江古田ちゃん~「空気」、合理性、ポピュリズム~

2012-07-01 18:56:30 | 本関係

さてここまで「臨死!江古田ちゃん」で登場する「猛禽」を題材に記事を書いてきたわけだが、簡単に整理しておこう。最初の「『猛禽』と適応」では、「無害なる存在」を求める環境への合理的・戦略的適応であり、一方でその環境(作りに一役買っていること)に気づいていないベタでナイーブな男たちがいると書いた。その上で、「無害なる存在」を求める環境と「猛禽」のあり方が、「萌え」および「空気」の特徴と深く関係しているのではないか、と話し前者について「『萌え』、無害化、ノイズ排除」という記事を書いたのであった(それらに関する草稿は、「a rough draft about the story of Mis.Ekoda」としてまとめて掲載している)。そこで今回は、「猛禽」のあり方と「空気」の類似性・厄介さについて話していきたいと思う。

 

既述のように、「猛禽」とは「下手に自己主張するよりも、無害さを装って庇護された方が実りが多い」環境に適応をした女性たちの姿であると言える(正確には、そのように描かれている)。このような環境への合理的適応は、「空気」の特徴とも類似しているように思われる。私は「空気」に関する記事として主に「『調和』と『地雷』」、「精神主義という名の病」を書いたが、まずは前者に関連付けて話を進めていきたい。

 

「『調和』と『地雷』」で想定したのは、主に学校における人間関係であるが、私が主張したいのはおおよそ以下の通りである。

価値観の多様化という現実と「みんな仲良く」という規範の矛盾が、「友だち地獄」を招来しているのではないか?価値観が多様化すると共通前提・自明性が失われるため、かつてであれば「言わなくてもわかるでしょ?」で済んでいたことをきちんと説明する必要が出てくる(端的に言えば、「以心伝心」は通用しないということだ)。しかしながら、日本においては他者に向けて自らの文脈をきちんと説明するプレゼンテーションやディベートの習慣に乏しい。そうすると、「みんな仲良く」するためには、ごくわずかな上澄みの部分だけを持ち寄って、周りと合わせるしか方法がなくなる(むろん昔もそういう側面はあったろうが、規範と現実の乖離が甚だしくなり、その息苦しさが深刻になってきているということだ)。下手に自己主張しても「ウザイ自分語り」的なもの(?)とみなされがちで、また上澄みより深い部分に入り込もうとすれば「地雷」を踏んでしまうのでそれもできない、と(ちなみに私がここで言いたいのは「本当の自分」を出すといったナイーブな話ではない。その虚構性については高校自体の「嘲笑の淵源」で触れることになるだろう)。

かくして、「みんな仲良く」という規範を守るため上澄み部分=「空気」の維持が半ば強迫的に要求される環境になってしまっているのではないか(ゆえに、「空気」の中身はしばしば無根拠で非合理的だったりする)。そしてノイズの排除は、ノイズ耐性の低下を招き負のスパイラルが繰り返される・・・(この状況を変化させるには、他者というものの認識とコミュニケーション方法を根本から変えるしかないのではないか?他者とはそもそも自分とは異なる存在であり、その間に齟齬や争いが起こるのはむしろ当然である。しかしそれは、「万人の万人に対する闘争」を認め、正当化することではない[異物に慣れていない人間が陥りやすい極端な思考だ。別言すれば個人主義と「孤人主義」の勘違いと言ってもいい]。そのような認識に基づいて齟齬と調停の経験を積んで初めて、(1)そもそも「地雷」は「地雷」なのか?=差異に対して過敏に反応[まさにdis-crimination]しているだけなのではないか?という疑問・気付き、(2)齟齬が生じた際の調停方法に対する試行錯誤、の二つが生じノイズ耐性が涵養されるのではないか、ということだ。その意味で、和田中のようにディベートをさせたり授業内で話してもらうべくホームレスを呼んだりする試みは非常に興味深いと思うし、また逆に言えば、今述べたような気付きと根本原因へのテコ入れなしに「共感」の奨励などしても「空気」とノイズ排除の強化を生み出すだけで逆効果だと私は考える)。

 

