慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

世界史(宗教改革)

2017年07月07日 | 歴史
宗教改革で生まれた新しいキリスト教

教皇の権威への異議申し立てから生まれたプロアスタント
教会の腐敗や教皇への批判から始まった宗教改革
 ☆ドイツの神学者マルティン=ルターは、教皇贖宥状(免罪符)を販売したことを批判
 ☆スイスでは、カルヴアンは「人は神の救済を信じて規律正しい生活と職業にはげむべき」と説く
 ☆イギリスでは、国王と王妃との離婚問題
カトリック教会は、トリエント公会議で、体制立て直しを図り、対抗宗教改革を行った
宗教改革は、国際政治における主権国家体制の確立を後押しする
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています


宗教改革(『世界史(成美堂出版)』記事より画像引用)

ドイツの神学者マルティン=ルター宗教改革
サン=ピエトロ大聖堂の改修費を賄うためにローマ教皇贖宥状(免罪符)の販売を批判
95か条の論題を発表してた
 ☆「人は信仰のみによって救われる」と主張
教皇はルターを破門し、神聖ローマ皇帝カール5世の自説の撤回を求めた
ルターはこれを拒否したが、反皇帝派の諸侯や都市の住民、農民などの支持を得た
対立ののち、ルター派はアウグスブルクの宗教和議で公認されることとなった

スイスのカルヴアンの宗教改革
『キリスト教綱要』を著したカルヴアンの改革
人が救われるか否かは神によってあらかじめ定められているとの予定説を唱える
人は神の救済を信じて規律正しい生活と職業にはげむべきだと説いた

イギリスでは、王妃との離婚問題
ヘンリ8世は、首長法を定め、国王を首長とするイギリス国教会を成立させた



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世界史(ルネサンス)

2017年07月06日 | 歴史
西欧の文化を発展させたルネサンス

ヨーロッパはペストの大流行や飢饉、百年戦争などの戦乱で人口が激減
社会全体が危機的な状況から生まれた「再生・復興」の運動
ヨーロッパで展開した新し文化創造の運動をルネサンスという
 ☆「再生・復興」を意味するフンス語
新しい時代の幕開けを告げるものとなった
神(教会)を中心とした中世的な世界観からの解放
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




ルネサンス(『世界史(成美堂出版)』記事より画像引用)

人間中心の世界観を展開したルネサンスの知識人
その拠り所としたのが古代ギリシアとローマの古典
文献学的研究による原典の正確な理解を通して、人間性を磨き、教養を深めた
このような知的姿勢、または知的潮流を人文主義という

人々は生と死について深く考える
いかに生きるべきかを強く意識するようになった
神と人間の関係についても、新しい考え方を生み出していった
神中心の中世的世界観とは異なる、人間中心の能動的・世俗的な世界観が形成された

ルネサンスはイタリアの諸都市で始まった
フイレンツェの大商人メディチ家をはじめとする富裕な市民
 ☆パトロンとなって芸術家や学者を保護、のちにローマ教皇が学芸の保護者となった
レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロなどの天才が活躍した
イタリア以外では、商工業が発達したフランス、イギリス、ドイツなどにも広まった

ルネサンスは実用的な分野でも革新的な成果をもたらす
活版印刷術の発明や、火薬、羅針盤の改良・実用化
人類の歴史に大きな影響を与えた
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「赤鬼」井伊直政

2017年07月06日 | 歴史
おんな城主・次郎法師に育てられた井伊直政

家康につかえ、徳川四天王の一人として破竹の出世を遂げた
直政が、関ヶ原で迫られた人生最大の決断
天下分け目の関ヶ原、家康率いる東軍は誤算を抱えていた
 ☆徳川主力軍の秀忠が遅参
 ☆徳川勢力は、豊臣恩顧の武将中心で戦いをしなければならない
直政は、同士討ちの危険を顧みず、抜け駆けをし、徳川の戦いであることをしめした
直政の行為&徳川勝利により、その後の徳川の体制に大きな影響を与えた
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)








井伊直政(NHKBS番組『英雄達の選択』番組画面より画像引用)

井伊直政プロフィール
上野国高崎藩の初代藩主、後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主
遠江国井伊谷の出身だが、榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられている
 ☆家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている

井伊直政の関ヶ原の戦い
直政は、家康本軍に随行し、東軍指揮の中心的存在
直政は、諸大名を東軍につける工作を行い、多くの大名を西軍から東軍に取り込んだ
関ヶ原本戦では、先陣は福島正則と決まっていた
 ☆直政と松平忠吉の抜け駆けによる先陣で戦闘が開始された
 ☆抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦?
西軍敗戦決ったが、直政敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦った
 ☆直政、島津軍が撃った銃弾が右肘関節に命中し落馬してしまう
関ヶ原の戦い後、直政は戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力した
 ☆西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務めた
 ☆輝元からは、直政の取り成し、周防・長門の2ヶ国が安堵された事を感謝された

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世界史(三角貿易)

2017年07月05日 | 歴史
大西洋を舞台に三角貿易が成立

大航海時代以降、大西洋を挟んで行われた三角貿易
ヨーロッパで茶やコーヒーが普及し砂糖の需要が急増
 ☆ポルトガルが領有したブラジルでは、砂糖の原料サトウキビの栽培される
 ☆西インド諸島でもサトウキビのプランテーションが次々に開発される
酷使や疫病で激減した先住民に代わる労働力として、アフリカの黒人奴隷が使われた
 ☆イギリスやフランスから武器や日用品などがアフリカに輸出する
 ☆黒人奴隷が、カリブ海やアメリカ大陸に運ばれた
 ☆砂糖や綿花、タバコなどの国際商品がヨーロッパに送られる
大西洋を舞台とした三角貿易が活発に展開されるようになった
イギリスなどには富がもたらされ、アフリカ社会は大打撃を受けた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




三角貿易(『世界史(成美堂出版)』記事より画像引用)

産業革命の資金源となった三角貿易
三角貿易はイギリスやフランスなどに巨万の富をもたらす
巨万の富が、産業革命の資本となった

奴隷貿易によって荒廃したアフリカ
アフリカで成人男性の労働力減少
 ☆ヨーロッパの奴隷商人、奴隷貿易を経済的基盤とする黒人王国の奴隷狩り
西アフリカでは、黒人王国が奴隷貿易で栄えた
アフリカ大陸からアメリカ大陸に送られた奴隷は、1000万人以上と推定
アフリカ社会の健全な発展を妨げ、今日も続く低開発状況を生み出す


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「鎖国(明治政府の俗語)」と「海禁政策」

2017年07月05日 | 歴史
江戸時代『鎖国』はあったのか?

江戸時代初期、徳川幕府は外国との貿易を順次制限し日本人の海外渡航を全面禁止した
長崎を中心にオランダ・中国など限られた国とだけ交易していた
☆徳川幕府と交易を行い、その貿易で莫大な利益を得ていた!?
徳川幕府VSキリスト教
 ☆家光は、カトリック(ポルトガル)との貿易を止め、プロテスタント(オランダ)と貿易をする
 ☆カトリックは、キリスト教の布教活動が強い(南米のスペイン・ポルトガルの植民地)
オランダからの情報が日本の植民地化を救った!?
 ☆上海アヘン戦争の実情、アメリカの情報等、オランダ政府より伝えられていた
 ☆シーボルト事件(シーボルト、日本地図を持ち出しを不問にし、その後重要な情報を提供してくれた)
「鎖国=ネガティブなイメージ」だった江戸幕府に対する評価
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、番組BS11(尾上松也謎解き歴史ミステリー)、YHAOO知恵袋
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)












鎖国(尾上松也謎解き歴史ミステリー番組画面引用)

「鎖国」のイメージ
「鎖国」は、国境を閉ざして一切外国と関わらないイメージです
幕末頃になってから使われだした言葉です
徳川幕府が「鎖国します」なんて言っていない
学会でも、正式な呼称として「鎖国」ではなく「海禁政策」を使おうとの流れもあります
日本は鎖国していたのではなく、貿易を制限していました
日本は、密貿易も含めて外国との貿易や交流もありました
 ☆(オランダとは長崎)(清とは琉球)(朝鮮とは対馬)(アイヌとは北海道)で貿易
 
日本の海禁政策
貿易する国が限定され、外国人が出入りできる港も限定されていました
貿易する国(オランダ)は、独占的な利益を得ることができました
 ☆アメリカ・イギリス・ロシアとか指定外の国は、何回も通商要求をしてきました
「海禁政策」は、日本独自のものではなく、中国(清)が始めた政策です
 ☆中国は朝鮮が外国の文化をまったく受け入れませんでした
 ☆日本はオランダから様々な学問を「蘭学」と称して輸入します
 ☆外国の様々な情報を長崎経由で入手し、ペリーが来航することも事前に知っていました
広く外国と貿易すると、キリスト教は広まり、経済は外国の影響を受けます





