという「危険な悪趣味」も働いたのかもしれない。
水ぶくれの「水死体」、ばらばらの「轢死体」などなど。せいぜいそのくらいで、殺人はほとんど無かった田舎であれば、今でいう「黄色いテープ」など張り巡らされてなどいない。
小学生・中学生が「人だかり」(大人)を分けて、前に出て「観る」ことは、いとも簡単だった。
しかし、見るものではない。決して見てはいけない。それが職業でさえなければ・・・。
「ほら!」と、友人の兄が手にぶらさげた「もの」を目の前に出した。
「なに、これ?」と聞いた。それほど「それ」は「人の体(てい)」を成してはいなかった。
轢死体の頭部だった。目もない、鼻もない口も分からない。ただ、わずかな髪の毛がまとわりついていた。女の自殺体だった。
目の前に出された「もの」だから、私はしっかりと見てしまった。
血はそれほど飛んでいない。首、手、足、胴がばらばらになり、軌道沿線の家まで飛んだそうだ。
「ドスン!」との音で家の者が出てみると・・・、玄関前に手があった。
一度屋根へ落ち、はずみで庭先から玄関前までころがったか・・・。
事故後のリアルな話は、いやでも耳に入った。
その後一週間、私は不眠症に陥った。眠れない。目を閉じれば、「頭部」が浮かんでは消えた。
手も足も胴も、想像をかきたて、私を狙って上の方から降ってきた。
来る日も来る日も、同じ夢をみてはうなされた。
丁度夏。昔は「蚊帳(かや)」をつった。その蚊帳ごしに「何か」が見えた。
みんなそれは、ばらばらの「人の部位」に見えた。

「一生かけて約束します!。人の死体は決してみませんから!」と子供ながらにも胆に銘じた。


親は事情を知って、あきれてものも言わない。

今だから言える。
霊は、その場にまだいる。そして人の心をみている。そして知るのだ。
どの人が一番自分を、関心をもってみているか。そして憐み、同情の心をよせているか・・・。
そこをよりどころに、今わの際を預けようと思うのは、しごく当然である。
「ついて来た霊」に引導を渡すことが出来ない人は、見ないほうがいい。
霊界の何たるか、また霊の何たるかを知らない人は、「君子危うきに近寄らず」に徹した方がいい。
もし、もし「あなた」の目の前で「こと」が起こったら?・・・。
人命救助が出来る「あなた」ならば、助けてやってください!。
しかし、怖い物みたさであったら、お止めになることをお勧めする。


はてさて、苦い経験をばお話いたしました。
それでも何の因果か、出くわしてしまったら・・・。
手を合わせ、「行くべきところへ、お行きください」と言って、お見送りするのが最低限の所作であり、心くばりでしょう。
ゆめゆめ「観っ放し」ではなりませぬぞえ。
子供がその場にいたら、ご自分のお子でしたら「目隠し」をしてやってくださいませ。
子供がみるものでは、・・・どうみても見せていいものではありませんから。

現代は、見せたくなくても見てしまう「残忍」な事が、あちこちで起こります。
私から言わせれば、早く「あの世」のことを大人も子供も知るべきでしょうねぇ。
教育現場では、「道徳」の時間がまた復活する気配です。
いい機会です、いっしょに「あの世」を教える時間も加えてみたら、いかがでしょうかねぇ~。