霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

大晦日に来る「神」

2012年12月31日 | 心霊現象
今から随分前の話になる。
一頃、有名な話として、誰もが知るようになった「一杯のかけそば」の話だ。
貧しい親子が三人、大晦日の夜「蕎麦屋」へ入る。
注文は「一杯のかけそば」だけ。
親子でそれをすすって帰ろうとする。それを見た「蕎麦屋」のおやじは、三杯のかけそばを作って
御馳走した、という話があるかと思えば、お金をめぐんだりと、色々尾ひれがついて、日本中の話題の「物語」となった。


『白樺派の詩人だった千家元麿(せんけもとまろ)の「三人の親子」という一編がある。
大晦日の晩、母子三人が往来からガラス戸の中の餅をじっと眺めている。
10分ばかり立ち尽くして買わずにそっと歩み去る。
というそんな「詩」だ。
人は誰も見ていなかったが、<神だけはきっとそれをご覧になったらう>と詩は続く。
店のウインドーにせよ家々の窓にせよ、ガラスの向こうの華やぎや幸せが、胸にしみ入る時節でもある。』

と、ある紙面でこう結んでいた。


今よりはまだ、「童話」を聞いたり読んだりしていた頃。
決まって年の瀬は、悲しいが心温まる話で満ちていた。
「マッチ売りの少女」もそうだった。
その時降る雪は、決まってあまりにも「白く」、そしてあまりにも「冷たい」。
そして日本の童話は、必ずそんな大晦日の夜(晩)に、「神」が各家を訪ねられた。
その「姿」はどう見ても「神」ではない。
年をとり、ボロをまとい、今にも倒れんばかりの姿で家の前に立つ。
人里離れた一軒での出来事を、子供たちに一年の総まとめのように、祖母たちはきまって話す。
吹雪の中、倒れ込む「老人」を、どのように扱うか・・・、これが大晦日の晩に「その人」が出す
「結論」だった。もちろん「神の前」に出す答えである。
子供心にも、自分ならどうしたか・・・を考える。
老人が「神」の化身だと分かるはずもない。そんな中で計られてゆく、自分の心の在り様。
「このおいぼれが!」と言って、水をかける者。「大晦日に縁起でもない」と押しやる者。
にぎりめしを持たせて追いやる者、といろいろな場面を頭に浮かぶだけ例をだしては、年よりは
孫に話をふくらます。

この話の元は、神様二人の掛けだった、という人もいるが・・・?。
一人の神様は「全員が追い出す」方に賭けた。もう一人の神様は「いや、一人くらいは・・・」と、
人間の良心に賭けた。
結果、一番貧しい老人の家だけが、玄関を開け、一人の神様を入れてくれた。
食べ物は無いからと、湯をわかして飲ませてくれた。
その「薪(たきぎ)」さえも無くなりかける・・・という話の展開である。

その後、「鉢の木」という話を聞いて、日本人の感性の豊かさを知った思いがしたものだ。
落ち武者が吹雪の里をさまよう。
一軒の家にたどり着く。招かれて「囲炉裏」(いろり)へ座る。
貧しい老人が、薪が無くなると、自分が丹精こめた「盆栽」の枝を切って、囲炉裏にくべてくれた
話を知る。
落ち武者は感涙にむせび・・・、という話らしい。

生木がはたして燃えるかぁ?、なんて質問はナシだ。
落ち武者、吹雪、貧しさ、丹精込めたものを捧げる、・・・、「あなた」ならどうする?

これらの「話」は、一貫して我々に問うている。
そして「大晦日」だからこそ問うのであろう。


神が各家を回られる前に、「聖・クロース」が25日にやって来る。
えっ、知らない?。サンタ・クロースは「セイント(聖)クロース」なのです。
「クリスマス」で、聖人から何かをもらった人は、大晦日に来られる「神」の前に「何」をお返しするかを考えて、用意を怠りませんように。
神が欲しいのは、決して「物」ではありません。
どんな「心」を捧げるか・・・。
今からでも遅くはない、用意してお待ちください!


