霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

読者の方々へ「御礼」と「言い訳」など・・・

2014年06月24日 | 心霊現象
かれこれ三年に及ぶ「ブログ」を、これまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
ひょっとして誰一人としてお読みいただけなかったら、いくら「神様がきっとお読みかと」と思いながらも、私とて今日まで続けてこられたかわかりません。
古い読者の方、ある意味では「私のことを、私以上に?ご存じの方がいらっしゃる」ということは、怖ろしくもあり、嬉しくもあり実に複雑でございます。(でもやはり嬉しい!)

さてさて、ここへきて「ちょっと聞きたい」とか「逢いたい」とか「相談が・・・」とかの方がコメントをお寄せ下さいます。
ところが当方、日を追って「出不精になり」「話不精」になり、つまり集中力が散漫になり・・・。
もし、もしもですよ。
あの世から「命がけの言葉」を頂くような状況があったら、はたしてうまく地上の方に「橋渡し」が出来るかと、心配が頭を過(よ)ぎります。
ゆえにね、どうぞご連絡を下さる方は、「霊界の門が閉じる時のページに」つまり、そんなこんなで「相談事」がある方は「ここへFAXしてね」と番号を書きました。
どうぞ「そこ」へ連絡してください。
今様ではない方法で、若い?あるいはメールに慣れた方々には「いまさらFAXかよ~」と言われるでしょうが、この番号は今も24時間、365日開いています。
(扉はいつも開いています。ん?どこかで聞いた台詞だ?)
しかし本当に閉じる日。その日が来たら、ごめんあそばせ。
「ああ、老女が一人死んだ」と思ってくださいましな。
(しかし、あの世からはしっかりと覗いていますから・・・ふふふ)


ただその時はね、「滋野」と「武田」のコンビは解消となり?、また地上では霊界事情を解明する「コンビ」や「相棒」が新たに仕組まれると思いたいのですが・・・。
『海野のお館さま』と『武田於松さま』が霊界解明の『相棒だった』とはねぇ~。
歴史の事実から言えば、この二家は最初は憎い敵だったものを、よくもまあ「神様」はこんな二人をお使いになったものよと、いまさらのように感心し、感謝する次第です。
へたをすれば「この二人」こそ、刺し違えて果ててもよかったものを・・・。
先祖の功労とは、全くの驚きの極みでございます。(人智の及ばないところが「これ」だったかと、今に至ってだからこそ思い知ります)


さて、次にちょっとした現代の伝達今様の事情をば。
「ライン」ってご存知?。
さらに「既読スルー」って何?。
いえね、今TVのニュースで「若者の犯罪」が、「ラインの既読スルー」が元になって引き起こされたらしいと言っていたものですから。
私のように昔の、古い人間には「何のこと」か分かりません。
今日本の「ライン」に加盟(参加)?している人が5000万人だとか。
人口の半分がその「ライン」とやらに繋がれている。
そこで何が起こるんでしょうか?。
「せっかく読んでも、返事がこない!」、そうして若者は切れる!。
仕返しを企み、その被害を受けたのは「彼女」だった。とまあ、目まぐるしく変わる犯罪事情に、ついて行けない「深い時代の闇」を見た思いさえする。
「ライン」は、張り巡らされた「くもの糸」だ。
目に見えないから「ある意図をもって張り巡らされた因縁という霊界の糸」と申し上げたほうが、はっきりするかもしれない。
誘蛾灯に誘われる「蛾」のように、引き寄せられて「因縁の清算」に関わっていく。
現代版「はれない恨みをはらす方法」といったら叱られるだろうか?・・・。
『君子危うきに近寄らず』、この言葉が今ほど貴重な響きを発するときはない。
えっ、だから私はメールを返信しないのか?・・・、と。
(いえいえ、やり方が分からないだけです)



私が今日まで書き溜めた「こと」や「内容」は、いずれ、そうあと100年も経てば、全ての人とまではいかなくても大半の人には「常識」になることでしょう。
そして世の流れがもっと速くなり、いい意味では正直者がバカをみない時代になり、悪の行為には早速「おとしまえ」(清算)が加えられるという「生きて結果を見る時代」になるでしょう。
何が「正」で何が「悪」か。その違いが根本的に分かる時代を迎えた時、歓喜と絶望が入り乱れながらも、人心を家庭を国を世界を真っ二つに分けながら、流れる血と涙と汗の後にこそ「本物」がようやく姿を現す「よき時代」が到来するでしょうね。

