道端鈴成

エッセイと書評など

糸瓜忌

2007年09月23日 | 言葉・芸術・デザイン
評伝などを読むと正岡子規は、なかなかに愉快な人物だったらしい。やたらと人を指導するのが好きで、漱石が英文を書いて子規に見せると、英語は弱いくせに、兄貴風はふかせたいで、Very Gooodと朱で書いたとか。松山に赴任していた漱石の家にいったとき、ちゃっかり、漱石のつけで、ウナギをとって平らげていたとか。まあ、それを面白そうに書く漱石も漱石だが。

子規は、俳句作者としてよりも、俳句運動の組織者としての貢献の方が大きい。俳句の分類作業など、情報の組織化については先見性と実行力を兼ね備えている。批評家としての眼識も確かだ。そして、リーダーとして才能のある人々を組織する能力がある。根岸の子規の病床が、俳句運動の中枢となりえたのは、こうした子規の才能と俳句革新にかける情熱によったのだろうと思う。

「墨汁一滴」「病床六尺」などの随筆は、病床で俳句運動を指導する子規の眼がとらえた日々の記録である。子規は、肺炎が脊椎に転移して、脊椎カリエスになっていた。しかし、脊椎カリエスのひどい苦痛にさいなまれながら書かれた子規の文章には、湿っぽさや、愚痴っぽいところはまったくない。寝床に金魚鉢を置いてもらい「痛いことは痛いが綺麗な事も綺麗じゃ」と書き、日々の食事を事細かに書いている。そこには、苦痛を苦痛としてとらえながらも、好奇心を失わない快活な子規がいる。

九月十九日は正岡子規の命日だった。病床の子規が庭を眺め、句のテーマとした糸瓜にちなんで糸瓜忌とよばれる。子規がなくなったのは、暑い夏が過ぎて、ようやく秋の気配が漂い始めた頃である。子規の最後の日記は、九月十四日の朝というタイトルで、不思議な清澄感のただよう文章である。以下に終わりの部分を引用する。

「虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひら/\と動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病氣を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。」