大晦日。
老人は思う。今年もよくまあ、生きてこれたものだと・・・。
そして思う。
「神」は、まだわたしをお召しにはならないのか・・・・とも。
新しい年、再び生きて、さて何をせよと・・・。

人生、生きてみてのもの。
結果は「あなた」が出すものではないのです。
精一杯生きれば、それが「あなた」であり、証明です。
他人は、・・・言いたければ何とでも言うがいい。
人にも上るが、太陽は間違いなく「あなた」にも上ってくる。
大晦日と正月。
いつもと同じ「時の移り」でしかない、と思われるか?
さにあらず! 時を区切る「遮断機」が落ちる前と後では、天と地の差があるのです。
「モンブラン」の頂上で見るご来光と、下宿のベランダから見る朝日の「差」ほどのものが
意識の差を生んで、次へと私達を誘うのですから・・・。
大晦日そして「しじま」、そして新年へと、「今」が確実に「過去」となる実感をもって今年を
締めくくりましょう。

(来年も、またのお付き合いを願いながら。合掌)

「黄色いカラス」と「白いカラス」

2012年12月30日 | 心霊現象
「カラス」は黒いと決まっている。
しかし、本当にそうだろうか?

最初に書いた「黄色いカラス」。
聞き覚えのある方は、もう往年の方だけだろう。
なぜかといえば、これはある映画の題名だったからだ。
「黄色いカラス」がいるわけがない。
そんな「いるはずもない」カラスを、絵に書いた子供の心理を描いた映画であった。
私が小学生の時に、「映画(ライブラリー)」の授業の中で見せられたものである。
だから、昔の話だ。
この絵を描いた子供の「生活環境」が、心理状態に一つの危機感を与え、それが表面に出たと、
精神医学の先生が警鐘をならした。
その絵から何が見えてきたか・・・。
病んだ世界、子供も大人も、国でさえ「病んで」いた。
黄色は文字通り「危険信号」だったのだろう。


次の「白いカラス」とは。
生態学的にみれば、ありえるそうだ。
突然変異とか、遺伝子の異常などで生まれ、この地球のどこかで現に飛んでいるという。
が、今私がここで言う「白いカラス」とは、信仰の程度を計る「言葉」として使われた「ある教団」での話になる。
上に立つ者の言葉を、「絶対に信じる」というものの例えだった。
 『今カラスが飛んでいった。白いカラスだ!』と。
そう言われて、私が見たもの(カラス)は、間違いなく「黒」だった。
「しかし、あなたは違うと言ってはいけない」・・・、これが信じるという行為だと教えられる。
最後の最後まで、私には身に付かなかった「信仰の極意」だった。
要は、神の言葉を自分の感覚で勝手に解釈してはなりません、という事らしいが・・・。
「色盲(しきもう)」でもない限り、自分が見た色は「その色」以外には見えない。
(「しきもう」は、差別用語らしく今は使わない)

私の判断基準は、確かに神からみればおおいに違う部分もあるだろう。
が、犯罪や殺人に関しては、「違う」と叫ぶ心のアンテナがある。
そのすれすれまで「カラスが白い」と見えてくる目を養う?には・・・。
宗教がもつ「狂気」をみる思いがした。
盲信からは、いったい何が見えてくるのだろうか・・・。
時間とともに感覚、感性の狂った修正が計られたら、もう「マインドコントロール」の域を脱して、
「人間改造」の犯罪以外のなにものでもなくなる。
今でこそ「オーム」の信者がやろうとした「ポア」の教えと行為は、この世の規範には「悪」であり
「犯罪」となる。
が、彼ら教団内部の規範からすれば、信仰の極みだったはずである。
「主」がいう言葉のごとくに行動する。それは、心の底から正しいと思える「信仰」の裏付けをもって成せる行為のはずである。
結果、彼らは何を見たか?・・・。