それは「いつ」で「どこ」で「だれ(何)」か?。


今世界で起こる「戦争」は、『代理戦争』だと聞いたことがある。
誰の代理で、どこの代理で、何の代理か・・・。
はい、それはね「アダム」の代理であり、「エデン」の代理である・・・と。
最終的には「三度目の正直」を賭けて、地球規模で展開する「神の復帰摂理」。
つまり北と南に分断された一つの国が蘇る時であり、アダムの復活が国単位で起こった証でもある。
その時の「イブ」はどこで、天使長はどこか?・・・。
世界に現れたきな臭い「一触即発」の今、朝鮮半島に全ての目と意識を向けてみていてください。
必ず現れる「三度目の正直」は、案外私達が身を持って味わう「今」に、それもこれから近いうちに起こる可能性をもっています。(いやだなぁ~)
歴史の同時性を見る「三本の矢」は、もうすぐ来る「その時」を告げていたではありませんか。


いそげ、急げ!。内心私はあせっていますが、一度「人」つまり「人間」が関わったとき、その計画の遂行においてはあくまでも予定であって、決定ではないという鉄則があることを思い出してください。
神といえども、算数(数式)どおりにはいかないということ。
つまり、人間に与えた「責任分野」が全てにかかってくる。
いつ、だれによって、どこで終結するかなど「神でさえ分からない」。
これが歴史を今日まで引きずり、次へと繋いできた「いい意味でも」「悪い意味でも」神が人間に与えた「愛」の結果だった、とこうなります。
「ガリレオの数式」でも「アインシュタインの数式」でも、「神の数式」でさえも、人間の予定はあくまでも「人間によってしか」解かれない。
『予定はあくまで未定であり、決して決定ではない』。まさしく・・・。


さて、こんな人間の立場をこよなく愛した神に、同情と感謝を送りながらこれから先「皆さま」が辿られる「人生」に「幸あれ」と祈ります。


(FAX番号、是非探し出してくださいね! 待っていますから~)





神様との対話はどうする?(タメ語の習慣)

2014年06月19日 | 心霊現象
私が「タメ語」とか「タメ口」という言葉を知ったのは、つい最近である。
聞いたのはもっと先だったけれど、ようやくその意味が分かったのは、という意味である。
よく言えば「友達感覚」、悪く言えば上も下もない秩序の乱れからくる「現代の習慣」となる。
世の中も変わったのだから「慣れろ」といえば慣れもしょう。が、そこからくる「心」のわだかまり、大袈裟に言えば「心の障害」は深く刻まれ、後々まで残る。

上司や下士が差別となれば、当然「タメ語(口)」も平等のもとで許されることになる。
先生や親の地位が、昔よりは地に落ちた感覚がある現在、彼ら生徒は「タメ語」で日を送る。
それがあたりまえとなり、習慣になれば、いつかしっかり身について「タメ語」が生活圏で幅を利かす。
人間が肉体生活で終止符を打つのであれば、それも一つの生き方であり、許されるかもしれない。
つまり趣味なのだから、他人がとやかく言ってもはじまらない。
が、人には肉体を脱いで次へ行くという人の生き方の鉄則があった。
つまり「霊界でのくらし」が決定づけられていた。
では、「そこ」で使う「言葉」は何だろうか?・・・。
それが今日の問題点となる。

霊が叫ぶ「言葉」。
霊が語る「言葉」。
霊が泣く「言葉」。
そして霊が歓喜する「言葉」。
それはどのような「言葉」だっただろう。
さらに、人が「神」に出会い対話する言葉は・・・。
これらは全て「この世」(肉体をもった世界)で語られる言葉ではない。
霊と霊が語り合う「言葉」であった。
「世が世なら」という言葉があるように、私の場合はたいていが武士階級の人々。
それこそ平伏して顔も見れない、という状況だったであろう、世が世なら・・・。
しかしお互いに「血統」を挟んで、今までに起きたこと、そしてこれから起こるであろう事を対等に話そうとした。


