ひぐらし崇殺し編再考~殺人の罪悪感が描かれない理由~

2009-02-20 19:28:32 | ひぐらし
前回の「戦闘力がテーマを挫折させる」において、崇殺し編では「殺人の否定」というテーマのためバッドエンドが採用されていることを作者コメントより確認する一方で、罪滅し編以降では戦闘力の描き方が(リアルなものからファンタジーへと)変化したため、鉄平殺しの重みがなくなり、「殺人の否定」というテーマが伝わりにくくなっていると批判した。


そこで問題にしたのは、作者言うところの「ルール」とも関係するひぐらし全体の連動性であり、これはこれで崇殺し編のお疲れ様会における人物設定に関する言及などを取り上げたり、かつての徹底した皆殺し編批判の記事と繋げていくなどまだまだ掘り下げるべきところが多い(後者に関しては「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」や「ひぐらしとオウム真理教」などを参照)。しかし今回は、その前段階として、崇殺し編における殺人否定に至る構造がそもそもどのようなものであったかを詳細に分析していくことにする。すでにテーマは明らかなので描き方を論じていくわけだが、逆に言えば、以下の内容は演出意図の分析であって個人的な価値観の表明ではない。そのことを念のためお断りしておく。


まず最初に言っておくと、崇殺し編において、圭一が鉄平の殺害に対して罪悪感を抱いている描写は管見の限り存在しない。それどころか、藍子(母親)に完全犯罪のヒントをもらった時は喜々として質問をし、また入江に犯行を告白する時も「後悔はない」と言い切っている。これらの描写からは、殺人をむしろ必要不可欠なものとして肯定しているかのような印象しか受けない(当たり前だが、これは圭一の話であって作者のことではない)。さらに言えば、終盤で沙都子に拒絶された時でさえも、彼は殺人という行為は間違っていたのだろうか、と自問自答するだけだ。他のシーンと併せて考えるに、この自問の根源にあるのは、「でもお前のためを思ってやったこと」「あれだけ必死の思いで準備して」「他にどうすればよかったっていうんだ…」といった感情、言い換えれば「自らの行為を認めてもらえない哀しみ」であって、殺人の罪悪感ではないとみなすのが妥当である。要するに、少なくとも圭一に関して言えば、殺人を肯定する言動・心理描写はあってもその逆は存在していないのである。


さて、具体例から以上のことが明らかになったわけだが、それにしてもこの事実は奇妙な印象を受ける(※)。なぜなら、「殺人の否定」というテーマを考えれば、殺人に対する罪悪感を繰り返し描写して殺人を思いとどまらせたり、成功しても苦悩する様を描くのが定石であるように思えるからだ。とするなら、次に考えるべきはなぜ罪悪感が描かれないのか、またそれによってどのような効果があるのかという問題に他ならない。よって以下、鉄平殺害の準備から雛身沢大災害までの描写を、それが初見のプレイヤーに与えると(作者によって)期待されている効果を予測しつつ、トレースしていくことにしたい。


北条家で見た鉄平の横暴な振舞、崩壊寸前の沙都子、それを助けられない(助けようとしない)周囲…そういったものをすでに見てきた圭一は、殺人という行為の必要性をまるで疑っていないし、鉄平を生かしておく価値があるとも思っていない。とはいえ、喧嘩慣れしている鉄平と「もやしっ子」に近かった自分では力の差が明らかな上、その制約の中で完全犯罪を行わなくてはならない。こうして圭一は、藍子に助言をもらうなどしつつ準備を進めていくのだが、プレイヤーが沙都子に同情する土壌は、手料理、悟史、鉄平の振舞、崩壊寸前の描写を通じてすでに整っているので(ドライだなあと思う人は「友情が生む「奇跡」と惨劇」へ)、圭一とともにプレイヤーのボルテージも上昇していき、鉄平殺しの場面で最高潮に達することになる(※2)。殺人までの流れは以上の通りだが、行為の迫真性を支えているのが罪悪感ではなく、リアルな戦力差とそれによる苦悩であることを改めて確認しておきたい(リアルと聞いて「人為100%」を想起する人は「人為100%で推理して失望した人へ」)。