私は結果、「公安」に引っ張られた。
当然である。日本の法が「否」をつきつける行為をあえてやるには、それなりの覚悟をもってやるしかない。が、「殺人」と「自殺」の強要だけは突っぱねて、脱会するつもりでいた。
私が何をしたか・・・。「選挙違反」である。これでも「りっぱな罪」である。
「ポスター貼り」と、相手方のそれを剥がす役目である。
夜中、早朝と、時間の制約のない「信仰生活」が、その「行為」を「良し」と思わせるまでに「麻痺」をしていく。
パトカーが私の脇に止まるまで気が付かない。(熱心というか、バカというか・・・)
パトカーに乗せられて、○○警察署まで行く。その先案内されるのは、「公安」であった。
まず、始末書を書き、両手の指全部の指紋をとられる。
その時の感覚が実に不気味だ。本人は悪いとは思っていない。むしろ「良い事」をしていると思って
いる。(神のため、国のためにやっている・・・と)
この感覚は、多分「オーム」の信者も同じ感覚だったろうと、今にして思う。
が、彼らは「人の命」にまで手をだした。最後には「天皇のポア」までが計画されていたと聞く。

私の場合は「公安」の受けが、まだよかった。
彼らもどちらかといえば、日本を思い、左傾化をよくは思っていなかった。
「お願いしますよ。だからね、あなたがたの政治活動も分かるけど、我々も法に触れることをね、見逃すわけにはいかないんですよ。ましてや、あなた、目の前で「電柱」にしがみついてポスタ貼るなんて・・・。我々のつらい想いも察してくださいよ。現行犯ですよ、現行犯あなたは!
でも、ここだけの話、手錠、かけなかったでしょ。始末書と指紋は形式と思ってくださいね」と。
未成年じゃない私は、一応の形をふんで、無罪放免?となった。が、未成年者は親元へ連絡され、
「もらい下げ」をしてもらわなければならないのだ。
信仰と親の狭間で揺れた「若者」も多くいたことは、察するにあまりある。
この時はたいがい、「やれ」といわれたからと、言い訳をする。
しかし、信仰に言い訳はきかない。
そう言われても、行為が決定となって「自分のした事」になる。
多分、「白いカラス」の暗示は、あの世へ行っても「言い訳」として自分を守ろうとするのだろう。
そんなところに「信仰」はない、と私は思っている。
「刑務所」にはいる、ということも「勲章」だと思っているのは「ヤクザ」だけではない。
宗教家、いや宗教に染まった者たちもそうである。
過去の「信仰者」は、世の為政者に背き、法を法とせず、ただ「神」の声にのみ耳を傾けた、と
教えられる。結果、十字架にもつき、獄死もする。

時間が経って歴史が流れた時、真実が語られるだろうが、真の信仰者は「白いカラス」に操(あやつ)られはしない。
自分と神の間に人は介在しない。
「神」でなければ「サタン」だ。そのどちらかの「声」に、自分の信仰を賭けた。
ならば、自分で撒いた種は、自分で刈ればいい。

「信仰」という同じ体験をした私は、「オーム」の彼らが、何を思い、何に躓(つまず)いたかを
少しは分かるような気がしている。
あれだけ頭も良く、高学歴だった彼らの何が不足だったのか・・・。
今現在も、名前を変えた「その教団」に入る若者が、後を絶たないと聞く。
その原因の一つに「親が教えてくれないから・・・」と、言っているそうだ。



この間TVを見ての話です。
「今、なぜ黒か?」と。
日用品に「黒」が好まれているそうです。
食器、まな板、綿棒にカイロ。
「よごれが分かりやすい」事が理由だそうな。
食品も黒だ。
イカスミ焼きそば、黒ビール、竹炭ロールケーキ。
黒いかまぼこ、黒いなると。黒いどら焼き、黒いラーメン、黒いサイダー。
黒ぎょうざ、「黒い恋人」(「白い恋人」の黒バージョン)。
「黒の夢枕」なんてのもある。これは備長炭入りの枕だとか。

『色から見る現代の世相』と名打っての特番でした。
なるほど、ここでやっと「黒いカラス」が思いっきり羽ばたける「時」を迎えたようで、私も黒い
時を楽しみましょうかねぇ~。


