goo blog サービス終了のお知らせ 

ポル・ポト派、観念の怪物、AIの時代

2025-06-08 13:39:16 | 歴史系

 

 

 

カンボジアのトゥールスレン収容所を訪れたのは、死臭のこびりついた場所で、歴史的悲劇というものを間近に感じる機会として、得難い経験となったように思える。

 

ポル・ポト派の大量虐殺そのものはよく知られた話なので詳細は繰り返さないが、ともあれその首脳陣であったポル・ポト(サロット・サル)、イエン・サリ、ソン・センなどの主要人物が、プロレタリアートどころか富裕な家庭に生まれ、フランス留学も経験していたことは押さえておくべき点だろう(当然、長く農作業などに従事した経験もない)。

 

というのも、そのようにして革命の結果救い上げるべき対象の実態(彼らにとっては農民)をよく知らないまま、弾圧の中で地下化・過激化し、そしてシハヌークやロン・ノル、あるいはそれを支援する勢力の綱引きの中で、経験を積まないまま突如国家のかじ取りを担ったしまった結果が、大量の強制移住による都市部の弾圧、知識人や文化的なるものへの憎悪と排除といった現実味のない政策や、極端な秘密主義と内ゲバという惨憺たる状況だったのではないだろか。

 

つまり、実態がどのような構造・背景から成り立っているかを斟酌せず、ただ理念という名の妄想を現実に無理やり代入しようとしたのであり、その中では当然「理念に従わない現実」と向き合わざるをえないのだが、その時に理念と現実の橋渡しとなる諸政策や諸規則の軌道修正ではなく、現実の否認=粛清に及んだというわけだ。そのようにして「観念の怪物」と化した結果、300万にも及ぶとされる死者が出たのが、民主カンプチアの社会であったと言えるだろう。

 

このような事例からは、日本では年代的にも近い連合赤軍を想起する向きがあるかもしれないが、むしろ担い手の中心たちの類似性を考えれば、オウム事件の方が近いのではないだろうか(構造的類似性は遠い世界の話とも言い難いことを示すと同時に、その反復可能性をも暗示する)。

 

 

 

 

 

 

ところでポル・ポト派の行動原理を見ていて興味深いのは、「病的なまでの無垢への執着」である。それは共産主義以外の思想・文化などに毒されていないということで、子どもたちを信用・使役することにつながるのだが、その一端はこの収容所で見られる獄吏たちのあどけない写真の数々に見ることができる(そしてこの子たちが拷問・虐殺の片棒を担ぐこととなった)。

 

ここで思い起こされるのは、悪名高いナチスもまた、純粋性に固執したという点だろう。ナショナリズム→ロマン主義→後期ロマン主義という系譜を経て、第一次大戦の敗北・賠償やユダヤ人への敵愾心に基づく被害者意識と排外主義を柱とする以上、そのような傾向はある意味当然のことではあるのだが、ともあれかかる意識がユダヤ人やスラブ人などへのホロコーストはもちろん、障がい者などの抑圧・殺害といった政策にもつながったことは想起されるべきだろう(ちなみに、ポル・ポト派も、資本主義はもちろんのこととして、隣国ヴェトナム=同じ共産主義国への強い敵対心を最後まで持ち続けた)。

 

これらには、無垢を他者に求める病理の最も劇的な形を観察することができる。それを単純に無垢や素直さそのものへの称揚と見るのは正しくない。むしろ、対象を自分の思うがままに染め上げることができる、言い換えれば対象が自分の言う通りに行動してこちらには逆らわないことが期待できるという、対象の自立性・尊厳の否定と、かつそれが自らの安全の担保=臆病さに立脚している点で、極めて独善的な思考が根本にあると評価すべきだろう(そこでは、純粋であるがゆえの率直な批判的眼差しや残虐行為、あるいは叱責を恐れ子供でも誤魔化しを行うという実態は、半ば意図的に忘却される)。つまりは、そのような臆病さと独善性を、「汚れの無さへの賞賛」といった口実で糊塗しているのである。

 

こう書いてくると、いかにもファナティックな遠い世界の話をしているように思われるかもしれないが、全くそうではない。例えば私が繰り返し批判している「処女性の称揚」(より卑近な言い方をすれば「処女厨」や「ユニコーン」)はその最たる例だし、毒親やモラハラも要するに他者の病的なコントロール欲の発露という点で同じ地平線上にある傾向と言える(そのような傾向は自らの願望を他者に押し付けるだけのものであり、ゆえにその様を私は「心の底からIしてる」と別の記事で述べたのだが、かかる独善性が「ピュア」または「あなたのためなのだ」といった言葉で正当化される向きがあることに注意を喚起したい)。