「タメ語」とか「タメ口」を検索すると、出てきた。
もうすでに使いこなして?いる方は、なにもいまさら検索するもないだろうが、ようやく私はここでやっと「その意味する」ところを知った。
「タメ」とは元々「同目」(ぞろめ)を意味するバクチ用語。と出てくる。
それは「対等」や、「友達口調」を意味するとも・・・。
平等や自由の名の下で、個人の尊厳を最大級にもてはやされる「今の時代」に生きた者は、あたりまえのことだろう。
が、身分階級(封建社会)の中で培われた言葉づかいは、震えるような命がけの教育だったに違いない。
例えば「殿」の御前での失語は、即腹を切ることにつながるだろうし、本人だけならまだいい、一族郎党に至るまで罪が及ぶこともあっただろう。
「失言」は命と引き換えにもなった。
「時代が違うんだからさぁ~」とおっしゃるか?・・・。


では質問です。
「あなた」はもし、「天使」に会ったら、何て言う?。
偉そうな「お坊さん」に会ったら何と言う?。
そしてもし、「神様」(らしい)存在に会ったら「なんと口をきく?」。

地上で逢うとは限らない。
「あの世」でもし逢ったら、「あなたの魂」は、何と言葉を発するか?、という問題です。
この世で逢う「お坊さん」なら、一応の教養や「わきまえ」があれば、それなりに失礼のない言葉や態度で対応できるでしょう。(心の中で、何だこのくそ坊主!と思ってもね)
しかしあの世(霊界)は、心がそのまま「言葉」を表す世界。
今までこの世で覚えた「腹芸(はらげい)」は通用しない。
そっくりそのまま「タメ語」で悪態をつくことになる?。

ではいつ、「タメ語」から卒業し、心から尊敬できる人に逢い、習うことも訓練もこなしながら、しっかりと自分の言葉として、いやもっとはっきり言えば「自分の魂が自然に語る言葉」として相手に伝わる日々のくらしこそが、「あの世で神に会う、その時の為の訓練」になる、と思召せ。
この世で使わない、(使わなかった)言葉は、あの世でも使う事は出来ません。
神に会っても「あなた」は「タメ語」で叫ぶんでしょうねぇ。
「お、おまえよ~、誰なんだ?・・・、神?嘘だろう・・・ふざけんなよ!」とね。


さて、本来「人」はどんな言葉を話していたのでしょう。
神様とです。
もしエデンの園に何事もなかったら、神は人間の親ですから「親子の対話」が展開していったでしょう。
皆様「親子の会話」って、ご存じ?。
母親とはするけど、親父とはなぁ・・・、ここんとこしてないなぁ・・・。
「親と会話?するわけないでしょう、あの毒母となんか・・・」。
「うちの子はね、父親が帰ってくるとすぐ自分の部屋へこもって、出てこないのよ~」と。

「タメ語(口)」しか使えない者の会話が、いかに社会の適応を妨げているかなど、考えないでしょう。
敬語が使えない「若者」と、ダメな今どきの子の代名詞みたいに言う年寄や社会人にもおおいに責任がある。

これから先、残業がなくされ、その仕事が効率的であればあるほど「よし」とされる時代がくるとき。
人は会話を好むだろうか?・・・。
全ての事はほとんど「メール」で用が足りると「豪語」する時代、そんな人があの世へ行ったとき、果たして「その魂のほとばしる言葉」は、何だろうか・・・。
ましてや神にあったとき、そこに言葉や会話は発生するのだろうか?。
あの世において「言葉」の無い者は、この世でいうところの「唖(おし)」である。
肉体を持っているうちに「それ」を訓練してこなかったがゆえのものである。
あの世で交わりえるのは、正直な「素の心」が、瞬時に伝わる世界であり、さらにその心は肉体で口で話した以上の「雄弁さ」をもって、相手に伝えようと努力する。
守護霊がいまどきの「私達」に分かってもらえるべく、懸命に言葉を選びながら苦心している姿は、前の記録をみて頂けば充分知ることが出来る。

「人の心」など分かりたくもない!・・・、とそう言うあなたがいたら・・・。
私はこう言おう。
今のその訓練こそ、越えてあの世で自由に通用する人間として確立するための第一歩なのです。がんばれ!・・・、と。