年の瀬だけは、「黒い年の瀬」にならないことを祈りますが・・・。



「わたし」は子供が産めない女・・・

2012年12月29日 | 心霊現象
日本の「少子化」は、何も国会議員が目くじらをたてて、叫ぶことではない。
いずれ目を覆んばかりの事態が来る事は、みんな分かっている。
回りには老人だらけで、子供の声も姿もない。(私の田舎がそうである)
しかしこの中身は、環境さえ整えば何とか出来る。
が、これからお話する内容は、個人の努力の範囲外のことによる。
「生まれながら、一生子供が産めない体」という烙印を「その身」に背負って生きている「女」の話
である。
「愛」があれば・・・、と人は言う。
果たして「愛」が、それを解決してくれるのだろうか?


ここに一人の女性がいる。
彼女は若い時から「真理」を求めた。
自分の生い立ちが、「宿命」を背負ったものだと分かった時から、結婚をあきらめ「人の道」を求めた。
彼女は結果、統一教会へと導かれた。
真面目に、真剣に学んだという。
しかし、段々と絶望していく自分を発見した。
そこで教わる「真理」が、「そうだ」と思えば思えるほど、「それ」にそぐわない自分を思い知る。
「子供が産めない女」の、救いの場所はどこにもなかった。

人の神へ至る道は三つあった。
まず第一段階は、個人として男も女も「神の子」としての立場を元返すという作業、つまり学びや祈りの段階である。
次の段階は「結婚」である。教会は「合同結婚式」つまり、「祝福」とよばれて、男女がペアになる
ということだった。
その次には「子供」を得て、家庭をつくる。
その「家庭」をもって、世界を神の形へと変えてゆく。
その家庭の集まりが国家をなせば、どんな小さな国家でも「神の国」がこの世に出来る。
これこそが「神」の究極の喜びであり、目標である・・・、と教えられる。
この「真理体系」の中には、「子供を産めない女」の存在意義は、どこを探しても見いだせない。

それでも彼女は、希望も祈りも捨てなかった。
誰よりも学び、誰よりも人を愛し、努力を重ねて「時」を待ったという。
「祝福」のマッチングの場へ、高鳴る胸をおさえて足を運ぶ。
一回目は、誰も相手として選んでもらえなかった。
「主」(教祖)が選んでくださるのだから、まだ現れていないのかもしれない。
そう彼女は理解した。
二回目も同じだった。しかし、次がある。「三度目の正直」というではないか・・・。
その間に自分も年をとっていった。
そして、ついこの間来たばかりの若い信者の男女が、「天国行きの切符」を得たかのように、喜び
勇んで「天国の階段」を登っていくのを脇で見続ける日々。
自分にとって「三度目」の時が来た。
神はわたしを見捨てはしない・・・、今度こそ信仰の日々を分かって祝福を与えてくださる・・・。

祈りと努力の全てを「否定」されたかのような錯覚に陥った。
「なぜ、なぜ子供が産めない女には、救いがないの!・・・」
三度目までがわたしの心の支えだった、がもう何もかも失せた。
この先何年、何をどう努力したとて、結婚は出来ない。先が見えた人生に、「何」を夢見て生きて
ゆけというのか・・・。
信仰の足掛かりを失って、彼女は決心した。
「わたしが真理だと認めたこの教義、この教団に救われる道はなかった。これから他へ行ったとて
神はまた同じ道を示されるだろう。この肉体がある限り、わたしはこの世での救いはない。
ならば、あの世はどうだ?・・・」
彼女が最後に行き着いた「自殺志願」の場所は、決して願ってのことではない。
仕方のない・・・、そう、やり場のない心、そして身の置き所を失った行き詰まりの追い込まれた
場所だった。

3日間の祈りのあと、「決行」します。と、神にだけ伝えた。
一日目、祈り終わって床に入った。
そして見た夢は・・・。
夢枕に「イエス」が立っていた。
彼女の床の脇に寄って、こう言われた。
『わたしが解かなければならなかった事がまだあったのに、わたしが解いていない。許してほしい』と。
彼女には何のことかが、すぐに分かった。
イエスが「解くこと」とは、「家庭」のことである。
イエスが結婚をして子供をつくり、家庭つまり「神の家庭」を世に現すことによって、神を見せるという「作業(使命)」が残されていたのだ。
それだけを言って、イエスは消えた。