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世界史(繁栄したスベイン)

2017年07月04日 | 歴史
ポルトガルのインド航路開拓に刺激されたスベイン

アラゴン王国とカステイリャ王国の合併で誕生したスベイン
 ☆グラナダを陥落させてレコンキスタ(イベリア半島の再征服)が完了
コロンプスが地球球体説を信じて西回りでのインド到達を目ざした
 ☆艦隊は大西洋を横断し、サン=サルバドル島に到達
 ☆ヨーロッパ人には知られていない大陸でアメリカと命名された
先住民の国家を次々に滅ぼし、スペイン中南米征服
 ☆コロンブスの探検以降、スベインは中南米への進出を本格化させた
 ☆コルテスが先住民の知らなかった馬と鉄砲を使いアステカ王国を滅ぼす
 ☆ピサロがインカ帝国を征服し、植民地化した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています


スペインの繁栄(『世界史(成美堂出版)』記事より画像引用)

マゼラン史上初の世界周航を達成
マゼランはスベイン王に援助を求める
西回りでモルッカ諸島に到達すべく出港
 ☆マゼラン自身はフィリピンでの現地人との戦いで戦死
彼の部下が喜望峰を回ってスペインに帰還した

スペインの中南米征服
征服者に先住民の支配を委託するエンコミエンダ制がとられる
先住民は大農場や鉱山で酷使されたり、伝染病で人口は激減
 ☆ヨーロッパからもたらされた天然痘
補う労働力として、アフリカから大量の黒人奴隷が輸入された

ボトシ銀山が発見される
大量の銀が生産されるようになり、スベインには巨万の富がもたらされる
これにより価格革命とよばれる物価の高騰がヨーロッパに広がった

東方との直接交易路ができた
交易の中心が従来の地中海交易から大西洋交易やインド洋交易に移る
リスボンやアントワープと大西洋沿岸の都市が国際商業の中心となる商業革命が起こった



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家康大敗北の戦

2017年07月04日 | 歴史
徳川家康(江戸幕府の祖は、野戦の達人)

家康が痛恨の大敗北を喫した戦、三方ヶ原の戦い
 ☆家康が九死に一生を得た負け戦
領国を素通りされることを恥と考えた若き家康が意地で始めた戦いだとされてきた
三方ヶ原の戦い
 ☆西上作戦を行う武田信玄に対して奇襲をかけようとした徳川家康
 ☆武田信玄は家康の考えを読んでいて、織田・徳川連合軍は信玄によって大敗する
敗北の要因
 ☆武田信玄の軍勢の数が多く、その多くが野戦を得意としていた
 ☆織田の援軍が少なかった事
三方ヶ原の戦いは、徳川家康にとって伊賀越えと並ぶ人生最大の危機でした
 ☆その後の家康の人生観に大きく影響した戦い
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)










三方ヶ原の戦い(NHKBS番組『英雄達の選択』番組画面引用)


武田信玄の西上作戦
武田軍は、兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始
武田信玄率いる約2万の本隊、青崩峠から遠江国に侵攻
途中、犬居城で馬場信春隊等と合流し、総計3万人の軍勢は武田氏の最大動員兵力です
徳川氏の動員兵力は最大でも1,5万人ほど
 ☆遠江国防衛のためには実際には8千人余しか動員できなかった
 ☆徳川・織田連合軍には互角の兵力があったとの資料も?
盟友の織田氏は、信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった

三方ヶ原合戦の経緯
徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の狙いは本城・浜松城であると考え籠城戦に備えていた
武田軍は、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を目指しているかにみえた
家康は、籠城策を武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、連合軍を率いて浜松城から追撃に出た
家康軍、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた
不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍
 ☆武田軍に撃破され、2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走
武田軍の死傷者2百人に対し、徳川軍は死傷者2千人で、有力な家臣、武将を失った
野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言える

武田軍、家康本人を討ち取ることはできなかった
家康の敗走と犀ヶ崖の戦い(徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められる
三方ケ原戦いでの敗走は、後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われている
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う
浜松城まで追撃してきた武田軍、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し引き上げた

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世界史(ポルトガルの繁栄)

