2002年のシーズン。
いよいよサーパス応援を本格的に始めます。
この年は、もともとホークスファンであったおぐりくんが、以前から一緒にファームを見ていたところから、サーパスファンに転身した年でもありました。
さらに
ファームを通じて、いろんな方々と知り合うようになり、よりサーパスに対して濃い~~お付き合いの始まることとなりました。
この年、
オリックスブルーウエーブは、じつにドラフトで14人という、新人の大量入団をはたしました。
その選手たちは
#19 小川裕介
#9 平野恵一
#61 島脇信也
#23 早川大輔
#24 肥田高志
#56 山本拓司
#48 竜太郎
#34 本柳和也
#49 後藤光尊
#50 牧田勝吾
#60 板倉康弘
#57 深谷亮司
#65 藤本博史
#66 橋本泰由
この選手たち、
2002年のシーズンはほとんどの選手がサーパスで見ることになります。
そして、
ボクのサーパスファン人生、サーパス応援に大きな影響を与えた選手たちなんです。
さらに言うと、
この14人にくわえ、台湾からやはりプロ生活1年めをブルーウエーブ、サーパスで迎えた余文彬(ユ・ウェンピン)も含めてやりたいということも付け加えておきます。
2001年に初めてあじさいに行くことができ、サーパスの距離感、コンセプトに同調したくサーパス応援を決意したこの年に入ってきた大量の選手たち。
夢をかける若い選手たちは、自分と等身大にも照らし合わせ、またサーパスという発車したばかりの若きチームにふさわしい選手たちと思っていました。
しかし
この15人の選手たち、決して恵まれて入ってきた選手たちばかりではありませんでした。
ドラフト選手と期待して入団したと言えるのは、、
1位の小川、2位の平野、、、
いまでこそ活躍しているから言えることだが、下位では後藤光尊、牧田くらいまででしょう。
それでも、後藤、牧田は9人め、10人めの指名。
多い方である。
それより下位の選手は、契約金ゼロというカタチで入団してきた選手たちなのです!!
契約金ゼロ選手
名のとおり、契約金をもらえずに入団してきた選手。
2軍で経験を掴んで、1軍で活躍が出来たら、出来高として契約金分を初めてもらえる。。
そんな契約で入ってきた選手たちで、前年には高見沢、北川。
後年は塩屋、中島も同様に入団してきました。
これは、
意図としていることは育成選手と同じようなもので、プロとしての力も期待もまだまだだが、ファームでじっくり育成をして、頑張ればプロとして評価と相応の報酬が与えられると言うもの。
サーパスで頑張れと言われて入ってきた選手なんです。
これは、サーパスファンとしては大いに応援しなきゃ!!
その人数もさることながら、
サーパスから這い上がって大きくなってほしいという願いを込める意味でもとても印象深く、またボクがサーパスを本格的に応援をはじめた最初の新人選手としても、特別な思いを持って応援をしていった選手です。
とくに思い入れの強い選手をご紹介してみたいと思います。
13巡目の藤本博史捕手
社会人野球を渡り歩き、単身渡米もしてまで現役にこだわってきた選手です。
明るいイメージと、強気のプレーが印象深い選手ですね。
藤本選手については、2003年に残念ながらオリックスを解雇されてしまったのですが、その後も再び渡米。
独立リーグでもキャッチャーとして戦歴を積みます。
帰国後、
”欽ちゃん球団”の茨城ゴールデンゴールズに入り、アマチュア野球も経験しましたが、このときはスキャンダルのあおりを受けて退団してしまいます。。。
このとき、
藤本さんはプレーでも、スキャンダルでもそれぞれ話題になったので、ご存知の方も多いと思いますが、後者によって話題になってしまったことは、ちょっとボクたちとしても不本意であり、無念なところがありました。
しかし!
藤本さんはあきらめなかった。
退団後も、こんどは台湾野球を経験。
そして昨年からは四国リーグの長崎セインツにてコーチ兼任をつとめました。
また
イチローと渡米時代に知り合った経緯から、現在も神戸で行なわれているイチローの自主トレに毎年パートナーとして参加しています。
イチローの紹介で、WBCのブルペン捕手も努めており、今年も参加されるのではないのかと思われています。
この、あきらめきれない気持ち!
