バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』:勤労・勤勉という呪いからの解放

2024-07-13 12:10:19 | 本関係
今回紹介する『怠惰への讃歌』はイギリスの哲学者ラッセルが1932年に著したエッセイであり、原題もIn Praise of Idlenessとなっている。
 
 
さて、ラッセルの箴言に満ち満ちている『怠惰への讃歌』だが、「怠惰」と聞けば怠けること=労働しないことだとまずは想像するかもしれない。しかし実際に彼が訴えたのは、「勤勉・勤労という呪い」からの解放である。両者の間に産まれる「錯覚」はおそらくラッセルの意図したものであり、1932年という時代においては強烈なインパクトを持ったのではないか。
 
 
というのも、1800年代における欧米での産業革命の広がり(それは後の帝国主義へと繋がるわけだが)、1920年代の大量生産と低価格化を可能にするフォード式の発達、あるいは同時代におけるナチズムやスターリニズム=全体主義の台頭(実際本書の翌年1933年にヒトラー政権が誕生する)といった状況において、たとえ投獄されてもなお反戦の意思を貫いた哲学者が、わざわざ「怠惰」を称賛するとはいかなる意図か?と耳目を集めたと思われるからだ。
 
 
もちろん、当時の視点からしても、「文明の発展」の先に生じた第一次世界大戦という未曽有の惨禍(1000万弱が死に、3000万弱が負傷)を見てシュペングラーは『西洋の没落』を著していたし、また(戦場にならず欧州への債権国として)資本主義が大いに発達して「永遠の繁栄」を自負したアメリカの大量生産の結果が1929年の世界恐慌を惹起した(それは皮肉にも欧州の復興とも関連している)という認識を持っていたならば、近代国民国家や資本主義社会というものへのぼんやりとした疑問を抱いていた人はいただろう。
 
 
しかし、それを直接的な政策論ではなく、そもそも人間存在の生き方という原点にまで立ち返って社会のあり方への疑問や提言を滔々と述べる、というパースペクティブで書かれた本書は、違和感を言語化し、自らやその社会を振り返る契機を提供してくれたのではないか(ちなみに、ドイツの勢力拡大を通じて当時最も「文明が発達」していたはずの欧州でナチズムの嵐が吹き荒れ、その病理の構造を分析した『自由からの逃走』『啓蒙の弁証法』などが著されることになる)。
 
 
・・・とくだくだしく述べてきたが、この書で言うところの「怠惰」は、繰り返しになるが「勤勉・勤労という呪いからの解放」である。この「呪い」については、ウェーバーの著名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であるとか、フーコーの『監獄の誕生』などで近代資本主義のシステムやその病理が様々説明されてきたので、ここでは繰り返さない。
 
 
とはいえ、『怠惰への讃歌』からはすでに100年近い時が経っており、今もなお通じる問題設定・提言なのだろうか?私はむしろ、今の方こそいっそうこの書の価値が高まっていると考える。
 
 
今日の社会は、東西冷戦も終わり後期近代(成熟社会)へと突入してAI(AGI)も日々高度化しているが、資本主義という名のシステムがあまりに複雑化・全面化した結果、かつてないほど社会は豊かになっているにもかかわらず、もはやそこから降りることが難しい巨大な「チキンレース」と化している。仮に自分が、自分たちが降りようと思っても、他の大多数はそのまま資本主義というレースを続けるため単に自分(たち)が置いて行かれる結果にしかならないし、ゆえに降りることの有効性も乏しく、これ以上高度化することの意味も価値もわからないままひたすら走り続けるしかない。
 
 
その難しさは、そこから「降りる」ような姿勢でさえ、「ロハス」のといった形で一つのスタイル(カテゴリー・消費形態)として取り込まれてしまう点に象徴される(この構造とそれへの無自覚な消費者たちの様を指摘したのが『反逆の神話』だ)。
 
 
このようにして、もはや資本主義社会や近代国民国家を駆動してきた勤労・勤勉のエートスはもはや自己目的化され、労働のための労働を作り出すことさえ行れるようになっているのであり、その病理を指摘したのが今は亡きグレーバーの『ブルシット・ジョブ』である。
 
 
そこで述べられた例とは異なるが、わかりやすい戯画的なものとしては、林立するコンビニエンスストアの様子を思い浮べることができるだろう。一体何の必要性があって、数百メートルとおかずにコンビニエンスストアが存在しているのであろうか?そこには群がるフランチャイジーと、それによって利益を得るフランチャイザーの構造があるが、そこには何らの社会的ニーズはないし、むしろかかる状態で人手不足だの過重労働だのが生じているわけだから、もはや社会的害悪にすらなっていると言えよう。
 
 
あるいは、数々の技術革新にもかかわらず、なぜ我々の労働時間は減らないのか?またなぜ「ワーキングプア」などと呼ばれる人々が大量に生まれるのか?こうした疑問を考えていくと、近代を駆動して社会を発展させてきた勤勉・勤労のエートスは、物が行きわたり成熟社会となった今日においては、もはや自家中毒を起こしつつあると言える(もちろん、この問題は数十年前にボードリヤールなどが指摘していたことではあるが)。
 
 
なお、このような自家中毒の様については、『映画を早送りで観る人たち』などで指摘されているように、娯楽の領域で考えた方がわかりやすい。近代社会と中間層の発達により、かつてはレジャーというものの過ごし方が問題になった時代があった。しかし今や、動画配信サービスなどによってその飽和状態はもはや誰の目にも明らかであり、今や貴族でなくとも、羽で嘔吐しながら美食に勤しむローマ時代の貴族がごとき娯楽の享受の仕方をするようになってさえいるのである。
 
 
しかも、だ。これだけ無限に思えるほどのコンテンツが世に溢れ、そのアクセスが極めて容易になりつつあるなら、自らの好きなものを全く自由に楽しめばよいはずである(流行がどうとか、周りの人間がどうとか、一体それが私に何の関係があると言うのか)。しかしながら、例えば「ファスト教養」などはそれは全く逆の発想と言える。それは対象物がビジネスや己の利益のため有用か否かという観点でのみ評価する姿勢であり、それもまた「勤勉・勤労という呪い」の一種と言えるのではないだろうか(ラッセルはかかる実用性のみに焦点を当てた学びや教育についても本書の中で批判的に取り上げている。これは今後書く予定の古典教育の記事でも触れる機会があるだろう)。
 
 
ラッセルの箴言は、彼の時代であったならば、貴族趣味のような牧歌的な印象をまだ残していたかもしれない。しかしながら、資本主義という仕組みが全面化し、かつ娯楽が氾濫して「情報のフォアグラ」とさえ表現されるようになっている今日こそ、むしろ誰にでも関わる話であるし、行き過ぎる資本主義やそれに付随する合理至上主義のような精神性を省みて歯止めをかける契機ともなるのではないかと思うのである。
 
 
以上。

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