さあ、「あなた」は天使ごときにひれ伏してはなりません。
その言葉さえも分別して、もし間違いがあったら、教え諭せるくらいの「神の子」として、霊肉ともに成長なさいませ!。
そのためには「霊界で通用する言葉」の多くを、今から学んでくださいませ。
タメ語(口)に慣れるというその習慣、枠から早く抜け出して、脱皮し(皮を脱ぎ)次の成長段階へとお進みください。
親なる神の御前に立つとき。
あなたの人生の集大成、つまり晴れの舞台が用意されていることを知るでしょう。
「おお、我が子よ!」
「父ちゃん!」
ま、ここまでくだけなくてもいいでしょうがねぇ。
ここまでが人生の目標点だと思っていただければいいかと・・・。
まだ先もあるのでしょうが、とりあえずということで。



今私の周りでは、言葉(会話)が足元をすくうといって縦と横の関係を断って、なるべく関わりを持たないという空気が漂っています。
それでも「仕事」は、それなりにこなせると踏んでいるようで・・・。
「その空気感」を、私は前に「地獄」だと書いています。
その隙間に忍び寄る「魔」が、きっとあるでしょうし、私はそれによって「足元をすくわれる」ことがかえって怖いと思っています。
さて、この先何が待っているのでしょう・・・。


清水寺の和尚さんが書いた「輪」の字は、何を教えたかったのでしょうか?・・・。
(いまさらだから、思い出しています)

天国と地獄の違いとは何?・・・

2014年06月12日 | 心霊現象
このブログをお読みくださっている方には、簡単な質問になるでしょう。
それはね、「あの夢」の話を思い出せば、おのずと答えが導き出されるというもの。
そうです。答えは「環境」ではない、ということ。
答えは、人の「心の在り方」であると返ってきます。


現代生活を離れて、古い田舎の民家を訪ねる。
人がある時期、狂ったように求めた「文化的生活」をかなぐり捨ててでも、「何」を求めて「そこ」へ行こうとしたのか?・・・。
何でもあり、便利のるつぼの中にいながら「幸せではない」と弾き出した「あなたの魂」は、何を求めたのか?。
古民家で始めた「民宿」での『おかみさん』の全てが、「今のわたしを癒してくれた」と、旅人が言う。
出された地のもの。裏山や近くの川(河)で捕れたものばかり。
金額にすれば「タダ」同然のものだ。しかし違った。
その味。臭い。風味。そして『おかみさん』の心づかい。笑顔と言葉。
何をどうしたのか。「てらった(衒)」わけでもない清流のような人間から受け取れる「味わい」に、穢れた魂が洗われ、生き返る。
自然を忘れ、あるいは捨て、あるいは崩壊せしめた「人間」の毒、あるいは罪が今ここで再び自然によって立ち直ろうとしている。

一頃「岩盤浴」流行りだったとき。
私も仕事のため、その「岩盤浴」とやらに通ってみた。
仕事とは会社(出版社)で本を出したからだ。当然その説明をお客に求められるだろうことは、前もって分かることだ。だからの体験でもあった。
自分で石(岩盤)を選べる「そこ」は、色々な効能を説明しながら「石のもつ特徴」を伝えてくれる。
その焼けた?(温められた)上に横たわり、蒸し風呂風な部屋でしこたま「汗」をかいて、すっきりして出てくる。という趣向である。
たまった毒素を体外へ出し、体に最も良いという名水(水分)を飲めば、一丁上がりである。
身よりまず心が「そう思い込めば」、たいていは一回で終わらない。数回通うことになる。
(が、私は蒸し風呂にいると呼吸困難になる。サウナなどほうほうの体で出てきたものだ)
田舎では切り出した「木」の上に寝転ぶというのがある。
木曽のひのきの切り出した上で寝る(休む)しばらくの時間で、人は活き活きとするのだそうだ。
またこうもいう。
人が一番自然と近いところで寝る恰好な場所は大地、つまり地べたであると。
これは「右脳と左脳」に違う周波数を聞かせることから「霊界」を引き出し、誰でもが「あの世」を覗けるという方法(ヘミシンク)をあみだした「モンロー研究所」(アメリカ)の研修方法だそうである。
いずれも「心」が静まり、安心し、つまり癒されるそうである。