二日目の祈りも終わった。明日は死ぬ日だ。
「イエスさま、ありがとう。でも、もういいんです」
その夜、また夢をみた。教祖つまり文氏の夢だ。
『どうしても、死ぬしかないのか・・・』と。あとは何も語らず、自分を見ていた。

三日目の床に就いた。
今朝がた見た「いま一つの夢」の意味がよく分からない。それが解けないと・・・。(あの世へいけない)
最期の祈りを終えて、眠りについた。
『本当に死ぬしかないのか?・・・、ならばわたしも一緒に死のう』
他の誰でもない。なつかしい声のむこうに「神」の気配がした。
父なる神が、こんな不出来なわたしと一緒に死んでくださるという・・・。
慟哭が、声となって口からもれ、その声で彼女は目を覚ました。
まだ、泣きじゃくっていた。
そして、瞬時に「あの夢」の意味することが解けたという。

 『わたしは、なぜか「エレベーター・ガール」として、大勢のお客さんを誘導していた。
 エレベーターが来ると、「上にまいります」と言っては乗れるだけの人を詰め込んで、戸を閉め  る。なぜか自分は乗らない。(乗れない)
 そうしてエレベーターが来るたびに、満員の人を詰め込み、上に参りますと声をかけ、戸を閉めて
 送り出す。
 それが、わたしの仕事(使命)だったのだ。
 上とは天国。エレベーターはより救いの高い場所を目指して登る乗り物だ。
 わたしはその案内人として、大勢の人を乗せては上へと送ってやる係りなのだ。
 それをせよと、そういうことだ・・・』



その後の彼女を、私は知らない。
自殺を取りやめ、人を天国へと送り込むことを一生の仕事と甘んじて受けるまでに、どれだけの
葛藤があったかも知らない。
しかし、長い歴史の中で、同じ涙を流した人、とりわけ「産めない女の心」は、「彼女の魂」が抱えてくれるはずである。


今だから言える。
「産めない女」の立場は、それがそのまま血統を通して叫ぶ氏族の代表選手であると知る。
誰の罪でもない。
この世の「今」に、「彼女」を通して現した先祖の声であり、声なき声を聞くときも「今」である。
神は答えをくれない。
それこそが、神が人に与えた「尊厳」である。
神の子なら、這い上がってこい!
神の子なら、自分で答えをつかめ!
これが、人間の親が神であるという証明、つまり「責任分野」のゆえんである。
人間の自由性は、わがまま放題の無法者になることをいっているのではない。
何が「神の道」、あるいは「親なる神」の思し召しかを探り、答えを正しく出す術を身に付ける
ことこそが、修行であり、祈りの日々である。(この日々をもって「霊感」が身につく)


名もなく、所在もしれない「一人の女」にも、これだけの人生があり、また神との関わりがあることを聞くと・・・。
「どうせ、わたしなんか・・・」
「神も仏もあるものか・・・」
「死んだ方がまし・・・」
などという思いや、台詞は、どうぞ一時飲み込みながら、この押し詰まった年の瀬を、
どうぞ生きて来年に繋いでほしいと、切望しつつ、祈るものでございます。

「日本自治区」と「東海」

2012年12月28日 | 心霊現象
前勤めた会社でのこと。
朝出社すると、私の机の上に「地図」が広げて置いてある。
「ああ、今日の私の仕事か」と思ってよく見ると・・・。
?・・?
「何だぁ、こりゃ!」
その地図には「日本」が無かった。
あるべき場所には日本の地形の上に「日本自治区」と書いてある。
さらに「日本海」も無い。その場所には「東海」と書かれていた。
いったい誰のいたずらか! それも何のために・・・。


