マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

われわれのかたちに

2006-06-13 01:27:26 | 教会の風景
昨日の礼拝では、創世記1章24-31節から説教した。

創造の記録の第六日。
創造主なる神様が、人間を造られた様子が伝えられている。
最初の人間を造る際、神様がこのように言った。

「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」(1:26)

聖書は神様がただ一人だと教えている。
一般的にもキリスト教が一神教だと知られている。
では、なぜ「われわれ」という複数が使われているのだろうか?
これには、いくつかの説明がある。

・神の威厳を表す複数
・人間の創造における熟慮を表す複数
・天使たちを含めての複数
・神様の三位一体を暗示する複数

私としては、三位一体の神様を示している、ということで受けとめている。
確かに、明確に三位一体が示されているのは、新約聖書においてのことだ。
しかし、新約聖書の知識に照らし合わせて見れば、ここですでに暗示していたとも考えられる。

さて、「似るように」「かたちに」は、人間のうちにある霊という要素を思い起こさせる。
霊をもっている存在として、人間は神様と交わることができる。
聖書の他の箇所もそのことを支持している。
礼拝、祈りは、霊における三位一体の神様との交わりだと言える。
聖書の示すクリスチャンの信仰生活は、この天地創造の神様との個人的な関係であるとも言える。

また「われわれ」が三位一体を示すと考えるならば、
父、御子、御霊の間にある関係が、「似るように」人間に反映されるはずだ。
その関係とはどのようなものか?
父なる神様、御子なるイエス様、聖霊なる神様の間にあったのは、互いに対する愛だと言える。
それは福音書や書簡などから伺える。
御父のご計画にまったく従われた御子。
御子を死からよみがえらせ、すべての名前に優る名(栄光)を与えられた御父。
御子の公生涯を支えられた御霊。
私たちの救いという目的のために、お互いに尽くす神様の姿を見ることができる。
そこには愛に基づく調和と協力がある。
本来の人間は、神様のそんな愛を反映することを期待して造られている。

しかし、そんな「かたち」「似るように」とは程遠い私たちの現実の姿がある。
罪(原罪)のゆえに、私たちの「(神の)かたち」は歪み、霊は死んでいる。
三位一体の神様の救いは、失われた本来の「(神の)かたち」を回復するという表現も使われる。
新約聖書にはこのようにある。

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9,10)

救われるとは、創造された本来のかたちに回復されるということだ。
神様を信じるとは、単に聖書を学術的に研究することや儀式や行事に参加していることだけをさすのではない。
あるいは、何かの規則や伝統を守ることに徹するというのでもない。
イエス・キリストが死なれたのは、
* 神様との個人的な交わり(祈りと聖書のことばの黙想を通して神様を知ること)
* 人との愛に基づく調和のある生活(人との交わり)
を私たちに用意するためであった。
私たちがその救いの豊かさを味わうことを神様は願っている。


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