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小早川秀秋(秀吉の養子⇒毛利家へ)の運命

2022年07月05日 | 歴史
🌸小早川隆景(「小早川秀秋」を誕生させた知略)

 ☆小早川隆景は秀吉に恩を売れば毛利家の利益になると踏んだ
 ☆小早川秀秋は関ヶ原の戦いで「裏切り」の汚名を着せられる
 ☆秀秋は、北政所の兄の五男として生まれた
 *3年後叔父の羽柴秀吉の養子となる

小早川隆景は、秀吉に重用され「豊臣直参」に
 ☆毛利陣営も本能寺のニュースは知っていた
 *秀吉は高松の城将の切腹を条件に毛利方と講和し、畿内へと戻った
 *毛利陣営には、当然、秀吉討つべしの声があった
 *小早川隆景は、ここで秀吉に恩を売れば
 *のちのち毛利の利益になると反対派を説得
 *秀吉の天下取りを間接的に後押しした
 ☆天下人になった秀吉は、毛利家を厚遇した
 *所領は家康に次ぐ120万石、石見銀山の領有も許された
 ☆秀吉は毛利家のみならず、隆景個人も重用した
 *九州の筑前周辺に30万石もの土地を与え「豊臣直参」とした
 ☆秀秋の小早川家入りは、こうした状況下に実現した
 ☆秀秋を養子とし隆景は、五大老の1人となった
 *豊臣家としては、秀頼の誕生で秀秋は不用になった
 *小早川家は、秀秋を迎えて様々な優遇措置にあずかれる
 *「小早川秀秋」の誕生は、豊臣・小早川双方に利があった
 ☆関白の豊臣秀次が粛清された
 *秀次は秀頼の将来の障害物と見なされ、1族皆殺しになった
 ☆秀秋もかつての豊臣家の貴公子として
 *秀次との関係を疑われ丹波亀山領10万石を奪われた

いいがかりで領地半減の左遷
 ☆秀秋の苦境を救ってくれたのは、養父の隆景
 *隆景は主な家臣を連れて備後国三原へ隠居した
 *秀秋は小早川領30万石を相続する形で九州に下り
 *筑前国・名島城の城主となった
 ☆小早川隆景が没し、秀吉から秀秋へ帰国命令が届いた
 *秀秋を待っていたのは、越前北ノ庄15万石への左遷命令
 ☆徳川家康は、秀秋に救いの手をさしのべた
 *家康は五大老と相談の上、秀秋を博多に返した
 *新しい領地は筑前、筑後に50万石超と増加した
 ☆関ヶ原の戦、秀秋が西軍、豊臣方に加担する方がおかしい

秀秋、少年時代からの飲酒が死因に
 ☆秀秋が西軍の大谷吉継の陣営に攻撃をかけ
 *西軍全体の潰走に直結したことは有名な話
 *「裏切り」と斬って棄てるのは、酷なような気がする
 ☆秀吉死後、秀秋は岡山55万石の大大名になったが2年で死去する
 *岡山での秀秋はなかなかの名君と伝わる
 ☆秀秋、人並みに生きていたら「裏切り」の汚名も幾分晴れたかも
 ☆秀秋の死因
 *少年時から酒を大量に摂取しの内臓疾患(肝硬変な)
 *豊臣の貴公子というストレスフルな立場
 *度を超えた飲酒と関係していたのかもしれない
                      (敬称略)                                     
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⛳出典、『THEMIS6月号』


小早川秀秋(秀吉の養子⇒毛利家へ)の運命
(ネットより画像引用)

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