idol,ideal,ideology

2008-07-15 02:18:15 | 抽象的話題
電車の中で雑誌の吊り広告を見ていると、さも重大な事件のように芸能人のスキャンダルが扱われている。ということは、それに対するニーズがあるわけだが、自分の周りを見渡してもあまり興味を持ちそうな人がいないため、一体どういう人が読むのか、てゆうかニーズってどのくらいあるんだろうか、などと考えてみたりする。


まあよくわからんけど、そういう記事が存在するからには一定量あるのだろう。
しかしさらによくわからんのは、そういうものを欲する心性だ。テレビ番組そのものなどはともかく、芸能人の私生活などといったものはその人に全くと言っていいほど関係がないはずだ。なぜそういうものに興味を持てるのか理解できない。


例えば、俺はロバート・デニーロを尊敬しているが、別に彼の私生活や思想などどうでもいい。なぜなら彼の見せる演技以外は、俺の生活に毛ほどの関係もないからだ。そう書くとミーハーな感情(?)と分析を経ての尊敬の念は異なる、などと反論する人がいるかもしれない。そこでグラビアアイドルの例で考えてみると、いいと思うのは何人かいるが、そこに内面や私生活は(ほとんど)関係ない。俺が興味を持つのは目の前の図像だけであって、対象がどれだけ腹黒かろうが整形していようが俺には全く関係がなく、ゆえに無意味である。まあもっとも、グラビア自体にイメージ戦略が仕込まれていることは確かで、グラビアアイドルの図像だけを消費している、という表現はいささかナイーブすぎる発言だろう。とはいえ、グラビアアイドルが整形をしていると何か不利益でも被るの?といった嫌味の一つでも言いたくなるのだ。


そういうわけで、スキャンダルへのニーズが理解できないのだが、ついでに言えば結婚したらファンレターが減ったりする、というのもよくわからない。じゃあ何か、出さなくなった奴らは相手が結婚することで何か不利益でも得たのか?それとも自分が結婚相手になれるとでも思っていたのだろうか?だとしたら見事なまでの白痴ぶりである…


とまあここで終わったら単なる罵倒に過ぎないが、理解の手がかりはもちろんある。例えば、筒井康隆などが書いているように、会った事もないタレントをまるで自分の友人のように話しかける人々の心性、共感という幻想、それと連動した引きずり下ろしの精神(→スキャンダルの渇望)、所有願望(幻想)、マス・イメージなどなど…真剣に考えようとすればなかなかおもしろい。何となれば、これは政治(主に選挙活動)などにも深く関係している問題なのだから。


あるいは、これを自己分析に利用することもできる。例えば、上では理解できないと書いているが、実は気付いてないだけでそういう心性が存在している可能性はあるし(「ライター達の学歴 改」など)、逆に上記の記事が正しく自己の認識を反映しているのなら、少し言いすぎの感はあるが、「idolの不在」→「idealの不在」と置き換えてみるのもおもしろい。さらにそこから、深層の不在へと考察を進めたり、俺自身の共感や「感情移入」への見解へと結びつけることもできるだろう。あるいは逆にその源泉を辿り、「奇跡による救済の話」や「宗教と思索:今日的思考の原点」を見返してみるのもよい。


いずれこの分野への見識を深めたいものだ。
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