オホーツク海を目の前にした北浜駅、オホーツク海と空の青が目にしみますね。
駅舎は比較的原型を残しているもの鉄道風喫茶店が執務室を改造して営業してて、その無神経な改装ぶりには閉口してしまいます(私が訪問した時間は開店前でしたが)。
TOPの写真は
●1面1線の駅ですが昔は貨物用の引込線があり混合列車の機関車が入替も行っていたのですね。
●待合室の中は…なんだこりゃ、千社札か。個人情報とも言える名刺や定期までありました。
●6月末の北海道…いい季節ですね。キハ40も清清しそう。
●キハ54もきます。C58が入ってきそうな錯覚にとらわれてしまいます。
●オホーツク 海をバックに出発準備の40
●駅舎、外観は国鉄時代を彷彿させるものがありますが…道の駅と間違えてる人も多いようです。
6月下旬に烏山線に乗ってきました。この線は非電化なのに電車が自力走行で走る珍しい区間です。
電化区間で蓄電池に充電し非電化区間では充電した電気で走るのです(まだ気動車の方が多いです…実験段階か車両不足かは存じませんが)。
烏山駅では充電用の架線がありました。写真はキハ40、何故か国鉄カラーになっていて一瞬40とは気がつきませんでした。
烏山の駅員さんに蓄電池電車の事で質問をしたら運転士さんにワザワザ聞きに行って下さいました(私もついて行きました)。
質問内容は「架線の無い区間で何らかの事情により長時間停車し冷房装置等に電気を大量に消費されてしまったらどうするの?」なんですが、運転士さんは「総合指令所の判断によるんだろうなぁ~」と回答して下さいました。また非電化区間に入る時は蓄電率が90%ないと入らない事も教えて頂きました。駅員さん、運転士さん、私の疑問いや愚問に回答頂き有難う御座いました。
烏山駅から少々離れた所に鮎屋さんがありました。木製引き戸と店内の設備が長い期間使われている私好みのお店でした。 お店の中を見学したかったのですが…私が鮎を買うはずもなく…ただの冷やかしになってしまうので外からの写真撮影だけとさせて頂きました。
烏山で「おとり鮎」を買われる方、是非ここで買ってあげて下さいね。
6月下旬に北海道を大人の休日倶楽部キップで訪問した時、遠軽にもお寄りさせて頂きました。
ここにお住まいの方には失礼な話かもしれませんが、もしかしたら…ここが日本の最果ての街なのかと思う私です。
嘗ては名寄本線経由で名寄に、勇網線経由で網走に行く事も出来その分岐駅でもありました。遠軽は鉄道が敷設された順序より現在の駅の場所が決まり廃線が進み今日では意味不明とも言えるスイッチバック駅となりました(苦笑い)。
旭川から遠軽への道のりも結構厳しく蒸気機関車時代の苦労が偲ばれます。この途中駅などは一日数本しか列車が止まらないようですね。これを秘境駅と喜ぶマニアもいるようで…確かに民家など見当たりませんでした。
この途中駅もタブレット閉塞・テコによる分岐機の操作の時代は駅員が常駐し腕木信号も操作されていたのですね。夜行急行「大雪」がオロハネ10をつないでこの駅を通過し駅員さんのタブレット扱いがキビキビと行われていたのは遠い昔になってしまいました。
遠軽の公園に静態保存されているD51、デフのマークが邪魔ですが…しかし半戦時型のD51が保存されているのは初めて拝見致しました。もしかしたらギースルエジェクタのD51も探せば見つかるかも(私はギースルエジェクタのD51は現役時代に室蘭本線で1回見ただけです)。
遠軽に郷土資料館があり「遠軽共同軌道」というナローの森林鉄道があった事を昔の地図で知りました。残念ながら、その詳細は知る事は出来ませんでした。
遠軽は開拓移民の街だった事やハッカの栽培が行われていた事なども知りました。内地から移民を誘致する際に住宅付きとの事でしたが竹+藁の小屋で雨漏り多数だった事も教えていただきました。移民の方々が瞰望岩を心の支えにし開拓され今の遠軽の街がある事もね(資料館の方が館内を案内して下さいました。大変恐縮です)。
2枚目の駅の案内の写真は資料館にあったものなんですよ。そして遠軽に限った事ではありませんが、こんなラジオで放送を聴いておられたのですね。どんな放送内容だったのでしょうか?