しかし、一生そうしていけるわけがない。
俗世を捨てて「人」は一人で生きるようには造られてはいなかった。
ではどうすれば「本当の天国」へ行けるのだろうか。
あの夢のように、天国とは「他人」と一緒に行く「一つの心」の世界であり、それは一つになれる共通のもので繋がった状態での魂の状況を言うのだとすれば・・・。
それは会社での仕事ではない。それは一時であり一部の満足でしかない。
家族はどうだ。その繋がり方に問題がある。
宗教はどうだ。ある意味近いとも言える。
仏を親とすれば、その子たちは一つの世界(心の置き所)においては、同じ親から出た子として存在できる。
キリスト教も同じだろう。
しかし、歴史が証明するようにどこもまとまってはこなかった。分派によって複雑に別れてきた現実があるだけだ。
「あの夢」は、私達に何を教え、諭したかったのだろう。
確実にこれから行く「霊界」での、天国と地獄との「違い」に、何を悟れと言いたかったのか?・・・。

『自分の持っているスプーンで、相手の口においしい物を運んでやる』
それも喜んで、感謝して・・・。(シャンデリアの明るさと、楽しい会話と歌声)
そこには確かに、満足と満たされた幸せがあった。(しかし、手は後ろ手で縛られ、スプーンも結わえられて、自由では決してない状態であるが・・・)


今なぜここで、「あの話」なの?と、思われるだろうが・・・。
これが、まさしく「今」の私の心境なのです。
さて何をどうするか・・・?。
埋まった地雷を自ら踏むか、それとも「私の地雷」を負けずと埋めるか?。
それとも日々「踏まないように気遣いながら」時間を送るか・・・?。
生き方はいろいろある。
また人の心は瞬時に変わる。「猫の目のよう」に絶え間なく変わる「人の心」に自分を合わせることは、とうの昔、そう「あの時」をもってやめにした私である。
そうして今日まで生きてきた。(いや、生かされてきたのだ)

やだな、人の心が手に取るように分かるよ~、と自分につぶやきながら、さてどう出るかを探っている。
昨日まで私の頭でぐるぐる回っていた「三星」?は・・・。
一、自ら地雷を踏む
二、自らも地雷を撒く
三、地雷を撤去し地ならしをしてから「次なる行動」へと移る

次なる行動って何?
それはね、相手があってのことならば、相手の出方を見ながら作戦をたて、随時変えていく
という戦法・・・、ではなく、相手がどうであれ一貫した「形、姿、心」で我を示さん!、という行動ですね。
長年生きてきた「私の行動パターン」であり、これを私は「自爆」と呼んでいる。
多分、きっと、神も「これ」を楽しみにしておられるかもしれないと、思いつつ。
結果はどう出るかは分からないが、今月いっぱいが、山場であろうかと・・・。




いつもは「向こう」(霊界)からくる最終通告を、今私はここから向こうに向けて発信しています。
「近いうちに結果は出るから~」と。
きな臭い6月は、まだまだ中旬に差し掛かったところです・・・。

皆様も、6月はご注意あそばせ。
いろいろあった歴史も、6月に多く「事が起こって」います。
眠れる獅子が起こる日、いや怒る日はあるのでしょうかねぇ・・・。(世界情勢の事ですが)


謎かけ?

2014年06月05日 | 心霊現象
6月で開けた私の新生活。
さてどのように始まり、どのように終わりを告げるのだろうか・・・?。
まだ早い!とお叱りを受けそうであるが、最初は「謎かけ」できた。
一日目。もう一人の同じ勤務者から教わればいいと、たかをくくって迎えた初日だったが、みごとに肩透かしをくわされた。
「ねっぱつで○○さん、急遽本日休みです!」
私と同時間に働く人が、熱を出して休みとなった。(一つ目の肩透かしだ)
右も左も分からないとまでも言えないが、何ひとつ把握できていないのだから「分からない」と同じだ。
へたに昔を引け散らかせば、トラブルのネタにもなるし、第一失礼であり無礼・傲慢となる。
「わきまえる人間」としては、教わることを最優先だと考える。
しかし、そのことが裏目に出た。
「教えてほしければ、聞きに来い」、これがここでの「スタンス」らしい。
私以外の人たちで(スタッフ)、ことは何なく進められ時間が過ぎてゆく。
私は指示があるものと思い(錯覚し?)、じっと待っていた。