話を戻そう。鉄平殺しを通じて高みに到ったその先には、幸せがあるはずだった。しかし鷹野の登場で早くも土台に亀裂が入り、それはレナや魅音の言動で増幅されるばかりか、幸せを約束するはずの鉄平殺しすら、成功したのかどうかわからなくなるという始末(沙都子の症状と園崎家による死体隠蔽がその真相だろう)。これはまだ違和感の萌芽でしかなく、殺人の否定には繋がらないのだが、さらにここで「呪い殺されろ」など圭一のパラノイア的言動に拍車がかかる(この呪術的な言動が、鉄平殺しに関わるリアリティと対照的であることに注目したい)。これら二つ、つまり現状への違和感と圭一の変容を前にしてプレイヤーは自然と彼から距離を取り始める。とはいえ、これは鉄平の殺害という行為そのものを否定する段階にはまだ到っていない。確かに圭一は明らかにおかしくなり始めているし、沙都子も救われていないが、そもそも鉄平が死んでいるのかどうかすら怪しい状況なので、プレイヤーもまるでわけがわからず(=「井の中の蛙」)殺人の是非などには考えが及ばない。


結局最後は、救うべき沙都子から否定され、突き落されるわけだが、これは単なる突き落しではなく、心理的なものでもあり、かつ滅びた雛身沢という地獄への誘いにもなっている。卑近な言い方をすれば「上げて落す」ということになるが、圭一の鉄平殺害に対する罪悪感が描かれず、殺人の準備を通じてひたすらボルテージが上がっていくという展開の演出的必然性はここにおいて明らかとなる。というのも、高ければ高いほど、落とされた衝撃が大きいからである。もし圭一が鉄平殺害に罪悪感を持ち、実行をためらうような描写を繰り返せば、鉄平の振舞に苛立ち沙都子を救いたいと感じているプレイヤーの中には彼を「ヘタレ」などと罵る人も出てくるかもしれないし、その描写をありきたりなメッセージと感じ、聞き流す人もいるかもしれない(「想像力の欠如:「ひぐらし」主人公の評価より」)。そういう人たちにもテーマを伝えるために、「あえて」罪悪感は描かず、むしろリアリティを土台として殺人に至るまでボルテージを高めていく。そして最高潮に達したところで今度は土台をぐらつかせ、最終的には、誰も救われていないばかりか、むしろ悲劇を増幅さえしたという現実(大災害)へ突き落し、プレイヤーに主張を押し付けるのではなく自分から考えるように仕向けているわけである。


このようにして、鉄平の殺害に肯定的な人たちにも、北風が旅人に行った如き愚を犯すことなく主張を効果的に伝えることを可能にしたという点において、崇殺し編の殺人に関する描写・演出は非常に優れたものであると評価することができるだろう。


(追記)
逆に言うと、プレイヤーに内省を促す演出の軸となる「上げる」部分がしっかりしていなければ「落とし」ても大した効果はないのであり。それゆえ戦闘力に関する批判が出てくるわけである。それに関しては、冒頭で述べたようにまた別の機会に掘り下げていくことにしたい。



ちなみに言っておけば、具体例に注目してでさえ様々な見方が生まれうることは「解釈の多様性」に書いた通りである。これは具体例を取り上げた時点ですでに嗜好やバイアスに支配されてるからに他ならない。これはイギリス経験論の行き詰まりの問題などと繋がるが、かなりしっかりと構築した自信のあるYU-NOエンディング批評(ネタバレ注意)でさえ完全だと言えないのはここに理由がある…とまあそれはさておき、具体例をもってしてもそのような事態に陥るわけだから、ましてやそれを元に考えないならば、そこに見えるのはただ自らを縛るところの様々なる意匠でしかないだろう。


※2
その時点で殺人に向かう圭一に否定的だったと反論する人もいるだろう。もちろん、誰もが圭一と同じように殺人を必要不可欠なものと認識していたとか、鉄平を殺すことに何の違和感もなかったはずなどと主張するつもりはない。というか、そういう人たちには崇殺し編のような搦め手はそもそも必要ない。なぜなら、繰り返しになるが作者のテーマは「殺人の否定」であるため、テーマに反発もしないであろう人たちに説得の(ための策を弄する)必要はないからである。

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