ノイズ排除、自慰識過剰、ディスコミュニケーション

2012-02-01 18:17:25 | レビュー系

次の話題に移る前に、「ソウルイーターとエヴァンゲリオン」および「ドラえもんのび太のホーリーローリーマウンテン」で書いたことの補足をしておきたい。

 

1.ノイズの排除

どうやら人は、無菌室の病理というものをしばしば忘れてしまう存在らしい。そしてノイズ排除という志向が、しばしば「善意」から来ているがゆえに陥りやすい罠であること=構造的必然性についても。これに関して、私は「鞠也に首ったけ」という記事で「害意の排除」がどのように行われているかを話し、それを現実の人間関係のあり方=「『調和』と『地雷』」に結びつけた(ちなみにこの話題は、「子供は天使じゃない」などとも関連が深く、たとえば「ひぐらしのなく頃に」という作品に対する「信者―アンチ」といった二項対立的理解=思考停止などにも繋がる)。

またそれがドメスティックな問題と誤解されないようヒトラーの話にもリンクを貼り、9.11のテロにも言及したわけだが、アメリカの映画・アニメにはそういう社会状況を意識した「排除と包摂」の問題を描いたものも少なくない。たとえば「アホでマヌケな大統領選」(街のコクーン化)や「サウスパーク」(表現規制・言論の自由の問題)はその典型だし、「告発のとき」(犯人探しがスケープゴートの創出と重ねて描かれる)もまた同様のマインドに基づいている(その他、「ボウリング・フォー・コロンバイン」などにも同じ要素が含まれている)。まあ特に表現規制の問題はいずれ扱いたいが、ここでは「単に放埒な発言を認めよとする悪趣味さと、容易には峻別できないという厄介さが常につきまとう」とだけ言っておこう(混同の厄介さという点では、「キム・ギドク」で書いたことと近い部分がある)。

 

2.「逆襲のシャア」を持ち出した理由

「ドラえもん~」の中ですでに説明しているが、この作品に触れた理由は「母性」の危険性・病理(ララァのあり方とそれに振り回される人々)を描いたという点でソウルイーターに連なる部分がある、というものだった(ちなみに、母性のグロテスクさについては「ビューティフルドリーマー」という作品が「楽園としての友引町を、そこから排除された存在たちが支える」という形で可視化しており、非常に興味深い)。

しかしもう一つ重要な理由があって、実はシャアの私怨→戦争(自意識と世界の問題が短絡する)というベクトルがゲンドウの行動と類似しているという点も強調したかった・・・が、これは自分自身やや牽強付会な印象を受けた(つまり中身を詰めきれなかった)。そうすると今後の記事との連動性がなくなり、この話自体が背景を掘り下げるだけの話題(=単なるネタ)になってしまうので、完成稿からは削除することにした次第。

 

3.真剣に言葉を尽くして語るほど、よりいっそう相手には届きやすくなすはずだ、という錯誤

これは「ひぐらし~とあるプレイヤーの証言~」の続き(皆殺し編)で詳しく言及する予定。


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