「どこのおばさん?この人・・・」グループホームのお客さんが時間とともに怪訝(けげん)そうな顔になっていく。
時間が過ぎれば、一日の動きが自然に分かっていくだろうという私の読みは甘かった。
自分で自己紹介をし、自分で空気を読む。
このユニットの誰かが、今日一日の「私の先生」になるだろうという読みの甘さ、いや「肩透かし」いや、「謎かけ」が早速始まっていたのだ。
私の周りだけが「空気」が止まっている。
他は忙しそうに、あるいは又楽しそうに「確かな動きをもって」時を刻んでいる。
昨日まであんなに忙しく飛び回って一日が終わったのに、「ここでは一人ぼっちで時間の止まった中でいる」私だ。
空気には「霊気」がある。そこから読み取れる「気」に、焦点を合わせ確かな空気感を読み取らねばならない。
生きた人間が発する「気」は死人とは違い、一番確かであり強い。
これも「謎かけ」である。

二日目からは「シフト」とよばれる業界独特の勤務体制の中で、一人でこなさなければならない。
そして次の日、つまり「三日目」は「夜勤」がくる。
誰もが言った。「なんて無理な勤務」かと・・・。
しかし三日あれば、それも教えてもらえれば何とか出来るはずだと、私は気にも留めなかった。
が、結果的に「何も分からないまま」夜勤を迎えることになる。


「みとり」という業界用語がある。
つまり「まもなく死ぬ人」の「最期を看取る」という意味である。
その「御仁」が、ここにはいる。そしてその一人の存在ゆえに、「ここ」では自分の夜勤の時だけは、その死に直面しないようにと、祈って(手を合わせて)出勤するという。
そんなこんなを聞いていた私は、今日の「この日」を迎えるにあたり、用意した「物」が二つある。
一つは「塩」であり、もう一つは「辞表」である。
この判断は、案外当たりだとさえ思われた。
夜になり、お客はてんで勝手に自室に入っていく。
手のかからない人が多い「この階の住人」たちは、ホールに集まって時間に縛られるのは三度の「飯」(その後での薬がある)と、風呂の時間とお茶の時間だけだ。
あとはフリーであり自由に、そして勝手に生活できる。
そんな人達の中で、何に意味や意義を見出して「行動(介護)」するかは、各自に問われている。
むしろ「それこそ」が、重大なる「謎かけ」かもしれない。

奥の部屋から「鈴」が鳴る。
そらきた!。死にゆく者が私を呼んでいる。
「どうしましたか?」とおきまりの声をかける。
暑い毎日だから水分は必須である。必ず片手には、すでに水を持って飛んでいくのだ。
それにこの御仁は、三日間何も食べていない。(固形物が胃袋に入ってないという意味だ)
栄養ドリンク(エンシュアとよばれる液体物)は、一日分750㏄は入っている。
『もう夜でしょう。やるべき事を早くやっちゃってよ。手際よくやってよね。もたもたするのは嫌いなんでね・・・』
(何の事だ?・・・)
これも知らない者にとっては「謎かけ」の言葉だ。
いったいこの私に何をすれというのか?。
「おむつ濡れてませんか?」。『だからさぁ、早くやっちゃってよと言ってるでしょう!』
日中は他の職員が慣れた手つきで済ませて帰る。
私は夜の部屋で、何がどこにあるのかさえ分からない。(落とし穴にはまった感あり)
もたもた、ぜーぜーいいながら臭いもないまぜになって格闘する。
体のどこを触っても痛みが走る御仁は、「触られるのが一番嫌い」と昼間言っていた。
『痛い!』、「ごめんなさい」『痛いんだよう!』、「ごめんなさい」。
その繰り返しの中で、もし他の人が転んだりしたらもう終わりだ。
危険がこんなにも隣り合わせなのは、「夜」だ。
一人の夜勤の目しかないからだ。
救急車を一挙に数台呼ぶなど、前代未聞の出来事となり、歴史の一ページを刻むことになろう。

徳川時代の大奥じゃあるまいし、鈴が鳴ってかけつける。
もう夜だ、やることやれなんて・・・。その謎かけはまさか「よとぎ(夜伽)」をすれって事じゃないよね、ふふふ」と言った友がいた。
私はあきれて聞いていたが、そこまで頭が回らない私でもあり、さらに「介護」と「夜伽」を結ぶものは、断じてない。

次の「謎かけ」がこうだ。
一人の「ばあさま」がすりすりと夜更けによってきた。
「あのね、さっき預けた私のさいふ、お持ちでしょ。ちょっと見せてもらえるかしら?」と。
そらきた!。
この手の錯覚は認知症特有のものだ。
ないものは「ない」。
預かっていない事を伝える。
その理由がこうだ。
昨日今日きた新参者に、大切な「さいふ」を預けますか?。あなたの勘違いでしょ。
きっと古い職員で、偉い誰かさんにお預けになったのでしょう。明日お聞きになったら分かりますよ。
しかし、同じことを夜な夜な三度聞かれた。
もし私が事情に明るかったら、もっと的確な説明ができたかもしれない。
しかし夜も更け、眠気に負けてその「ばあさま」は眠った。
これもりっぱな「謎かけ」だ。