 

今述べたことは個人的領域に止まるものではあるが、しかし、一度何か問題を起こしたら、それが延々とスティグマとして付きまとう一発退場的な風潮、あるいは対象に一点の曇りも認めない「漂白社会」的傾向については、それを超えた時代の特性と言えるのではないだろうか(かかる傾向はいきなり出てきたわけではなく、森岡正博が2003年の時点で『無痛文明論』で指摘していたように、徐々に進展してきたものとみるべきだろう。また、歴史的にこういう社会が存在しなかったという訳ではもちろんなく、例えば19世紀ヴィクトリア朝の風潮などはその類例として挙げることができるだろう)。

 

そしてこういった傾向は、おそらく今後悪化していくように思われる。まず、娯楽の氾濫などによってコスパ・タイパ重視の傾向が強まっているという話がよくなされているが、それは試行錯誤を要求するノイズの排除を促進していく。現実としては触れる情報や娯楽が多様化しているので価値観や嗜好は多様化しているのだが、人間同士のコミュニケーションのハードルが上がった結果、その襞をかき分けて他者を理解しようとするよりもむしろ、表面的承認か嘲笑・対決の二者択一的関わり方が進展していく。

 

するともはや人間という他者との交流に実りを期待しない傾向となって、さらなる分断が進んでいくだろう。そして、自らの嗜好に合わせた娯楽と自分の期待するものに合致する答えをすぐに提供するAIとの関わりの方に、軸足を移す人が増えていくと考えられる(これがAIの「進化」と人間の「劣化」。もちろん相対的・部分的な変化であり、いきなり社会が0-100で移行する訳ではないことに留意が必要)。

 

ここで注意すべきなのは、この事態が巷間言われるような「AIが人間を支配する」のではないということだ。あくまで、「人間がAIに支配されることを望む」のであり(自由からの逃走で自ら「奴隷」たることを選択する)、この主客を転倒させてはいけない。

 

これを誇大妄想と考えるなら、すでに現時点で、多様な情報が氾濫する社会で、世界を極めて単純化した陰謀論や疑似科学がこれほど広がりを見せるのはなぜかを考えてみるべきだろう。早い話が、複雑な現実を悪戦苦闘しながら呑み込み、時には保留しながら向き合っていくことを、この多忙な(あるいは「多忙を強いられる」)社会でやり続けられる人間はそう多くはない、ということだ(そのように人間の情報処理能力に大きな限界があるゆえにこそ、複雑怪奇な現実を正確に写し取ることは難しく、単純化した物語として提示せざるを得なくなる、というのが先日の「厳島の戦い、軍記物、歴史という『物語』」で書いたことである)。

 

そして、今のような形でAI>人間的傾向の人が増えていくことは、当然さらなる社会の分断を進めることになり、それは社会の複雑性を増すことにつながる。かかる事態において、社会のあまりの不透明さに苛立つ人々は、(元々ノイズの排除された情報環境に飼い慣らされているので)断固・決然的な論調になびきやすくなる。で、そこにポル・ポト(あるいは共産主義=神なきキリスト教)ならぬAI(テクノユートピア=神なき宗教)が降臨し、もっともらしい情報を次々と吐き出してくれので、すぐさまわかりやすい「答え」を与えてくれるAIに対し、これぞ現代のバイブルだ!と熱狂し、むしろ「情報にそぐわない現実の方を否認し始める」人々がどんどん増えていくことは容易に想像できる(前に挙げた水道水と疑似科学のショート動画を参照。ちなみにだが、そもそもAIの限界が「無から有を作り出せない」と指摘されているように、そのアウトプットの土台が人間という必謬性を負った存在から生み出された情報(論文・資料・日記などなど)である以上、それを元に出力された情報もまた無謬ではありえず、よってAIからの情報を鵜呑みにすることは論外と言える)。

 

それによる分断がまた、さらに多くの人間をノイズの排除とコミュニケーション(他者=複雑な現実)からの退却へと向かわせることは何ら不思議ではなく、それがまた不安にかられた人々をさらなる極端な論調に誘う・・・というサイクルの中に社会が投げ込まれていくのである。

 

とはいえ、AIをただ蛇蝎のように嫌っても当然のごとく無意味だ。だいいち、個人的嗜好で社会の大きな変化は止められないからである。ゆえにこそ、その特性を体感し、それとの向き合い方を早くから考える習慣付けをするという意味で、学校教育の場でAIの活用とその誤謬の事例を集合知として共有することが重要と、以前述べた次第である。

 

 

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中央アジアの地下鉄:アルマ... | トップ | フルアーマーの記憶リバイバル »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

歴史系」カテゴリの最新記事