ビョウヤナギの花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「幸せをお祈りしています」。
こんな言葉を聞いて、「ウソつけー」という気分になったことのある方、いらっしゃいますか!?
なんだかキレイゴトっぽいし、人のことを考える余裕は、現実にはそうそうありません。
だから、素直に受け取れないのも、無理のない話かもしれません。
ところで。
ちょっと話の流れとは矛盾するのですが、
皆さんは、誰かの幸せを祈ったことはあるでしょうか。
親しい人や好きな人、身近な人のことを考え、「〇〇さんが幸せでありますように」と、思ったことはありますか。
なんでこんな話をしたかというと、「人の幸せを祈っている時の心境」を、少しだけ考えていただきたかったからです。
おそらく、人のことを思っている時、心は穏やかになると思います。
もちろんこれは、宗教的な意味、つまり神様や仏様が心を鎮めてくださるということもあるでしょう。
でも、それ以外に、人の幸せを考えるということは、自分の中の汚い気持ち、たとえば我欲とか劣等感などを薄め、忘れさせる面もあるのではないかと、私は思うのですね。
他にも理由はあります。
冒頭で「人の幸せなんか祈れるわけがないじゃん。ウソつけー!」と書きましたが、
自分からすすんで人の幸せを願うことで、人をうたぐってかかる気持ちも減ってくるのです。
なぜなら、自分が実際に「ありえないこと」をやっているからです。
自分ができることなら人にもできるし、「やってくれていてもおかしくない」と思えますよね。
だからこそ、人の幸せを祈ると、「誰かも自分のことを考えてくれているのかも」という発想が出てくるようになるわけです。
世の中、汚い心を持った人は多いもの。
そうでなくても、「旅の恥はかき捨て」と言われるように、
人間、赤の他人に対しては、結構冷淡だったりします。
そうすると、「社会は汚いし、冷たい」とか、「どうせ自分は誰にも相手にされない」などと、
、世の中を信じられなくなるとか、精神的に引きこもってしまうようになるのです。
でも。
人の幸せを願っている存在もいることを知れば、この世の中も、なまじっか捨てたものではないと思えるようになってきます。
そして、その第一歩は、自分で踏み出すこともできたりするのです。
抜き差しならない時に人の幸せを願うのは大変なことですが、
まずは、気が向いた時から、そういう意思を持つ意味はあると、私は思うのですね。
はじめの一歩は、形だけで構いません。
「人を幸せに」というベクトルは、最終的に自分をも救うのは、間違いないのです。