萩上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』~表現方法の工夫~

2012-07-09 18:27:45 | 本関係

人がある事柄(特に悲劇)を教訓として心に留めるのはどんな時だろうか?
と考えて見るに、その事と、それへの対応の失敗が構造的必然を持っており、自分にも起こりうると感じた時だけではないだろうか(「ヒトラー最期の12日間」、「es」、「THE WAVE」、「沙耶の唄」といった作品群はそれをもたらしうるため、しばしば取り上げている。またこのことは、「嘲笑の淵源」、「『空気』、合理性、ポピュリズム」で言うような「埋没でもなく、嘲笑でもない」姿勢の話へと繋がる)。さもなければ、その事柄は単に愚者による愚行として、(自己とは無関連化された)嘲笑の対象にしかならないように思われる。では、他者に教訓を届けるにはどのような手法が有効だろうか(「『空気』、合理性、ポピュリズム」)。その一つの答えとして、今回は萩上チキの「東日本大震災の流言・デマ」を取り上げてみたい(なお、ここでの趣旨に外れるので細かい内容面に踏み込むことはしない。興味のある方は各自原書にあたっていただきたい)。

 

さて、この本の構成は、

序章:なぜ、今、流言研究か 

一章:注意喚起として広がる流言・デマ

二章:救援を促すための流言・デマ

三章:救援を誇張する流言・デマ

四章:流言・デマの悪影響を最小化するために

となっており、序章で方向性を示し、一章では「デマの心理学」などを取り上げ一般的傾向に言及した上で、各表題の特徴をもった流言・デマがどのような内容で、どのように生まれ、そして収束していったかを紹介している。そして最後に、英米圏や中国・フィリピンなどのアジア諸国で生まれた震災・放射能に関する流言・デマを紹介しつつ、今後の対策を述べて終わっている。

 

このように書くと、別段特徴らしい特徴もないように見える。しかし、私が興味深いと感じたのは

(1)あくまで実際に被害や問題が生じたことの解決策を模索しており、背後にあるメンタリティの善悪評価に禁欲的であること
(2)流言・デマの多くが善意に基づいた行為であることに言及していること
(3)海外の流言・デマも取り上げて日本特殊論を回避していること

の三つだ。例えば(1)(2)の効果としては、構造的必然を示し、(対象が愚かであるがために愚行に走ったのではななく)自分にも起こりえると読者にも感じさせる、といったことが挙げられるだろう。またチェーンメールの送信と類似の行為を実際にしていた人たちが、「あの時は必死だったから」と不快に思い、内容面に目を向けなくなるのを防ぐ働きもあるのではないだろうか(もちろん著者は、「善意に基づいた情報がマイナスの結果につながってしまって残念だ」などとただ言うようなことはなく、「善意」の裏に潜む外国人への偏見や差別をきちんと指摘してもいる)。また(3)については次のような効果が考えられる。もし仮に流言・デマの広まり方、すなわち情報の裏を取らずどんどん拡散・誇張していく様をただ書いてしまうとどういうことが起こりえるだろうか?なるほどそれは「中立的」な書き方ではあるかもしれないが、たとえば極端な話、「ムラ社会的なウワサの作法をもって、システムやテクノロジーの複雑化した社会で振舞う愚かな日本人」といった具合に特殊化され、嘲笑する(だけの)人間を少なからず生み出してしまう危険性がある。他国でも類似の現象が起こっていると指摘するのは、そういった無害化・風景化を防ぐことにつながるだろう(まあこれは閉鎖空間の自己正当化としてしか機能しない場合もあるだろうが)。

 

まとめよう。
今回の震災については、多くの人が何かせねばという気にかられていたように見える。ただ、それが状況をよく吟味してはおらず、単に「ノリ」に基づいた行き当たりばったりのものになっていて、様々なマイナスの結果を生ぜしめてもいた・・・というのが実態(のよう)である。とはいえそれをただストレートに指摘するだけでは、一方で(嘲笑による)思考停止と、もう一方でその反発として日本をただ肯定するような(別種の)思考停止を招来してしまうだけになるだろう。要は、「特殊日本論―嘲笑VS自己防衛―埋没」といった正反対の、しかし中身は同じ「無害化→ノイズ排除=異論の排除」というベクトルに陥らせないようにするためにはどうすればよいか?という厄介な問題があったわけだ(誰に言説を届けるのか→「告発のとき」、「ひぐらし祟殺し編」)。

 

もちろんそこから、二項対立的(思考停止)状況自体を変えるだとか、報道の側が信用されていないことが問題だといった視点も出てくるだろう(前者のベクトルがなければ、結局ポピュリズムのサイクルから逃れることができなくなる。また後者は実際クロスオーナーシップと記者クラブ制度の弊害があり、そこから報道内容の隠蔽・均一化といった事態も生じている)。しかし、それに2011年5月までの段階で触れるのは難しかったのも事実だろう。というのは、安易に信用すべきというようなことを言えば、「マスゴミの味方」として内容の吟味をとばして風景化されかねず(=届かない)、またマスコミを批判したら、今度は「やっぱり信用ならないんだ」としてネットコミュニケーションに安易に流れる結果を生み出しかねない状況にあったのではないだろうか(まあ結論としては「鵜呑みにするな」以外言いようがないとも思うのだが)。その意味で、著者がかなり慎重にマスコミの問題を扱っているのは賢明であったと言えるだろう(またこのような特徴[or配慮]は、「ウェブ炎上」でネットにおける言論の動き方に関する本を書いた著者ならではとも言えるのではないだろうか)。

 

以上のような点において、「東日本大震災の流言・デマ」の表現方法は、一つの戦略として参考にすべきものだと思うのである。


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