私が「右翼」らしいと、いよいよ「さぐり」が始まったのか、あるいは「いやがらせ」か?
社員のほぼ全員がそろった頃を見計らって、片手で地図を振りかざして「犯人さがし」が始まった。
「頭から湯気」の一歩手前を、探られないようにしながら「何ですか、これ!!」・・・。
私の興奮もさることながら、社員の誰も「その地図」を知らなかった。
社員はむしろ興味深く眺めはじめた。
「日本はどこの自治区になるの?」「さしあたって日本海が、東海と呼ばれるってこと?」
「いたずらにしては、信憑性ありだなぁ、ふーん」だって。
結局誰も知らないことだった。
「会社の玄関のカギが開いていたんじゃないか?誰かがそーっと置いていったとか・・・」

結果犯人?はITのプロ。個人契約で「パソコンのシステム開発」を任されている御仁だった。
週に3~4日出社すればよい人だ。
全世界を網羅して、闇サイトまで見ている御仁である。
その中で、この地図を見つけたのだ。
国は中国。彼らが使う世界地図には、もはや「日本」は無い。
そして当然「日本海」も無い。
見覚えのある「その場所」には、「日本自治区」と「東海」が記されていた、というすんぽうである。
私はやっと解せた。
いつも「国」を思えとか、国旗は敬えとか、国歌は大切にとか言っていた私に、「その危うさ」を
目に見せてくれたのだ。
闇のサイトと言いながらも、そこまで「他国」を侮辱し、ないがしろに扱う民族の、それこそ「闇」を見た思いがした。

闇のサイトにめくじらをたてては、こっちの「品格」が下がる、とは重々承知である。が、分かって
いながらも心は「その手」に乗ってしまう。
それとももはや、日本自治区と東海の地図のごとくに「彼ら(闇サイト)」には目標が定められて
今に至っていると言うのか・・・。

人間、耳で聞いているうちはまだいい。が、目で見せられると、もはや逃れる術がない。
決定的なものとして脳裏に刻まれる。
私もまんまと、その手にかかった。
今でも私の脳裏には「日本自治区」と「東海」が、悪夢のように刻まれている。


「国破れて 山河あり」とは昔の話だ。今は何も残らない・・・、と
国会議員の方が言っていたのを、思い出す。
平和と水と空気は、タダで与えられている、と言っていた時代は去った。
「その地図」を私が見たのは、今から5年前位になる。
「御仁」は、世界を結ぶインターネットの世界から、日本の運命をはじき出す。
会社の、それも独自のシステム開発を設定するくらいのプロ中のプロであれば、彼が見えている世界も、政治家の目ではない「違うもう一つの目」で何かを見ているのだろう。


・・・と、私はそんな夢をみましたぁ~。

こう言って終わりたい私ですが、現実の話です。それ以外の何ものでもない。

今だに「パソコン」を使いこなせない私です。
だから「闇サイト」も覗けない。
そのかわり、「IT依存症候群」とかには絶対ならない。なりようがないのです。
光と影。メリットとデメリット。
必ず二つの現象が、両輪のように現れるといいます。

これから先、いろいろな現象を見せつけられながら、「それでも、こちらを」という選択が我々を
待っている。

個人の人生から、国の行く末まで、「選択」は待ったなしで「答え」を迫ることでしょう。
が、迷ったときは「人の声」を聴くな!といいますから・・・。

賢明な「あなた」のとる方法を暗示しつつ、今日はこれで終わります。


苛酷な運命の果てに

2012年12月27日 | 心霊現象
今日は、ここまで年が押し詰まって考える事は何か、という点で思い浮かぶことを
書いてみたいと存じます。
じたばたしても始まらない、と思えるほどぎりぎりの年の瀬でもない。
しかし思ってもどうせ同じ事だろうと、一歩先へ踏み出すほどの決心もないまま、時間がすぎて
気が付けば新年を迎えるハメになる、といった「今」は実に微妙な時であると思召せ。

