悪いのは常に他の誰か

2007-09-21 12:29:02 | 感想など
もし自分が「まとも」であるのなら、間違っているのは常に他者・外界であるということになる。


例えば、「キレる若者」「最近の若者」として車内での態度の悪さなどが指摘されてきたが、実際には車内暴力という中年も巻き込んだ一種の社会現象であることが認識され始めている(ただし、昔もそういうことはあったのかもしれない。よって、最近出てきたのか最近問題にされるようになったのかはわからない)。また援助交際する女子高生が批判されてきた。中年の視点からすれば「最近の若者は…」ということになるだろうが、買う側が存在しないことにはそれが成立しないことは言うまでもなく、その中には数多くの中年が含まれている。つまり自分達が当事者であるにもかかわらずそのことに無自覚であったし、人によっては今でも無自覚であると言えるだろう。


もちろん、これをもって中年だけが無自覚だなどと言うつもりはない。そこにはもっと広範囲に浸透している思考様式、つまりは自分達は常に「普通」、ないし「まとも」という思い込みが存在している(価値観が固定化し、かつ社会の中心を担っているという自負を持つ中年層はそこに陥りやすい)。自分(たち)が「まとも」である人間にとって、常に悪いのは他者・世間である。「自分(たち)はこんなにも『まとも』なんだから、自分(たち)が間違っているはずがない」というわけだ。興味深いのは、こういう「普通」とか「まとも」を自認する人というのは、その基準がたいてい世間であることだ。そして、厳しい言い方をすれば、(世間を基準にした)「まとも」や「普通」というカテゴリーを免罪符にしているくせに、いざ世間でおかしな事が起こると、今度は「社会がおかしい=自分(たちの側)はまともだ」と主張する。要するにそういう人たちは、いかなる時でも自分が「まとも」であるという認識から逃れられない(世間を基準に生きていた自分は一体どこへ行ってしまったのだろうか?)。そうして先の車内暴力や援助交際のように、問題を正しく捉えることができなくなるわけである。


この「悪いのはいつも他の誰か・何か」という見方は、作品などに対する不快感の表明とも深く関係しており、またモンスターペアレンツなどの精神構造とも繋がっていると私は考えている。簡単に言えば、不快感は常に相手のせいであって、自分には問題が無いのだという(意識的・無意識的な)思い込みなのだが、それついては別の機会に述べることにしたい(それに不快感の表明が一般的になったことも加わるが、詳しくはその時に)。


汝自身を狂人と思え…
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