慶喜

心意気
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藤堂高虎(上野東照宮・家康と高虎)

2021年06月29日 | 歴史
🌸藤堂高虎(上野東照宮・家康と高虎)

 ☆家康に全幅の信頼を得た築城の名手
 ☆外様大名ながら家康と来世にも繋がる主従関係を築き
 ☆上野東照宮の祭神にもなった男の生きざま

⛳秀吉に仕え慶長の役にも参戦
 ☆藤堂高虎は、滋賀県犬上郡の小領主の家に生まれた
 *父は没落していて、生活は農民同様だった
 ☆浅井長政に足軽として仕えた
 *姉川の戦いに参戦して敵の首級を挙げた
 ☆浅井氏が滅亡し浅井氏の重臣に仕えた
 ☆信長の甥の織田信澄の家臣になった
 ☆羽柴秀吉の弟・秀長に召し抱えられた
 *秀吉の四国攻めにも従軍し、功績で1万石を領した
 *九州攻めに参加して活躍し2万石になった
 *朝鮮へも出兵し、伊予国宇和島7万石の大名となった
 *慶長の役に参戦し、秀吉は彼を8万石の大名にした
 ☆秀吉没後は徳川家康に急接近
 *関ヶ原の戦いでは西軍諸将に対し寝返りの調略を行った
 *その功績を認められ、宇和島8万石を安堵した
 *新たに今治12万石が加増された
 *高虎は居城を今治城に定めて改築を行った

土木作業が好きで家康と馬が合った
 ☆高虎は外様ながら徳川家の重臣として仕え
 *江戸城改築にも功を挙げた
 ☆大坂の陣の活躍を受け加増され27万石大名となった
 ☆家康没後も徳川幕府からの信頼は揺るぎない
 *津藩32万石の大名となった
 ☆高虎が伊勢に領地を持っていたのは、西国への備えのため
 *家康は、徳川家の軍事は、先陣が井伊、次鋒が藤堂と定めた
 ☆西国から外様大名が攻めてきたら
 *彦根と津でがっちりと防禦しそこに尾張徳川家が加勢する
 *家康は、高虎を信用していた
 ☆家康と高虎は「馬が合う」主従関係であった
 *家康は高虎を譜代大名よりもかわいがり、高虎も家康を慕った
 ☆高虎は、築城の名手であった
 *町割と石垣や高さを重視する堀の造作が得意であった
 ☆家康も、利根川を大きく曲げ大規模な埋め立た
 *江戸の町の規模の大きくする土木作業を得意としていた
 ☆2人の信頼関係の根底に共通の趣味、話題があった

来世でも奉公のために改宗を
 ☆上野東照宮の祭神
 *今は、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
 *元は、徳川家康、天海僧正、藤堂高虎
 ☆上野東照宮は、高虎の藩邸内に高虎によって創建された
 ☆家康は死に際した家康は高虎を呼んだ
 *宗派の違うそなたとは、来世では会うことができないと言った
 *高虎は「来世も変わらず大御所様にご奉公する所存です」と答えた
 *別室にいた天海に頼んで、日蓮宗から天台宗への改宗した
 *その上で再度、家康の枕元に戻り
 (来世も大御所様にご奉公すると涙を流したという)
 ☆少し意地悪だが付け加えておくと
 *幕末の藤堂藩は、いち早く幕府を見限り、官軍への忠節を誓う
                     (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『THEMIS6月』






藤堂高虎(上野東照宮・家康と高虎)
(ネットより画像引用)

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