そこで、今だからこそ考えて今年を終わらせ、新しい年を迎える決意をここで再確認するべく
自分の時間を持ってみてはいかがかと・・・。


「韓国」という国と結婚したという初の女性新大統領が誕生した。
母を奪われ、父を失い、自らは右頬に深い傷をつけられて、あわや一命を失いかねなかった。
そして結果、祖国に一身を投じた「彼女」を、人は現在のジャンヌ・ダルクと呼ぶ。

『まず母を奪われた。父朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を狙った銃弾だった。
 留学先のフランスから戻り、ファーストレディー役を担ったのが22歳。5年後、父も側近に射殺
 される。韓国初の女性大統領となる朴槿恵(パク・クネ)さんは、悲憤で心を研ぐように強くなっ た。野党党首だった6年前、選挙応援中に右ほおを11センチ切り裂かれた。5ミリ深ければ動脈 に達し、即死していたとされる。両親をテロで失い、自らも傷痕を背負う指導者は、荒れ放題の
 途上国でさえまれだ。
 「まだ私にやることが残っているから(天は)命を残したのだろうと考えると、失うものも欲しい
 ものもないという気持ちがおのずとわいてきた」。
 血に染まる肉親の着衣をすすぎながら、「一生分の涙」を流したその人が青瓦台(チョンワデ)に 還る。
 「国と結婚して」独身を通す彼女は、どうやら筋金入りの愛国者らしい。

 幸か不幸か我が方には、これだけ泣いてきた政治家はいない。』

               (2012・12・21 天声人語より)

このように「紹介」されて、今世界の注目を浴びる一人の女性がいる。
まさしく彼女は「国」と結婚する運命にあったのだろう。



ここにまた一人の女性がいる。
しばらく前に、このブログでご紹介した盲目の「あの」方を思い出す。
生まれながらに光を失い、その上「足萎え」(あしなえ)であった。
そんな彼女に私は問う。
「どこぞへ、嫁がれましたか?」と。
「めくら」で「足の不自由」な「かたわもの」の彼女が何と答えたか?
「無礼者!」と一喝してもよかったものを・・・。
しばらく考えてから、彼女はこう言い放つ。
「強いて言えば、神に嫁いだ・・・」と。
思い出していただけただろうか、望月家の姫さまの「言葉」である。
身体不自由は、神に向かわせるための自分に与えられた「試練」であったと、彼女は言い切る。


環境が整ったから、あるいは幸せだったから「向かう道が見えた」のではない。
むしろ逆である。
人が眠る時に眠らず、人が笑っている時に泣き、人が暖かい寝床で休んでいる時に我が「厳冬」の運命にさらされて耐えていた。
「運命」という苛酷な時間にもまれて、強靭な精神といっしょに培(つちか)ったのは「その意味するもの」への模索だったかもしれない。
我にあたえられたこの苛酷な運命の果てに、何が用意されているのか・・・。
何が待っているのか・・・。何をせよ!と、おっしゃるのか・・・。


救急病院に運び込まれる約半数近くが、「自殺者・未遂者」であるという昨今。
病院の医師の、懸命な措置で一命を取り留める。
「その男」は二度目だった。二度も命を助けられた。
結果、「もう、死ねませんね・・・」とつぶやく。
罰当たりとは言うまい。むしろその果てに、何が待っているのか・・・。
期待された「その命」の行く末を、真摯に天に向かって聞いてみる時は、「今」だ。


いつも書いていることば。
人生いろいろ。人もいろいろ。
それぞれが持ち合わせた「血統」の特異性は、他に類を見ない、また他の誰をもってしても
代わることが出来ない唯一絶対の、稀有なる存在となって「わたし」の周りを取り巻いています。
血統が歩いてきた「過去性」の点を結び、今の自分につなげ、さらにその延長上を見上げる時、
行くべき、あるいは行かねばならない線が「道」となって見えてくる。


今年の残された時間、この線から辿る「道」をしっかりと見出して、新たなる年へと向かっていただきたく、心から願うものです。

「強いて言えば・・・、血統に嫁いだ」と、言える人を見出して、彼ら霊界人は、泣きだすでしょうけどねぇ~。(こればかりは、強制出来るものでは、ありませんから・・・)