そして次がきた。一度寝たと思った「じいさま」が起きてくる。フラリフラリといつでも転倒する様でこちらへくる。トイレなら自室の隣にあるではないか。
眠れないから「その相手」をせよと、そういう意味だろう。
簡単にあしらっては失礼だと思い、初めて向き合った話を体験する。
洗濯機が終わった音を告げる。乾かさないと、明日着る洋服や、シーツに支障が出る人もいるだろう。
ちょっと失礼してその場を離れる。
『おーい!どこだぁ!。どこいったんだよぅ!』と、耳の遠いその人は夜の空気が変わる程の大声で怒鳴りまくる。
走り寄っては、白板に字を書き読んでもらう。それをも大声で読む。
(そんな大声で読むかなぁ)しかしこれが認知症なのだ。
隣でうたたねをしながら、時々は「薄目」を開けては私の姿を確認する。
椅子からずり落ちはしないかと、気を配りながら、鬼のいぬ間の洗濯ならぬ眠っているのを確認しては「夜勤」の作業をこなす私である。


夜間に数回鳴るという鈴の音は、いまだ聞こえてこない。
これはむしろ「不気味」である。生死を確認しなければならないからだ。
私はやおら立ち上がり、「塩」を持っていよいよ作業を開始する。
息はしている。いやむしろ「いびき」が聞こえる。
すかさず部屋の四隅と中央に塩を撒く。
呪文はいつものことだ。
手早に終わらせて「眠った爺様」のところへ帰る。
東の空が明るくなり始めたころ、ようやく寝ると言って布団へ入った。
そしてそれからが、朝食づくりの締めをする。(途中で下ごしらえはしてあるからだ)


この場所には、見えない地雷が無数にちりばめられているとみた。
その地雷を縫うようにして、ようやく一応無事に「今日」は終わったかにみえる。
その地雷こそ、「人」であり、「環境」であり「作業」であり「介護のなんたるか」の差異からくるものであろう。
私は霊的にみる戦場の、「地雷」の多さに絶句し、すくみ、さらに進むべき道の多難を感じて今ここにいる。
『あなたからは長く勤めていただきたいから、いくらかは「楽(らく)」なところでまたがんばっていただければと~』との言葉をもらって来たところは、はたして額面どおりの「楽(らく)」な場所ではなかった。
二番目は苦しいはずだ、と申し上げた私の読みのほうが当たった、と思召せ。
「三種の神器」ならぬ私の「三種」は何であろうか・・・。
一つは「塩」であり、そして二つ目は「辞表」である。三つ目は・・・?。
生きた神と、霊界と守護霊をひっくるめた「霊団」である。
目に見えないものと闘うには恰好な内容である。
地雷探知機ならぬ「霊界から見る地雷探知機」をいつも携えて赴き、行動しなければならない「二回目のステージであること」を皆様にここでご報告いたします。
神が与える私への最期のステージは、まだ二段階目を迎えたままである。


そうそう、塩を振った「あの御仁」ね。
朝ごはん全部食べたんですと。三日三晩、いやそれよりもっと長い日にち「固形物」を胃に入れなかった人がですよ。
何があったんでしょうねぇ。私は知りません。神様だけがご存じかと。

ただね、昔銀行員だったという「その御仁」。
こんなところで果てては無念でしょうねぇ。
もし食欲が増して自分で立てるようになったら、卒業させてあげたいと「ふっと」思いましたよ。
袖すりあうも多生の縁って昔から言うじゃありませんか。
毎回夜勤の度に塩を振り、呪文を唱えて、いえ神の愛の祈りを捧げ続けたら、案外ひょっとして次の朝、「よっ!」って片手を挙げて歩いてくるかもね。
骨は丈夫だと読みましたから。


とにかくいろいろ。
こんな日々が待っていたんだと、覚悟してまた前に進みましょうか・・・。
(ただ今回の夜勤の疲れは、肉体よりも精神的にどっときまして・・・。
一日二日寝ただけでは、回復しないかも~)