人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

百物語/食後しばらくして……

2010-03-24 02:08:19 | 百物語
その夜のことを思い出すと、私はいまだに奇妙な気分になる。その種の体験を頻繁にする人なら、合理的な解釈がしやすいのだが、気質的にも体質的にも、私はそういうタイプではない。
――その日はふつうに仕事から帰ってきたのが夕方近くで、私はすぐに風呂に入った。一日の仕事としては楽なほうで、身体に疲れを覚えることもなく、風呂から出ると自室で雑用をした。やがて七時になり、私たちは夕食をとった。――私たち夫婦の生活は、とくべつ規則正しいというわけではないが、夕食を七時にとることだけは、なぜか律儀に守られていた。食事をしながらビールを飲むこともあるが、毎晩ではなく、このときは何も飲まなかった。

七時半過ぎには食事を終えて、私はそそくさと自室にもどった。そしてテレビをつけ、聞き流しながらパソコンに向かい、あるいは仕事の書類に目を通したりしていた。要するに、いつもとまったく同じ夜を、何の変哲もなく過ごしていたのである。

ところで、私の仕事は建築業であるが、自営でお客さんと直接接触して、注文を受けて現場の工事に入るというやりかたをしている。問い合わせがあると下見に出かけ、見積書を作成して提示し、返事を待つ。そういうやりかたで、もう5000件以上の現場を経験している。
さまざまな段階で、複数のお客さんと連絡をとる必要があり、同時進行でそれらをこなすことになる。お客さんのほうから連絡が入る場合もあるし、頃合いを見計らって、こちらから連絡を入れる必要もある。

さてその夜、私はそのようなお客さんの一人に、見積内容の説明をするために、電話をすることにした。タイミングとしては、お客さんのほうでも私からの連絡を待っているはずだった。そのお客さんは電子メールが使えなかった。
私は受話器を手にし、プッシュボタンを押した。そのとき私は、時計を見なかったが、夕食を終えてからの時間経過は、感覚として一時間くらいのものだったので、やや遅いけれど、失礼にはならないと考えた。
ちょっと長いくらいのコールがつづき、戸惑うような声が、静かに応答した。その声は私が知っているお客さんの声に違いはなかったが、どこかおかしい。
――それでも私は、はじめのうち気にせずに、見積内容の説明をした。そして説明をしながら、ふと首を曲げて壁掛け時計を見上げたとき、私は凍りついた。午前二時に近かったのである。




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