2017年07月03日 | 歴史
インド航路の開拓で繁栄したポルトガル

ポルトガルは、香辛料など、東方物産の直接入手を狙った
ポルトガルのインド航路開拓は、東方貿易を一変させた
ヴアスコ=ダ=ガマが喜望峰をまわり、インド西岸のカリカットに到達
ポルトガルは、インド西岸のゴアを占領し総督府を置いた
 ☆マレー半島南西部のマラッカも占領、香辛料の産地、モルッカ諸島に到達
ポルトガルの東アジアでの勢力・影響力は拡大
イスラーム商人などに支配されていた香辛料交易の一角に加わった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』




ポルトガルの繁栄(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

「航海王子」の蒔いた種は、インド直航ルートの開拓へ
イベリア半島では、レコンキスタの進展
 ☆ポルトガル、カスティリャ、アラゴンの3王国が勢力を増していた
ポルトガルは、胡椒などの香辛料を直接入手と領地獲得で海外へ進出
ポルトガルでは、エンリケ航海王子が、アフリカ北西部の海岸などの探検を開始
王子は、航海士の養成所をつくって航海技術の向上を図る
王子は、その後のポルトガル航海事業の礎を築いた

東アジアでのポルトガル勢力拡大
ポルトガルは東アジアからヨーロッパにいたる直航ルートをつくりだした
ポルトガルはマラッカ占領後、明との交易を開始し、マカオに居住権を獲得
日本では、平戸を根拠地とした対日交易を開始した
首都のリスボンは香辛料をはじめとする東方物産の荷揚げ港として繁栄した



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世界史(大航海時代)

2017年07月02日 | 歴史
ヨーロツパ中心の世界を生んだ大航海時代

『東方見聞録』などに描かれた東洋の富にあこがれを抱いたヨーロッパ諸国
オスマン帝国の支配する陸路ではなく、大洋を渡って直接アジアを目ざした
イベリア半島から始まった大航海時代(ポルトガル→スペイン)
アメリカ大陸の「発見」と初の世界一周航海(マゼラン)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』




大航海時代(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

イベリア半島から始まった大航海時代
ヨーロッパ諸国は、東洋の富にあこがれ、又香辛料を入手するため、探検航海を試みる
ルネサンスを迎えていたヨーロッパ諸国
 ☆大航海時代を支える技術革新(天文学・地理学・羅針盤の実用化)
大航海時代の最初の主役は、スペインやポルトガルの王家
 ☆自国を、イスラーム勢力から奪還し領土拡大を狙っていたスペインやポルトガルの王家
ポルトガルの王子は、領土拡大に加え、アフリカ内陸部のイスラーム勢力を挟撃した
ポルトガル、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を回り、インド西岸のカリカツトに到達
香辛料をインド西岸よりポルトガルに持ち帰った

アメリカ大陸の「発見」と初の世界一周航海
スペインでは、イサベル女王が西回りでのインド到達を目ざすコロンブスを支援
コンブスは、大西洋を横断して現在のサン=サルバドル島に到達
コロンブスは同地を3回探検したが、最後までそこがインドの一部であると信じていた
スペイン王の援助を受けたマゼランの艦隊は、太平洋を横断してフィリピンに到達
 ☆帰港し、初の世界周航に成功した
航海の結果、大西洋、インド洋、太平洋を結ぶ新たな交易ルートが開拓された
それまでの地中海交易に代わって繁栄するようになった
交易ルートの開拓は、世界の各地域を、ヨーロッパに組み込んでゆくきっかけとなった




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徳川家康の『不死の道』『太陽の道』『北辰の道』ライン

2017年07月02日 | 歴史
世界遺産・日光東照宮の豪華絢爛な建築や装飾群

日光東照宮に神として祀られているのは徳川家康です
人としての家康は死んだが、「神」としてこの世に復活する!
東照宮建設は、生前、家康が遺言したものだった!
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、BS日テレ『片岡愛之助の歴史捜査』












徳川家康(『片岡愛之助の歴史捜査』テレビ画面より画像引用)


日光東照宮で徳川家康が後世に伝えたかった事
「眠り猫」の真意は、2つの意味があります
 ☆徳川家康を護るために寝ていると見せかけ、いつでも飛びかかれる姿勢をしている
 ☆平和な時代の象徴
眠り猫の真裏には雀(すずめ)の彫刻があります
 ☆猫が居眠りして雀と共存共栄しています
日光東照宮の建物には多様な動物が飾られている
 ☆その動物は平和の象徴
 ☆平穏な時代がやってきたことを表している