最近では、シーズンオフにチームから戦力外を受けた選手たちのドキュメントをよくテレビなどでも放送することがあります。
サーパスを応援していると、毎年こうした選手の去就や挫折に直面することになります。
しかも、
間近で見ていて、話をしたり、、友達が選手をやっているような感覚で付き合っていけるので、よりリアルに受け止めることになる。。
それを踏まえて見ていても辛いものがあるのですが、
藤本選手ほど根強く現役にこだわっている選手は見たことがありません!!
一度、渡米をした際に手紙を書いたら、返事をくれたこともありました。
野球に対する情熱と、人を大切にする藤本選手に出会えたことは、ボクのサーパスファン人生でも大きな糧となっています。
さらに
現役のころはそれを間近で見ていたんですから、ボクがサーパスを応援していきたいと思いついたその気持ち。皆さんにも感じていただければと思います。
契約金ゼロ選手以外で、いまでも活躍されている選手といえば、、
現阪神の平野恵一
彼は、年もひとつ下で同年代ということもあり、また非常に真面目で、秘めた熱い闘志を感じる男。
その後もオリックスでは1軍にも上がり、レギュラーをとっていく成長を見せたことは皆さんもご存知でしょう。
しかし、
恐れずにまっすぐに立ち向かう姿勢が逆に怪我を生み、また真面目な性格が自分を追い込んでいったり…と、ボクらも見ていて辛くなることもあるような、見守りたくなる選手でした。
新人時代は進んで荷物係をやったり、ボクらの声かけにもソフトに応じてくれましたね。
彼は、本当にいいヤツなんですよ!
以前、またご紹介しますが、サーパスが野球教室をやってくれました。
バッティング教室に参加した際、ボクのスイングを見て、
「こうした方がいいですよ!」
「そうです!!」
「じゃあ、今度はバットをもっと放り投げるように大きく振ってください」
「いいです!じゃあ、今度は踏み込みを意識してやってみましょう」
「すごい、もう少し重ねるともっとキレイになりますよ!!」
トスをしながら、延々5分以上かけてボクを指導してくれました。。。
その時の教えは、覚えてますよ~。
「いやぁ、もともととても上手なので、こっちもつい力が入りました。」
ほめたらいかんて~~(照)。
その熱心さ。
ボクは、こいつが悩んでいたら心から応援してやりたい!
と、その時思いました。
つづいて
”一球投魂”の本柳和也投手
Bsファンにはお馴染みですね。
身体は小さいけど、闘志みなぎる投球でぐいぐいと攻めるのが気持ちのよい投手。
球団イチ”腰が低い”ことでも有名な本柳さんは、おぐりくんが彼のサーパスのレプリカユニフォームを作ったときに感激し、ボクらにはとくに親しく接してくださいました。
この選手たち、、
とくにいま現在においても、現役で一線にたって活躍されている選手です。
ロッテに行った早川含め、後藤もまた目下一線で活躍されていますし、そういった選手たちは、ボクたちの誇りであり自慢にもなっています。
それは、
間近で悩んだ時期も知っているから。
それが、サーパスにひきつける”プロの現場”の、もうひとつのカタチでした。
スケールはまだまだ小さいかもしれないが、男の生き様がそこにありました。
サーパスを応援するために、あじさいやナゴヤには通いました。
また
サーパスが地方で試合をやる際は、即席の応援団を立ち上げて、独自の応援も展開しました。
レプリカユニフォームも作りましてね。
選手や関係者の方にも、怒られるかな・・・
なんて思っていたら、
本柳さんのように喜んでくれる方もいれば、
「おぉ、よ~できとるな(笑)」
と笑ってくださった方もいたり、、
そんな距離感と一体感があるのが、またファームの楽しみであり、好きでした。
応援も、いろいろと考えましてね。。
一軍とは違った応援をあみ出して展開したり、
14巡目の橋本泰由投手なんかは、箕島高OBで教師をやられていたところからプロになったという経緯があったため、
”橋本センセー!!”
