真版 君が望む永遠~なぜ「感情移入できない」のか~

2009-05-31 19:55:08 | 君が望む永遠
テクネーと聞くと「テク姉」を連想してしまい年上好きだけに過剰反応してしまうJSですがみなさまいかがお過ごしでしょうか?さて前回は「君が望む永遠~なぜ『感情移入できない』のか~」という記事を書いたわけですが、前から読んでいる方はおわかりの通り、あれは「主人公の評価と『選べない』苛立ち」の対話形式で書いたこと(つまりはインタラクティブ性の問題)を整理しなおしただけに過ぎませんし、また「孝之が『ヘタレ』と評価される要因」で強調した一回性(反復不可能性)とも有機的な繋がりがありません。まあ実を言うと、以下で掲載する記事こそ元々準備していた内容でこちらは一回性の問題と深く関係しているのですが、どうも一般化しすぎたきらいがあり、また議論もまだまだ粗いということもあり、いったんお蔵入りにしようかと思ったんですね。しかし、プレイヤーたちがどのようなものを「感情移入できる」ものとして捉えるかという視点がなければ議論が説得力を持ちませんし、また以下の議論を踏み台にして何かしら有用な視点が出てくればと考え、掲載することにします。ちなみに、スゲー長いので覚悟してくださいw



ここまで「「ヘタレ」に関する受容分析」を断片なども交えつつ論じてきた(「感情移入」の問題に向けても参照)。
ところで私が気になっていたのは、「ヘタレ」とともに「共感できない」「感情移入できない」という感想が少なからず見られたことである。なるほど作品に対する否定的な評価として、このような物言いが出てくることはそれほど不思議ではない。しかしながら、作中で緻密な感情表現や状況設定がなされているにもかかわらず、どこを不快だとか理解できないとか感じたのかを全く言及することなくただ前述のような感想だけが出てくることに対し、私は強い違和感を覚えたのであった。


そのように具体性を欠いた感想になってしまう理由は様々想像できる。たとえば、感覚至上主義的姿勢(=とにかく「おもしろい」とか「泣ける」といった感覚があればよくて、その理由だとか演出などは軽視ないし無視するような考え方)だとか、(大団円症候群にも繋がる)不快なものをきちんと見ようとしない態度などである(あるいは自活や結婚といった制約が10代後半や20代のプレイヤーには理解され辛いといったことも考えられる)。


しかし、単にそれだけなのだろうか?
例えば他の作品については饒舌な「読み」を披露しているレビュワーでさえもが、鳴海孝之(あるいは君が望む永遠)については貧しい言葉を垂れ流すことしかできない状況はそれで説明可能なのか?また彼らが不快なものについて言葉少なであるならば、逆の方向、つまり快の分析を行い、それを批判的に論じることで問題を掘り下げることはできないだろうか?


そのような問題意識もあり、当時は「そもそも感情移入や共感なるものは存在するのか?」という論じ方をし、自明と思われているものに疑義を投げかけたわけである(「主人公は個性的であるべきか」、「主人公というものへの先入観[草稿]」、「『説明不足』という評価について」など)。しかしながらそのような一般論では結局のところ抽象的すぎ、各プレイヤーが自らの基準を疑う契機とするには不適切だったと言えるだろうし、君望を未プレイに人にとってもあまり得るものはなかったように思える。よってここでは、2000年(君望発売の一年前)に東浩紀の書いた文章を引用しつつ、彼らの言う「感情移入」がどのようなものかという視点で考えてみたい(繰り返すが「ヘタレ」と同様に「感情移入できない」という評価の理由を具体的に述べたレビューは管見の限り存在しないためだ)。