家康の埋葬場所『不死の道』『太陽の道』『北辰の道』
『不死(富士)の道』: 江戸城を守る線
『太陽の道』:陽が昇る方向を指し「太陽の道」徳川家の繁栄・再生を意味する
『北辰の道』:江戸城から北極星の位置に日光東照宮あり、江戸城からわかる

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世界史(大航海時代前のアメリカ大陸)

2017年07月01日 | 歴史
モンゴロイドが築いたアメリカ大陸の文明

アジアから移住してきたモンゴル系人種によりアメリカ大陸の文明が築かれた
大陸では、部族的な社会を形成し、狩猟や採集によって生活をしていた
トウモロコシ栽培で発展したアメリカ大陸の文明
 ☆メキシコ高原・中央アメリカ・アンデス山脈でトウモロコシを栽培
メキシコ湾岸地域を中心に成立したオルメカ文化
巨大なピラミッド型神殿をもつテオティワカン都市文明へと受け継がれる
大陸では、スペイン人のコルテスやピサロに征服されるまで独自の文明が発達した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』




アメリカ大陸(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

マヤ文明
都市文明は中央アメリカヘ伝わる
天文観測や精密な暦法で知られるマヤ文明が誕生
メキシコ高原と中央アメリカの文明はメソアメリカ文明と総称される
アステカ王国へと発展した

インカ帝国誕生
メキシコ高原からトウモロコシ栽培が伝わったアンデス山脈
精巧な土器や織物をもつチャビン文化が成立し、都市文明として発展した
大規模な灌漑設備がつくられてトウモロコシやジャガイモの栽培がアンデス山脈一帯に広がる
ボリビア高原に、ティアワナコ文明の都市が建設された
勢力を増したケチュア族がアンデス一帯を統一しインカ帝国を建設した
 ☆精巧な石工技術や数量を記録するキープ(結縄)などの文化を持った




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世界史(モスクワ大公国)

2017年06月30日 | 歴史
ノルマン人の移住とスラヴ化、モンコルの支配などをへてモスクワ大公国

ロシアに、スカンデイナヴィア半島から、ノルマン人の一派ルスがやってくる
ルスは、ロシアにノヴゴロド国を建国した
その後中心地が南に移り、キエフ公国がつくられ、次第にスラヴ化が進み領土が拡大
チンギス=ハンの孫に率いられたモンゴル軍が侵攻しキエフ公国を陥れた
ロシアは、キプチャク=ハン国の支配下に入った
モンゴルの支配下で力をつけたのがモスクワ大公国
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』、日本大百科全書
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




モスクワ大公国(『世界史(成美堂出版)』記事より画像引用)

モンゴルの支配下で力をつけたモスクワ大公国
水陸交通の要衝に位置したモスクワ大公国が力をつけた
モスクワ大公国は、クリコヴオの戦いでモンゴル軍を退け、モンゴルの支配に反撃を加えた
モスクワ大公国イヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚して皇帝を名のる
キプチャク=ハン国への忠誠を拒否した
イヴアン4世は農奴制を強化し、中央集権的なツァーリ体制を築き、ロシア帝国の基礎を固めた

スラブ民族
スラブ諸語を使う人々の総称で、ヨーロッパ諸民族中最大の民族集団
大部分はロシアをはじめとする旧ソ連諸国および東欧諸国に居住
地理的位置と言語の近親性の度合いに基づいて東スラブ、西スラブ、南スラブの3群に分類される
総人口は約3億
 ☆東スラブ(ロシア人約1,5億、ウクライナ人約5千万他)
 ☆西スラブ(ポーランド人約5千万、チェコ人約1千万他)
 ☆南スラブ(ブルガリア人、セルビア人1各々約1千万、クロアチア人5百万他)
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世界史(ヨーロッパで身分制議会成立)

2017年06月28日 | 歴史
議会政治の源流となった身分制議会

中世末期のヨーロッパでは、封建貴族の没落や教皇権が衰退し王権強まっていった
王権の強大化を恐れた貴族や大商人
 ☆王権を制限するため、身分制議会によって政治的発言権を獲得
身分制議会は、のちの絶対王政の下ではその政治的機能を制限されることが多かった
その後、三部会がフンス革命の発火点となるなど、絶対主義の抵抗運動と結び付く
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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出典、『世界史(成美堂)』