というコールを応援で展開していたら、近くに座っていた関係のないお客さんも楽しんで、選手の名前を覚えてくれたり。。。
そんな言動がサーパスの応援や、認知度に役に立っていると思うと、応援団冥利に尽きるというものじゃないですか。
「少人数でも、楽しく野球を応援しよう」
という、
いまにつながるようなコンセプトも、こんなところから生まれたのかもしれません。
ただ、
契約金ゼロ選手たちの選手生命は、長くはありませんでした。。。
ほとんどの選手が2004年までには解雇され、引退していきました。
唯一、バファローズに残ったのは、2003年入団の塩屋のみでしょう。
楽天に行った中島も生き残りではあります。
中島はのちに楽天で一軍に出場できましたがね。
ほかも、一軍に出場したのは北川と高見沢のみ。
それでも、ケガに泣き、長く続かないで終わってしまいました。
のちに、中村GMは
「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」
といい、契約金ゼロ契約を廃止しました。
たしかに、
技術の及ばない選手に、いくら契約金ゼロとはいえ、及ばぬ夢を見せるのではない。
と、批判する人はいた。
でも
育成選手と言う概念を作り出した一つのアイデアかもしれないし、少なくともボクたちは、契約金ゼロで入ってきた選手のプロ生活を見て、プロの厳しさ、夢を持つことのすばらしさを知った。
いまでも現役で活躍している選手も含め、2002年入団の選手たちには、心から感謝している。
2002年という年を機に、サーパスを通じて感じるプロとは何か?
プロを夢見る選手たちとは何か?
そして、
若い選手たちの可能性を信じ、チームへの関心を高め、プロ野球界の底上げに協力できれば、、、
ファームをとりまくいろんなことに興味を持ち、また自分たちの力で盛り上げることが出来るのではないか。。
そう思い、サーパス応援を展開するようになるのでした。
事実、
これ以降、サーパス応援を通じ、いろんな選手や関係者さんと知り合いになり、いろいろな話を聞いたり、ボクら自身が投げかけた問題に対し、チームが動いてくれたり、サーパスを通じて充実した野球感を得たつもりでいました。
2002年 32勝50敗8分けのウエスタンリーグ最下位。。
プロの道は厳しくも面白いと実感する一年でした。
<つづく>
いよいよサーパス応援を本格的に始めます。
この年は、もともとホークスファンであったおぐりくんが、以前から一緒にファームを見ていたところから、サーパスファンに転身した年でもありました。
さらに
ファームを通じて、いろんな方々と知り合うようになり、よりサーパスに対して濃い~~お付き合いの始まることとなりました。
この年、
オリックスブルーウエーブは、じつにドラフトで14人という、新人の大量入団をはたしました。
その選手たちは
#19 小川裕介
#9 平野恵一
#61 島脇信也
#23 早川大輔
#24 肥田高志
#56 山本拓司
#48 竜太郎
#34 本柳和也
#49 後藤光尊
#50 牧田勝吾
#60 板倉康弘
#57 深谷亮司
#65 藤本博史
#66 橋本泰由
この選手たち、
2002年のシーズンはほとんどの選手がサーパスで見ることになります。
そして、
ボクのサーパスファン人生、サーパス応援に大きな影響を与えた選手たちなんです。
さらに言うと、
この14人にくわえ、台湾からやはりプロ生活1年めをブルーウエーブ、サーパスで迎えた余文彬(ユ・ウェンピン)も含めてやりたいということも付け加えておきます。
2001年に初めてあじさいに行くことができ、サーパスの距離感、コンセプトに同調したくサーパス応援を決意したこの年に入ってきた大量の選手たち。
夢をかける若い選手たちは、自分と等身大にも照らし合わせ、またサーパスという発車したばかりの若きチームにふさわしい選手たちと思っていました。
しかし
この15人の選手たち、決して恵まれて入ってきた選手たちばかりではありませんでした。
ドラフト選手と期待して入団したと言えるのは、、
1位の小川、2位の平野、、、
いまでこそ活躍しているから言えることだが、下位では後藤光尊、牧田くらいまででしょう。
それでも、後藤、牧田は9人め、10人めの指名。
多い方である。
それより下位の選手は、契約金ゼロというカタチで入団してきた選手たちなのです!!