では、誰もが「みんな仲良く」という「空気」に呑まれ、強迫的(ベタ)にそれに合わせて振舞っているのだろうのか?そうではない。「猛禽」の例で見てきたように、環境の特性を理解している人も普通にいるのだ。とはいえ、「空気」に埋没する(=ベタな)人の割合が高ければ高いほど、それに抗うのは面倒になる。「空気」の中身のなさ・無根拠さを訴え、「王様は裸だ」と言ってもノリに水を差す存在としてハブられるだけだからだ(信者には説明するだけ時間のムダだ。なぜなら信者であることすら気づいていないのだから→「極限状況、日常性、『共感』」)。それなら、「空気」を上手く読むことでそれに乗っかり、より多くのゲインを得た方が得策だ、と考えるのは合理的だろう(もちろん、「江古田ちゃん」は社会人が多く登場する話で、学校における人間関係としてはやや不適当な例かもしれない。であれば、ドラマの「野ブタ。をプロデュース」であるとか、ゲームの「ひぐらしのなく頃に 皆殺し編」が参考になるだろう。双方とも、「空気」とそれに縛られる環境を変える困難さを前提とした上で、それなら「空気」をいかに変える[操作する]かという話だからだ。これらと「空気系」の作品群を比較してみるのもよいだろう)。

 

かくして、強迫的な者もそうでない者も(=ベタもネタも)「空気」に乗っかり、そうしないのは「空気」に気づかない・感じ取れないほどの「バカ」か自分勝手な人間だけだ、という構図(認識)が生まれることになる(そしてその人間を集団で攻撃するのが「いじめ」というわけだ。ちなみにこれは「ザンジバーランドの怪人」で書いたクロスオーナーシップというシステム、および報道倫理を要求しても無効という話に連なる)。しかも「空気」は前述したように無根拠性であるがゆえに、ふとしたことで変わりうる。そしてそれに合わせて周りも無根拠に左から右へと動き、それに乗り切れない人間が新たな標的とされていく・・・つまり学校はポピュリズムの絶好の訓練場になっているわけだ。

 

このような見方が妥当であるなら、ここには「空気」に支配される環境を変える難しさが端的に表れているように思える。というのは、心の習慣(ベタ)だけなく、合理的適応(ネタ)が同時に存在しており、その両者が「空気」を強化する方向に作用していると言えるからだ。なお勘違いされると困るので言っておくが、ベタな人間=何も考えてない愚者といった見方は成立しないし、むしろそれこそ「風景の狂気」として問題を無関連化させる有害無益な理解の仕方であると私は考える。このことについては、「ねとすたシリアス」という対談で話題にされている「ネットゲーから抜けられない人たち」の例がわかりやすいだろう。というのもそこでは、ネットゲームにハマる理由が単に敵を倒してレベルを上げたり装備を強化したりするといった(わかりやすい)ゲームへの中毒よりもむしろ、社会承認・社会貢献の希求という問題があることに言及しているからだ(「いい人」同士だから抜けられない、という指摘も「空気→今さらやめられない」という構造を思わせ極めて興味深い。ついでに言っておくと、この手の言説を自分にも起こりうるという構造を抽出した議論ではなく、単に対象を正当化・特権化する言説として受け取る人間が多いように思える)。両者に類似性があるという見解が正しければ、それは誰にでも起こりうることであって、戦略的に活用して利益を得る存在がいることも合わせて、「ただ愚者の蒙を啓けばよい」などという現状認識はナイーブ以外のなにものでもないと言っていい。これに加えて、前掲の「『萌え』、無害化、ノイズ排除」で述べたような、明確な(conscious)悪意がないがゆえに問題だとそもそも自覚しない、という特徴も考え合わせれば、事態は極めて絶望的と言わざるをえないだろう(まあそれを前提にした上で、どのようなプロセスで状況が変えうるか、という話は機を改めてしたいと思うが。とりあえず歴史認識逆説の理解がない人間にはムリ、とだけ言っておこう→ここに「精神主義という名の病」が関わってくる)。

 

ならばいっそ、「野ブタ~」や「ひぐらし~」のように、「空気」に支配される環境(システム)を変えることは諦め、適切な「空気」になるよう棹さしていく方が有効だ、という考え方が出てくるのは必然的であろう(端的に言えば、「啓蒙よりも動員」ということ)。短期的にはその通りだと思うが、(1)ポピュリズムの問題と(2)ネタがベタになる=ミイラ取りがミイラになる(今さら止められない)状況を生み出す危険性を考慮すると、やはり少しづつでも何らかの形での改変が必要とは思う次第だ。でなければ、結局は戦前からの問題に頬かむりし、同じことを繰り返しているだけなわけだしね。


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