年末年始の礼拝は、おもに
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新約聖書からピンポイントで話しましたが・・・
昨日からまた出エジプト記の続きに戻りました。
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出エジプト記15:22-37
「救われるということ」
「・・・その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
そして、仰せられた。
『もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従い、
主が正しいと見られることを行い、
またその命令に耳を傾け、
そのおきてをことごとく守るなら、
わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。
わたしは主、あなたをいやす者である。』
・・・」
劇的な救出を経験し、感動的な礼拝をささげたイスラエル人を待ち構えていたのは、荒野での試練。
深刻な水不足を経験しました
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また、指導者モーセも、主からの言葉を受け、
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試みを受けたとあります。
確かに彼らは、全能の神、
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主によって選ばれて、救われました。
しかし、主は彼らが試みに会うことをあえて許されました。
「救われた」ということが何を意味するのか考えさせられます。
救われるということは、何一つ不自由のない快適な生活を保障されるということではありません。
むしろ、
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試練や困難は付き物です。
「救われる」ということの中心は、神との交わりの中に入れられるということです。
その場合、神との交わりは、神への全面的な服従・従順という要素を持っています。
モーセが主に要求されたとおりです。
モーセは民と共に紅海をくぐり抜け、荒野に導かれ、そこで試みを受けました。
私たちが与えられた
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救いの性質、神との交わり、全面的な神への服従に心を留めました。
それと同時に、聖餐式においては、父なる神に完全な服従を貫いた御子イエスを覚えました。
新約聖書は、モーセと対比してイエスのことを説明しています。
ヘブル2:17-3:6
「・・・モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、
イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。・・・」
イエスは、モーセと同じように荒野で試みを受けましたが、すべてを退けました。
私たちが神との交わりの中に保たれるのは、
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忠実なイエスの贖いのゆえであるわけです。
それで、救われた私たちは主イエスの足跡
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にならい、神のみこころに生きる道を選んでいくのです。
午後からは、いつものYouthの時間より早く、東京教会へ。
Youth企画でもちつきをしました。
ちびっこから年配の方々までいっしょに30名ほどで楽しい時間を過ごすことができました。
おいしいおもちをたくさん頂きました。
ちなみに、納豆ともちという組合せは初めてでした
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焼き芋や豚汁もあり、お腹いっぱいでした