契約金ゼロ選手
名のとおり、契約金をもらえずに入団してきた選手。
2軍で経験を掴んで、1軍で活躍が出来たら、出来高として契約金分を初めてもらえる。。
そんな契約で入ってきた選手たちで、前年には高見沢、北川。
後年は塩屋、中島も同様に入団してきました。
これは、
意図としていることは育成選手と同じようなもので、プロとしての力も期待もまだまだだが、ファームでじっくり育成をして、頑張ればプロとして評価と相応の報酬が与えられると言うもの。
サーパスで頑張れと言われて入ってきた選手なんです。
これは、サーパスファンとしては大いに応援しなきゃ!!
その人数もさることながら、
サーパスから這い上がって大きくなってほしいという願いを込める意味でもとても印象深く、またボクがサーパスを本格的に応援をはじめた最初の新人選手としても、特別な思いを持って応援をしていった選手です。
とくに思い入れの強い選手をご紹介してみたいと思います。
13巡目の藤本博史捕手
社会人野球を渡り歩き、単身渡米もしてまで現役にこだわってきた選手です。
明るいイメージと、強気のプレーが印象深い選手ですね。
藤本選手については、2003年に残念ながらオリックスを解雇されてしまったのですが、その後も再び渡米。
独立リーグでもキャッチャーとして戦歴を積みます。
帰国後、
”欽ちゃん球団”の茨城ゴールデンゴールズに入り、アマチュア野球も経験しましたが、このときはスキャンダルのあおりを受けて退団してしまいます。。。
このとき、
藤本さんはプレーでも、スキャンダルでもそれぞれ話題になったので、ご存知の方も多いと思いますが、後者によって話題になってしまったことは、ちょっとボクたちとしても不本意であり、無念なところがありました。
しかし!
藤本さんはあきらめなかった。
退団後も、こんどは台湾野球を経験。
そして昨年からは四国リーグの長崎セインツにてコーチ兼任をつとめました。
また
イチローと渡米時代に知り合った経緯から、現在も神戸で行なわれているイチローの自主トレに毎年パートナーとして参加しています。
イチローの紹介で、WBCのブルペン捕手も努めており、今年も参加されるのではないのかと思われています。
この、あきらめきれない気持ち!
最近では、シーズンオフにチームから戦力外を受けた選手たちのドキュメントをよくテレビなどでも放送することがあります。
サーパスを応援していると、毎年こうした選手の去就や挫折に直面することになります。
しかも、
間近で見ていて、話をしたり、、友達が選手をやっているような感覚で付き合っていけるので、よりリアルに受け止めることになる。。
それを踏まえて見ていても辛いものがあるのですが、
藤本選手ほど根強く現役にこだわっている選手は見たことがありません!!
一度、渡米をした際に手紙を書いたら、返事をくれたこともありました。
野球に対する情熱と、人を大切にする藤本選手に出会えたことは、ボクのサーパスファン人生でも大きな糧となっています。
さらに
現役のころはそれを間近で見ていたんですから、ボクがサーパスを応援していきたいと思いついたその気持ち。皆さんにも感じていただければと思います。
契約金ゼロ選手以外で、いまでも活躍されている選手といえば、、
現阪神の平野恵一
彼は、年もひとつ下で同年代ということもあり、また非常に真面目で、秘めた熱い闘志を感じる男。
その後もオリックスでは1軍にも上がり、レギュラーをとっていく成長を見せたことは皆さんもご存知でしょう。
しかし、
恐れずにまっすぐに立ち向かう姿勢が逆に怪我を生み、また真面目な性格が自分を追い込んでいったり…と、ボクらも見ていて辛くなることもあるような、見守りたくなる選手でした。
新人時代は進んで荷物係をやったり、ボクらの声かけにもソフトに応じてくれましたね。
彼は、本当にいいヤツなんですよ!
以前、またご紹介しますが、サーパスが野球教室をやってくれました。
バッティング教室に参加した際、ボクのスイングを見て、
「こうした方がいいですよ!」
「そうです!!」
「じゃあ、今度はバットをもっと放り投げるように大きく振ってください」
「いいです!じゃあ、今度は踏み込みを意識してやってみましょう」
「すごい、もう少し重ねるともっとキレイになりますよ!!」
トスをしながら、延々5分以上かけてボクを指導してくれました。。。
その時の教えは、覚えてますよ~。
「いやぁ、もともととても上手なので、こっちもつい力が入りました。」
ほめたらいかんて~~(照)。
その熱心さ。
ボクは、こいつが悩んでいたら心から応援してやりたい!