身分制議会(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

イギリスでの身分制議会の成立
12世紀ごろから王権が強まった
ジョン王は、フランスとの戦争に敗れ、大陸の領土を失い、国内で重税を課した
怒った貴族たちが、王権の一部を制限することに成功
次の王がこれを無視したため、貴族たちが反乱を起こした
身分制議会のモンフオール議会を設置することに成功

フランスでの身分制議会の成立
王権の基盤を強化するため、王自身によって身分制議会が招集された
教会領地への課税をめぐって、王は国民の支持を得て王権を強化するために三部会を招集
三部会の支持を得て、教皇を襲撃拉致するアナーニ事件を起こしている



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世界史(西ヨーロッパ封建社会)

2017年06月27日 | 歴史
荘園制の解体で崩壊する封建社会

荘園の経営で支えられていた西ヨーロッパの封建社会
11世紀西欧世界の社会秩序は、封建社会であった
ゲルマン社会の従士制と古代ローマの恩貸地制が結合した封建制
 ☆王君は臣下に土地を与えて保護下に置く
 ☆臣下は主君に忠誠を誓う、騎士として、軍務を負った主従関係
制度は、授封された者が土地の一部を従者に与えることで重層化していった
封建貴族や、土地を寄進された教会などの経済的基盤は、荘園制によって支えられた
領主は所領に農奴を抱え、農奴は、生産物の一部を領主に納める
農業の発達により荘園制度解体し封建領主没落
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』




西ヨーロッパ封建社会(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

三圃制農法の普及(農業技術の発達)
農業技術の革新により、農業生産力が飛躍的に向上した
余剰生産物は定期市などで交換されるようになる
貨幣経済を発展させる一方、農民は富を蓄えるようになった

ペストの流行や飢饉によリヨーッパの人口は激減
労働力不足に見舞われた領主は、農民に対する支配を緩める
農奴は、蓄えた富を領主に支払うなどして、農奴的支配から解放された自営農民の出現
支配を強化した領主に対しては、農民一揆が起こされた
荘園制という経済的基盤が解体されるにしたがい、封建領主たちは次第に没落の道を歩む

封建領主没落
中世封建社会は、13世紀ごろから揺らぎはじめる
原因は、傭兵や火器の普及による騎士の没落や、十字軍遠征での教皇権の失墜
王権の強化、貨幣経済の発展による都市と商人の台頭
最大の原因は封建社会を支えた荘園制の解体
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世界史(十字軍の遠征)

2017年06月26日 | 歴史
背景と思惑がからんだ約2世紀にわたる十字軍遠征

西欧世界は、農業生産力の向上により人口が増加し商業も発達しはじめた
 ☆聖地巡礼が行われるようになった
東方の聖地エルサレムはイスラーム教の聖地でもあり、セルジューク朝が支配
イスラム教のセルジューク朝に脅成を感じたビザンツ皇帝
 ☆ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた
ローマ教皇は会議を開いて十字軍遠征を提唱
教皇の呼びかけで、諸侯や騎士たちからなる第1回十字軍が出発
第5回十字軍で一時聖地を回復したものの長続きせず十字軍は失敗
参加した諸侯や騎士の多くが没落し、中世封建社会を揺るがす
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂)』








十字軍遠征(『世界史(成美堂)』記事より画像引用)

聖地奪還という大義の下に集まった十字軍
関係者の思惑・目的は、さまざま
 ☆東西両教会統一を目ざす教皇
 ☆武勲や戦利品を狙った諸侯や騎士、
 ☆商業権拡大をもくろむ商人
第1回十字軍は、聖地奪還を遂げ、エルサレム王国を建設した
 ☆その後イスラーム教徒たちが勢力を盛り返す
第2回十字軍が遠征を行うが失敗
第3回十字軍遠征では、講和条約により巡礼者の安全だけは確保された

十字軍遠征の失敗
第3回を頂点に、その後の十字軍は劣勢に転じた
第4回十字軍は、ヴェネツィア商人に利用された
 ☆ビザンツ帝国の首都を占領してラテン帝国を建てるなど目的ら逸脱した
第5回十字軍で一時聖地を回復したものの長続きせず十字軍は失敗

中世封建社会の動揺
十字軍の失敗により、教皇の権成が失墜
参加した諸侯や騎士の多くが没落し、中世封建社会を揺るがす
兵士の輸送などを行ったイタリアの港湾諸都市の商人が、東方交易を独占



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