フラグメント99:整形と嘲笑

2010-10-06 18:43:43 | フラグメント
総武線内にあったルーツ10周年記念の車内広告を見て、オナホールを連想。なるほど十年越しで到達したこのくびれか…などと車内で妄想しつつにやそと嗤う。この前池袋駅では東武の改札近くにあったOH!NIKKOを「オチンコ」と読み間違え、セブンに置いてあるプチチョコシューを「プッシー」に見間違えた。最近疲れているのかもしれない。いや、むしろ元気すぎるのか、ひひひ、ひ。


それはさておき。
穴があったら突っ込みたい」に引き続いてのフラグメントだが、今回は最近よく書いている「共感」の話が登場。まあ元々少しづつ書きためていて違う形でまとめる予定だったのが、諸事情あって今のような形になっている(その辺の話は近々書くつもり)。


なお、最初の<無宗教と整形>の記事についてはちょっと説明を加えておく。なぜこの記事の表題が<無宗教と整形>なのかははっきりとは思いだせない。可能性としては前に書いた記事に絡めて偶像崇拝の話をしようとしたことが考えられるが、そうなると「無宗教」をもちだすのはちょっと不自然な気がする(すでに書いたように、俺はそれを単なる帰属意識の問題だと認識しているので)。まあしかしそれ以上のことはよくわからない、知らない、小麦粉か何かだ、と。


少し突っ込んだ話をすると、整形関連の記事の内容には不快感を覚える人が少なからずいるであろうと推測している。その主な要因は、おそらく俺が芸能人やらアイドル、俳優などをしょせん交換可能な存在と言っていること、そしてそれを交換不可能だと見なす思考様式を嘲笑する書きかたをしていることにあると思われる。まあこっちとしては、会ったこともない人間をあたかも自分の一部であるかのようにその行動を気にしたりするのを疑問に思わないのって異常じゃないかい、って言いたいだけなんだけどね。もちろん、真面目に言えば伝記の人物などに対して同じような反応をすることもあるわけで、これをただ「現代的」だとか「日本的」だとかは言えない。ただねえ、前に書いた「キャラへの埋没」とかの関連でもやはり気になるのよねえ。まあそれも別にほたっとけばいいんだけど、価値観の多様化した社会ではこれが「他人を自分の一部であると見なすエゴイスト」になりやすく、自分が妄想してるだけなのに不快不快だと錦の御旗みちゃーにがなり立てるヤツになったりするように思える。


アホかと。そこで思わず、「たとえ演技力を評価している俳優やキャラクターを気に行っている芸人であろうと、そいつらが結婚したり、ひき肉にされて殺されたりしても俺には全く何の関係もない」と明らかに逆効果な発言をぐっとこらえてみたりみなかったり。ある意味東浩紀言うとこの「動物化」の方が無害で結構な話であり、そういう傾向にどんどんなっていくならこの世が地下室人で埋め尽くされることもありえるし、またありかもしれんと思うが、純粋培養化が進むと過剰反応が生まれ多様な価値観の共生という土台自体が掘り崩されるということにもなりかねない(ノイズの排除→耐性の低下→過剰反応→排除。「『ヘタレ』と自己認識」の記事は人が快楽原則から外れた時どう感情的に反応するかのサンプルにもりますよと)。結果的にアーキテクチャーが破壊されるならば、オナニーは好きなようにやらせておけ、とも言えなくなってくるわけでして。だから「再帰的思考の生まれえぬ場所」でも書いたように、意図的・戦略的にその状況を整える必要が出てくる。


閑話休題。別の角度で言うと、例えば映画の「絶対の愛」みたいに直接関係を結んだ相手なら交換不可能性・交換可能性云々の絡みで整形が問題になるのもまだわかるけど、そうじゃない相手なんてどーでもよくねーっすか?ということ。うまくオナニーをさせてくれない(幻想を持たせてくれない)相手なんだったら、いくらでも代わりはいるんだから乗り換えればいいんでない?まあ文句を言ったり秘密を暴いて引きずり下ろしてやったという感覚が楽しいのなら別だけどね(・∀・)という具合にして、フラグメントの内容に繋がります。



<無宗教と整形
なぜ気に入らないのか?個人的に嫌なら、ただあなたがファンをやめればいいんじゃない?公共の場でがなり立てるのは何で?一般的にダメと言われる理由は?→ない。じゃあやっかみによる引きずり下ろしじゃね?


<田舎住まい>
都会を離れて一人旅。しかし郊外や田舎に住もうとは真剣には思わない(等々力)。田舎の人間関係は余計。また、たまに行くからいいのであって、もしそこに飽きたら今度はどこに行けばいいというのか?またもう一つデカイのが満員電車。今までは短い距離だからこそそこまで問題なくいられるわけで、これが往復二時間とかなったらそれだけで削られる。


かなりキてるエロい画像まじでいい感>  「『調和』と『地雷』
皆同じ。説明不要だから論理を重視しなくなる。しかし実際は、バラバラで理解できない。だから、バラバラでも同じであるためにコミュニケーションは徹底的に薄まっていく。そして「空気を読む」「キャラ的人間関係」として尊重される。


<土壌の違い>  
違いがあることが当然だが、「それでもなお」合意可能な領域として「共感」なるものが重視される社会と、本来同質であるがゆえに「共感」なるものもまた自然に存在し、そこに回帰すれば問題が解決すると考える社会が存在する。「」前者の立場で「共感」を重視するのでない限り、それは時代にそぐわない同調圧力へと容易に堕するだろう。


<振り込み、クロウ、洗濯、片付け>
自分で立てた計画にも従いたくない。わざと遊びを作っておく。仕事を帰りのファミレスで…家だとわざわざ仕事をやる感覚→苦痛。


<耐久力>  
ゾイドの記事、ドラクエの分析を枕にして成立する。分量が多くなりすぎたので分離。感覚的にはだいたい2000字が限界。それに納まらないのは文章力と戦略眼の欠如。長いのでリンク貼りで処理する他なく、結果として異様に文脈依存度が高くなる。仮に様々な話題を試みたとしても、読むこと自体が困難。更新のスピード早い。読める人は非常に限られてくる。当初の狙いはどこへ行った?要約版の作成。それしか読まないなど危険性は高まるが…もっと運営に工夫が必要やなあと最近つとに思う次第。
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