と、その時思いました。
つづいて
”一球投魂”の本柳和也投手
Bsファンにはお馴染みですね。
身体は小さいけど、闘志みなぎる投球でぐいぐいと攻めるのが気持ちのよい投手。
球団イチ”腰が低い”ことでも有名な本柳さんは、おぐりくんが彼のサーパスのレプリカユニフォームを作ったときに感激し、ボクらにはとくに親しく接してくださいました。
この選手たち、、
とくにいま現在においても、現役で一線にたって活躍されている選手です。
ロッテに行った早川含め、後藤もまた目下一線で活躍されていますし、そういった選手たちは、ボクたちの誇りであり自慢にもなっています。
それは、
間近で悩んだ時期も知っているから。
それが、サーパスにひきつける”プロの現場”の、もうひとつのカタチでした。
スケールはまだまだ小さいかもしれないが、男の生き様がそこにありました。
サーパスを応援するために、あじさいやナゴヤには通いました。
また
サーパスが地方で試合をやる際は、即席の応援団を立ち上げて、独自の応援も展開しました。
レプリカユニフォームも作りましてね。
選手や関係者の方にも、怒られるかな・・・
なんて思っていたら、
本柳さんのように喜んでくれる方もいれば、
「おぉ、よ~できとるな(笑)」
と笑ってくださった方もいたり、、
そんな距離感と一体感があるのが、またファームの楽しみであり、好きでした。
応援も、いろいろと考えましてね。。
一軍とは違った応援をあみ出して展開したり、
14巡目の橋本泰由投手なんかは、箕島高OBで教師をやられていたところからプロになったという経緯があったため、
”橋本センセー!!”
というコールを応援で展開していたら、近くに座っていた関係のないお客さんも楽しんで、選手の名前を覚えてくれたり。。。
そんな言動がサーパスの応援や、認知度に役に立っていると思うと、応援団冥利に尽きるというものじゃないですか。
「少人数でも、楽しく野球を応援しよう」
という、
いまにつながるようなコンセプトも、こんなところから生まれたのかもしれません。
ただ、
契約金ゼロ選手たちの選手生命は、長くはありませんでした。。。
ほとんどの選手が2004年までには解雇され、引退していきました。
唯一、バファローズに残ったのは、2003年入団の塩屋のみでしょう。
楽天に行った中島も生き残りではあります。
中島はのちに楽天で一軍に出場できましたがね。
ほかも、一軍に出場したのは北川と高見沢のみ。
それでも、ケガに泣き、長く続かないで終わってしまいました。
のちに、中村GMは
「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」
といい、契約金ゼロ契約を廃止しました。
たしかに、
技術の及ばない選手に、いくら契約金ゼロとはいえ、及ばぬ夢を見せるのではない。
と、批判する人はいた。
でも
育成選手と言う概念を作り出した一つのアイデアかもしれないし、少なくともボクたちは、契約金ゼロで入ってきた選手のプロ生活を見て、プロの厳しさ、夢を持つことのすばらしさを知った。
いまでも現役で活躍している選手も含め、2002年入団の選手たちには、心から感謝している。
2002年という年を機に、サーパスを通じて感じるプロとは何か?
プロを夢見る選手たちとは何か?
そして、
若い選手たちの可能性を信じ、チームへの関心を高め、プロ野球界の底上げに協力できれば、、、
ファームをとりまくいろんなことに興味を持ち、また自分たちの力で盛り上げることが出来るのではないか。。
そう思い、サーパス応援を展開するようになるのでした。
事実、
これ以降、サーパス応援を通じ、いろんな選手や関係者さんと知り合いになり、いろいろな話を聞いたり、ボクら自身が投げかけた問題に対し、チームが動いてくれたり、サーパスを通じて充実した野球感を得たつもりでいました。
2002年 32勝50敗8分けのウエスタンリーグ最下位。。
プロの道は厳しくも面白いと実感する一年でした。
<つづく>
とてもお世話になっていて
お元気かなぁと思ってググってたら
こちらを見つけました。
20代のころと変わらぬ髪型と立ち姿!
とても懐かしかったです。
ありがとうございました。