🌸津軽 信枚(のぶひら)(日本異人伝)
☆石田三成の娘・辰姫を愛した弘前大名
☆関ヶ原の戦い後、家康の養女・満天姫を送り込まれた
☆津軽家は、辰姫の子・信義を跡継ぎにした
⛳東照大権現とし家康が描かれる家康の画像、弘前東照宮にあった
☆中央に家康、左右には僧形の天海僧正と藤堂高虎が描かれている
☆関ヶ原の戦い後、家康の養女・満天姫を送り込まれた
☆津軽家は、辰姫の子・信義を跡継ぎにした
⛳東照大権現とし家康が描かれる家康の画像、弘前東照宮にあった
☆中央に家康、左右には僧形の天海僧正と藤堂高虎が描かれている
☆儒教学者外崎は津軽の人
*外崎の論文に拠ると家康の画像は、弘前の東照宮に納められていた
*弘前の東照宮は、幕末大きな借金を抱えた
*神社は丸ごとなくなってしまった
☆3人が描かれた絵の原図がどこにいったか不明
⛳秀吉に従属し津軽家、南部家から独立
☆絵がなぜ弘前にあったか
*二代藩主の信枚は天海の熱心な仏弟子であった
☆絵がなぜ弘前にあったか
*二代藩主の信枚は天海の熱心な仏弟子であった
*その縁で、弘前東照宮は「家康―天海―高虎」の絵を所蔵していた
*津軽信枚、キリスト教を捨て、天海に教えを請うたのだ
*津軽信枚、キリスト教を捨て、天海に教えを請うたのだ
*津軽信枚は、家督相続で揉めたが天海が信枚を支援してくれた
☆元々弘前の津軽家は盛岡の南部家の家臣だった
☆元々弘前の津軽家は盛岡の南部家の家臣だった
*信枚の父の為信、豊臣秀吉に従属し南部からの独立をかちとった
*津軽家の独立に世話を焼いてくれたのが石田三成だった
*津軽家の独立に世話を焼いてくれたのが石田三成だった
☆三成の娘・辰姫が信枚の正室に迎えられた
☆関ヶ原の戦いで、信枚は東軍につき、弘前5万石は安堵された
*結果、幕府は家康の養女の満天姫を津軽家に送り込んだ
⛳まるで「織姫と彦星」のように
☆お家の存続を考えるなら、辰姫は離縁、満天姫を大切にする
☆お家の存続を考えるなら、辰姫は離縁、満天姫を大切にする
☆信枚は辰姫と別れず、満天姫が正室になる
*辰姫は側室に格下げするに留められた
*辰姫は側室に格下げするに留められた
☆辰姫は、津軽家の飛び地がある上野国の大館に移住する
*信枚は参勤交代の折に、大館に滞在し、辰姫と会った
*まるで、織姫と彦星である
☆満天姫と辰姫、二人はほぼ同時に子どもを産んだ
☆満天姫と辰姫、二人はほぼ同時に子どもを産んだ
*幕府の威光から、当然満天姫の子を跡継ぎにするはず
*信枚は、辰姫が生んだ子に、藩主の座を譲る
*三成の血を引く信義を後継者にする
*三成の血を引く信義を後継者にする
⛳信枚はなぜこんな選択をした理由
☆江戸幕府はそれほど三成を忌み嫌っていなかった
☆江戸幕府はそれほど三成を忌み嫌っていなかった
*三成の嫡男、重家は命を助けられ、僧籍に入った
*三成が西軍の絶対的な主将ならあり得ない措置
*三成が西軍の絶対的な主将ならあり得ない措置
☆信枚は、よほど三成に恩義を感じていたのか
*三成の遺児の一人が、信枚に召し抱えられている
*信枚は幕府内で力のあった天海、藤堂高虎の支援を受けていた
*三成の血を引く男児を藩主となし得たのだ
*三成の血を引く男児を藩主となし得たのだ
☆一枚の画からは、そんな推測が読み取れる
(敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『THEMIS7月号』
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石田三成の娘・辰姫を愛した弘前大名、信枚
(ネットより画像引用)
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