コスモスの花(東京都小金井市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、他人は信頼しておくに越したことはありません。
もちろん、明らかに信じてかかってはいけない人はいますし、
騙すことや利用すること、自分の都合しか考えないことを平気でやる人もいます。
だからこそ、人を疑ってかかる姿勢や、本性を探る眼力を養うことも大切なのは間違ってはいません。
それでも。
やっぱり、人は「信じられる」ことで、応えてくれるものではないか、私はそう思うのです。
たとえば、頼み事をしたとしましょう。
でも、頼み事の中には、本当にやり遂げてくれるか、心配な時もありますよね。
人柄にしろ、能力にしろ、「できる可能性」が低いほど、気が気でないこともあると思うんです。
そうすると、心配になる気持ちから、頻繁に様子を探ったり、口をはさんでしまうようにもなるわけです。
ところが、この「心配な気持ち」が、可能性そのものを狭めてしまうことが、実はままあるのです。
逆の立場で、考えてみましょう。
皆さんが何か頼み事をされたとして、しつこいくらいに「大丈夫?」と聞かれたら、
気が散るわ、やる気がなくなるわで、
やる気をなくしてしまいこそすれ、意欲的になることは、まずないと思いませんか。
あるいは、疑いの目を向けられるからこそ信頼の無さや可能性の無さが浮き彫りになるわけで、
そうなると、やれることも出来なくなってしまうわけです。
逆でもそうです。
口だけでも、「心配してないからね、大丈夫だよ」と任せてくれたら、
「ああ、自分を買ってくれてるんだ。嬉しいな、がんばろう」と、前向きな気持ちもわいてくるというものではないでしょうか!?
私達は、人のこととなると、つい疑ってかかったり、多くを求めてしまいがちです。
もちろん、それは間違ってはいません。
究極的には、自分のことでも信じられるかがわからないのに、自分以外の人を信じるなんて、とても難しいことのハズ。
本音を言えば、誰だって人の粗は気になるし、もう少し他人を思うようにできたらとも思うものです。
しかし。
人を疑えば疑うほど、相手の応える気も削ぐことになる、これは動かざる真実です。
そもそも、1mmでも期待や信頼ができるから人を買うわけで、
だとしたら、疑う時間ばかりでなく、信じる時間があってもいいハズです。
オーバーに言えば、たとえ問題の多い人でも、あたかも「問題がない人」という前提で接してあげれば、
本当に問題行動もなくなる可能性だって上がるのです。
疑うことで得られることは、たしかにあります。
しかし、疑うことで失うこと、信じることで得られるものがある、
こういう見方も、時には必要なのではないでしょうか!?
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、他人は信頼しておくに越したことはありません。
もちろん、明らかに信じてかかってはいけない人はいますし、
騙すことや利用すること、自分の都合しか考えないことを平気でやる人もいます。
だからこそ、人を疑ってかかる姿勢や、本性を探る眼力を養うことも大切なのは間違ってはいません。
それでも。
やっぱり、人は「信じられる」ことで、応えてくれるものではないか、私はそう思うのです。
たとえば、頼み事をしたとしましょう。
でも、頼み事の中には、本当にやり遂げてくれるか、心配な時もありますよね。
人柄にしろ、能力にしろ、「できる可能性」が低いほど、気が気でないこともあると思うんです。
そうすると、心配になる気持ちから、頻繁に様子を探ったり、口をはさんでしまうようにもなるわけです。
ところが、この「心配な気持ち」が、可能性そのものを狭めてしまうことが、実はままあるのです。
逆の立場で、考えてみましょう。
皆さんが何か頼み事をされたとして、しつこいくらいに「大丈夫?」と聞かれたら、
気が散るわ、やる気がなくなるわで、
やる気をなくしてしまいこそすれ、意欲的になることは、まずないと思いませんか。
あるいは、疑いの目を向けられるからこそ信頼の無さや可能性の無さが浮き彫りになるわけで、
そうなると、やれることも出来なくなってしまうわけです。
逆でもそうです。
口だけでも、「心配してないからね、大丈夫だよ」と任せてくれたら、
「ああ、自分を買ってくれてるんだ。嬉しいな、がんばろう」と、前向きな気持ちもわいてくるというものではないでしょうか!?
私達は、人のこととなると、つい疑ってかかったり、多くを求めてしまいがちです。
もちろん、それは間違ってはいません。
究極的には、自分のことでも信じられるかがわからないのに、自分以外の人を信じるなんて、とても難しいことのハズ。
本音を言えば、誰だって人の粗は気になるし、もう少し他人を思うようにできたらとも思うものです。
しかし。
人を疑えば疑うほど、相手の応える気も削ぐことになる、これは動かざる真実です。
そもそも、1mmでも期待や信頼ができるから人を買うわけで、
だとしたら、疑う時間ばかりでなく、信じる時間があってもいいハズです。
オーバーに言えば、たとえ問題の多い人でも、あたかも「問題がない人」という前提で接してあげれば、
本当に問題行動もなくなる可能性だって上がるのです。
疑うことで得られることは、たしかにあります。
しかし、疑うことで失うこと、信じることで得られるものがある、
こういう見方も、時には必要なのではないでしょうか!?