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それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独特のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってしまう。
たとえば最近の立っているキャラとしては、PSソフト『どこでもいっしょ』のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのディスクにもトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。
むろん、それぞれのトロは、飼い主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかない。全部決まり事なんです。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。(中略)
トロ自身にはオーラはありません。あれは単なるイラスト、プログラムでしかない。そしてどんなに作り手が手書きっぽくイラストを描いたとしても、それが複製可能である以上、オーラは宿ることがない。でもそれが単なるイラストではなく「キャラ」になるというのは、その生産者が与えられないオーラを、消費者の側が強引に与えるということです。つまり、あっちにもこっちにも何十万というトロがいるのに、でも「俺のトロは違うんだ」とあえて言うことですね。そして、その種の感情移入はもはや、『どこでもいっしょ』に限らず、日常のコミュニケーションのなかで無視できない大きさを占めるようになっているように思います。ここで重要なのは、トロにオーラがないということを知っているのに、あえてそこにオーラを見出すということです。それは単なる勘違いや現実逃避じゃない。この「あえて」がないと、コピーばかりの砂漠では生きていけないんですよ。(中略)
しかし実際には、すべてがオーラのない等価なものになったときにこそ、ひとはそこに自分なりの価値をつけなければ生きていけない。もはやオリジナルとコピーの境が壊れてしまったからこそ、目の前のシミュラークルのなかに、強引に「オリジナルっぽいもの」を見つけ、自分なりの感情の段差をつけていくしかない。
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ここで東は、シミュラークル(複製可能なもの)で溢れかえる世界の中で、あえてそれらに感情移入をする所作が生まれたと述べている。トロの事例を考えるに、ここで言われている「感情移入」とは、すでにあるものを読み込んだ(固い表現を用いれば情報の集約・分析の)結果ではなく、むしろ空白を半ば強引に埋めていく過程で成立するものだと言えるだろう。東はオリジナルとコピーの差異を現実と虚構の二項対立を利用して説明してはいるのだが、今回の問題に近づけて言えば、前者は強く文脈に規定された(=替えのきかない)小説などの主人公で、後者は恋愛ADVによく見られる(代替可能な)「白紙の主人公」と位置づけることが可能だろう(※)。このような理解が妥当であれば、トロになされているような「感情移入」とは、空白であるはずの「白紙の主人公」にこそ馴染むものであると言える。


ところで東の論からは、複製不可能なものが減り複製可能なものばかりになったために、受け手は平板なものにも「感情移入」せざるをえない状況になってきたという印象を受ける。そうすると、文脈規定のしっかりした(複製不可能という幻想を抱くことの容易な)背景をしっかり持った人物(の描写)はむしろ求めていたものがようやく表れたということで歓迎されそうな気もするが、鳴海孝之への評価を考えるに実は逆の事態が起こっているのではないか?というのは、背景を持たないものにも半ば強引な方法で「感情移入」していくという受容方法が一般化・無意識化した結果、文脈規定そのもの、あるいは規定された存在というものをかえって理解できなくなってしまったのではないか?別の言い方をすれば、トロに「感情移入」する時のような読み「しか」できなくなっているのではないか?


鳴海孝之に対する「感情移入できない」という評価自体もさることながら、評価の理由を言葉にしていないorできていない(=それだけ自明のものだと考えている)レビューの群れは、もしかするとそのような受容形態の変化を象徴しているのかもしれない。



話が飛躍していると感じる人もいると思うので少し説明を加えよう。前者に関して言うと、例えば小説では(今日的な視点で言えば)結末が決まっているがゆえに行動の必然性などを担保する必要性が強く、結果として登場人物に元々の名前や背景などが(もちろん程度の差はあれ)細かく設定されており、「感情移入」するにしてもそれを前提としてのものだった。しかしながら、特にRPGや恋愛ADVにおいては、多様な過程や結末を可能とするためにむしろ背景(やそれに伴う行動原理)などをぼかしている場合も少なくない(前者についてはドラクエ3やロマンシングサガ2、後者はときめきメモリアルや同級生、前掲のTo Heart始めとして数多くのゲームが当てはまる)。このような特徴の一つとしてRPGや恋愛ADVでは主人公に自ら名前をつける場合も多いが、その中で自分あるいは自分に深く関係のある名前をつける人も少なからずいるようである。例えば同級生2というゲームの話だが、サターン版では主人公の名前を変えることができず、「龍之介」という名前が呼ばれる仕様になっている。ところでこれに対し、「感情移入できないからやめてほしい」という声があったらしい。このような反応がどれほど一般的なのかはわからないが、少なくともここで言われる「感情移入」が「白紙の主人公」と馴染みやすいこと、もっと言えばそれへの介入によって成立することには注意を喚起したい。このように考えると、かつて書いた鳴海孝之の(選べそうで)選べないという特徴(名前はもちろんのこと、誰を選ぶか)は、やはり「感情移入できない」という評価において無視できない要素であると言えるだろう。なお、「選択肢に込められた主張」なども参照のこと。

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