慶喜

心意気
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『奥の細道』(芭蕉、俳人&江戸幕府の忍者?)

2020年10月10日 | 文学
🌸『奥の細道』(芭蕉、俳諧を変えて俳句のもとを作った)

⛳『奥の細道』のあらすじとは
 ☆俳人・松尾芭蕉が、江戸を出発地として東北へ向かう
 *平泉に到着した後、大垣に到着するまでの旅の記録
 *そのなかで創作された俳句
 ☆『奥の細道』冒頭
 *「時は永遠の旅人で、人生は旅そのものである」
 *芭蕉の人生観を表している
 *旅のなかで人生を生きようと考える彼の意志を表す
 ☆芭蕉は、この後の人生の多くを旅のなかで過ごす
 *そこで生まれた俳句に今も多くの人々が心を動かされ
 *芭蕉は、俳聖として敬意を集めている

⛳『奥の細道』のルートと場所
 ☆旅の総移動距離は、2,400Km程
 ☆旅の期間は、6か月にも満たな
 *3月の下旬江戸を出発、5月中旬に平泉に到達
 *9月初旬に、大垣に到着
 *俳句の普及活動もしながら徒歩で完遂した
 *1日に50km程歩いた日もある
 ☆芭蕉は忍者との噂が現代にまで残っている

⛳松尾芭蕉は何者?
 ☆芭蕉は徳川家の3代将軍家光の時代、伊賀忍者の里で生まれた
 *芭蕉の家は、苗字を名乗る事を許された、準武士の家柄
 ☆芭蕉は、出世も望めないという立場を悟る
 *自らの活路を文芸、特に俳句に求める
 *29歳の時に、江戸へ修行に向かう
 ☆芭蕉は、紆余曲折の末
 *彼は旅のなかに自らの俳人としての理想を見出す
 *それに賛同した弟子や支援者の助けを借り
 *本作へと繋がる旅を始めた
 ☆『奥の細道』の旅の目的は、仙台藩の偵察だったのでは?

『奥の細道』の目的地は、平泉だった
 ☆平泉は、奥州藤原氏の土地として栄えた
 *鎌倉幕府も迂闊に手を出せない聖域のような場所
 *平泉も最終的には鎌倉幕府に滅ぼされた
 ☆芭蕉が訪れた時には夏草が生い茂る土地となっていた
 *芭蕉は、人の社会や人生の儚さを思い
 *有名な俳句「夏草や……」を残し涙したと伝わる

河合曽良(そら)
 ☆芭蕉は、優秀な弟子河合曽良と旅した
 ☆河合は芭蕉より5歳年下の弟子
 *俳句だけでなく地理や神道にも通じ、その博識で旅を支えた
 *スケジュール管理も彼がおこなっている
 *頼れる秘書のような存在でもあった
 ☆芭蕉とは別に河合も『曽良旅日記』を書き上げた
 ☆河合は、芭蕉との旅の後に幕府の巡見使となった

『奥の細道』の最後の俳句
 ☆長い旅を終え、芭蕉は大垣へと到着する
 ☆芭蕉は、江戸に帰らなかった理由
 *芭蕉は人生は旅で、ひとつの場所へ留まらない
 *江戸は帰る場所ではなく、人生という旅の途中だった
 ☆本作の最後の俳句は、旅を続ける芭蕉の姿を表現している
 ☆「蛤の……」で始まる俳句
 *蛤のふたと身とがわかれるように
 *自分を見送る人々と別れて出発する
                   (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『ホンシェルジュ』NHK『英雄たちの選択』








『奥の細道』(芭蕉、俳人&江戸幕府の忍者?)
(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)

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