マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

交流戦を観戦

2006-06-15 22:38:52 | ちょっと息抜き
今晩は、教会のKさんに誘われて交流戦に行った。
今日で二回目の観戦。
Kさんが車でインボイスまで連れて行ってくださった。
車だと乗り継ぎがないので、電車で行くより早かった。
Kさんが内野指定席を取ってくださった。
前回よりも近くで観れた。

西武 VS 中日
前回よりもヒットは出たものの、チャンスにもう一本が打てなかった。
西武にはホームランが出なかった。
一方、中日には福留やウッズのホームランが出た。
またチャンスには犠打で確実に点数を取った。
谷繁のスクイズも成功した。

結果は、中日7-1西武だった。
前回のヤクルト戦より今晩の方が観ていて面白かった。
西武は負けてしまって、内容もイマイチで、Kさんには悪かったが、
まあ、相手が中日だけに個人的には楽しめた。
アウェイのはずなのに、中日の外野席の応援は熱かった。
かえってホームの西武の応援より盛り上がっていた。
地元にいたとき応援に行っていたわけではないけれど、
中日の応援は懐かしさや親しみを感じた。

それにしても、観戦2敗目。
まだ打線爆発のライオンズを観ていない。
いつ観られるのかな。

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玄関の様子

2006-06-14 17:44:03 | 教会の風景
こちらは玄関の様子。
玄関と礼拝堂の講壇のところには、毎週花を生けてくださる方がいる。
鉢植えの花は、新たに置くようにしたもの。

やっぱり花や植物があると雰囲気が明るくなる。
育てる楽しみもある。
今後も緑化計画も含めて、教会の環境整備を充実させていきたい。
訪れる方々にホッとしてもらえる空間にしたい。

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緑化計画の経過

2006-06-14 17:35:02 | 教会の風景
今日、妻が北山公園に行ってきたそうだ。
菖蒲がとてもきれいに咲いていたとのこと。
平日にもかかわらず、たくさんの人が来ていたそうだ。
前回まだあまり咲いていなかったので、私ももう一度くらいは行ってみたいと思う。

さて、教会の方の緑化計画は少しずつ着実に進んでいる。
教会の前の通路にプランターも新たに置いてくださった。
その写真を撮ってみた。

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われわれのかたちに

2006-06-13 01:27:26 | 教会の風景
昨日の礼拝では、創世記1章24-31節から説教した。

創造の記録の第六日。
創造主なる神様が、人間を造られた様子が伝えられている。
最初の人間を造る際、神様がこのように言った。

「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」(1:26)

聖書は神様がただ一人だと教えている。
一般的にもキリスト教が一神教だと知られている。
では、なぜ「われわれ」という複数が使われているのだろうか?
これには、いくつかの説明がある。

・神の威厳を表す複数
・人間の創造における熟慮を表す複数
・天使たちを含めての複数
・神様の三位一体を暗示する複数

私としては、三位一体の神様を示している、ということで受けとめている。
確かに、明確に三位一体が示されているのは、新約聖書においてのことだ。
しかし、新約聖書の知識に照らし合わせて見れば、ここですでに暗示していたとも考えられる。

さて、「似るように」「かたちに」は、人間のうちにある霊という要素を思い起こさせる。
霊をもっている存在として、人間は神様と交わることができる。
聖書の他の箇所もそのことを支持している。
礼拝、祈りは、霊における三位一体の神様との交わりだと言える。
聖書の示すクリスチャンの信仰生活は、この天地創造の神様との個人的な関係であるとも言える。

また「われわれ」が三位一体を示すと考えるならば、
父、御子、御霊の間にある関係が、「似るように」人間に反映されるはずだ。
その関係とはどのようなものか?
父なる神様、御子なるイエス様、聖霊なる神様の間にあったのは、互いに対する愛だと言える。
それは福音書や書簡などから伺える。
御父のご計画にまったく従われた御子。
御子を死からよみがえらせ、すべての名前に優る名(栄光)を与えられた御父。
御子の公生涯を支えられた御霊。
私たちの救いという目的のために、お互いに尽くす神様の姿を見ることができる。
そこには愛に基づく調和と協力がある。
本来の人間は、神様のそんな愛を反映することを期待して造られている。

しかし、そんな「かたち」「似るように」とは程遠い私たちの現実の姿がある。
罪(原罪)のゆえに、私たちの「(神の)かたち」は歪み、霊は死んでいる。
三位一体の神様の救いは、失われた本来の「(神の)かたち」を回復するという表現も使われる。
新約聖書にはこのようにある。

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9,10)

救われるとは、創造された本来のかたちに回復されるということだ。
神様を信じるとは、単に聖書を学術的に研究することや儀式や行事に参加していることだけをさすのではない。
あるいは、何かの規則や伝統を守ることに徹するというのでもない。
イエス・キリストが死なれたのは、
* 神様との個人的な交わり(祈りと聖書のことばの黙想を通して神様を知ること)
* 人との愛に基づく調和のある生活(人との交わり)
を私たちに用意するためであった。
私たちがその救いの豊かさを味わうことを神様は願っている。


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今頃は・・・

2006-06-12 20:59:48 | 教会の風景
昨日の夕方、いつものようにYouth for Jesusで集まった。
賛美とショートメッセージの後、二つのテーブルに分かれて、
テーマについて語り合う時間を設けた。
いろいろお互いの思っていることや聞いてもらいたいことを
共有できて良かったと思う。

その後で、参加者の中で、サッカーの好きな青年たちが、今晩のオーストラリア戦を集会をしている部屋で観戦するために、準備をした。
部屋の飾りつけから始めた。
開催国ドイツの旗も飾ったり、日の丸を作って、応援メッセージの書き込みや参加している国の国旗をペイントしていた。
その旗にもYouth for Jesusと書き込んでいた。
侍ブルーの日本の旗も部屋のあちこちに貼って雰囲気が出ていた。
いっしょにいて楽しかった。

普段、サッカーは見ないけれど、ワールドカップは見ている。
今晩の試合も家で見ようと思っている。
たぶん今頃、彼らはその部屋に集まって、盛り上がっていると思う。
日本、がんばれ!


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