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平清盛は”白河法皇の御落胤”だった

2022年10月18日 | 歴史
🌸平清盛は”白河法皇の御落胤”だった

 ☆平清盛、昔から囁かれている重大な噂がある
 *平清盛は、伊勢平氏の棟梁だった平忠盛の子ではない説
 *父親は、白河法皇だったとの噂

 ☆平氏は天皇の子孫のうち
 *皇位継承権のない者が「平」の姓を受けて
 *臣籍に下ることで成立した氏族である
 ☆「平家物語」にはっきり書かれている
 *清盛は忠盛が子にはあらず、白河院の皇子なりと

女子ならば朕の子に、男子なら忠盛の子に
 ☆清盛は伊勢で生まれた
 ☆生母は平忠盛の嫡子として、祗園女御と呼ばれる女性
 *祗園女御は、白河法皇の妻(正式ではない妻)であった
 *白河法皇が忠盛に祗園女御を与えた

 ☆当時はお家のためなら、女房の召し上げや献上も珍しくない時代
 *自分の妾を家臣に譲るなど、日常茶飯事だった
 ☆平忠盛としては
 *天皇家との結びつきが強くなり、お家隆盛と歓ぶ心持ちさえあった
 ☆祗園女御の懐妊を白河法皇は知っていて
 *生まれる子が女子であれば朕の子に
 *男子であれば忠盛の子にせよと話した
 ☆平清盛は白河法皇の御落胤だ

清盛は武家出身ながら”異例の大出世”を遂げた
 ☆平清盛は武家出身でありながら
 *天皇家、とくに白河法皇から特別に目をかけられていた
 *武士にもかかわらず異例中の異例として大政大臣に任命された
 ☆驚くべき出世を遂げた
 ☆清盛が朝廷に相当なコネがあったとしか考えられない
 ☆母である祗園女御の口利きか、父である白河法皇の力だった

清盛「平家にあらずんば人にあらず」の権勢を確立
 ☆平忠盛の死後、清盛は伊勢平氏の棟梁となった
 ☆「保元の乱」皇位継承問題等をめぐる争い
 *朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、武力衝突となった
 *清盛は乳兄弟だった崇徳上皇側につくと思われていたが
 *後白河天皇側に参戦し勝利、平清盛は朝廷からの信頼を得る
 ☆「平治の乱」で、源義朝を破り平氏の栄華が幕を開ける
 ☆清盛は武士としてはじめて公卿に列せられた
 *娘の徳子を高倉天皇の妃として入内させる
 *自らの勢力を拡大し、大政大臣にまでのぼりつめる
 *平氏はこの清盛の大出世により、栄華を極めた
 ☆清盛は、軍勢を率いて入京するや後白河法皇を幽閉
 *クーデーを起こし、軍事政権を確立した
 ☆徳子の子安徳天皇を擁して外祖父の地位を確立する
 *平氏の隆盛に貴族や寺社、そして多くの武士からも反発が起こる
 ☆源氏による平氏打倒の意気が高まっていく
 *そのさなかに、清盛は熱病に冒され、この世を去ってしまう
                     (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本史・意外な話』



平清盛は”白河法皇の御落胤”だった
『日本史・意外な話』記事より画像引用)

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