日本人の「無宗教」に関する覚書

2009-12-25 18:12:18 | 宗教分析
「無宗教」は日本人の特異性として取り上げられることがあるが、まずはそれが成立した背景が重要。「…といった要素があるから日本人は無宗教だ」と外的に結論づけられたものではなく、あくまで自己認識であることを念頭に置かねばならない。つまり、「日本人は本当に無宗教か?」を検討し、「…といった要素から日本人は実は~教徒」だと結論づけても究極的には無意味だということだ。「だから何?」「それなのに何で無宗教だって思うの?」と言われて終了。もし仮に「日本人は実は…」と誰かに諭したところで、「そんなこと言われても…」と困惑されるだけで、しまいにあなたは迷惑な宗教の勧誘と同列に扱われることだろう(=戦略的にも無価値)。


パラダイムシフトが必要だ。仮にwhetherを問うにしても、それは過程ないし条件の確認にとどめ、目的はあくまでwhyでなくてはならない。さもなくば、あなた自身が「真理」という名の宗教を信仰しているのに気付かぬまま、他者を断罪することになるだろう。この手の発言をすると、すぐ「相手の言う宗教の枠組みを何でも受け入れろと言うのか?」といった反応をする人がいるが、私が言っているのは「本当に無宗教か」を論じても、せいぜい「あなたはそう思うんですね」と言われるだけの、理論的にも戦略的にも価値の薄いものにしかならない、ということだ。「無宗教」について考える人がそれを純粋な興味でそうするのか、あるべき姿からの逸脱としてそうするのかは知らない。しかしいずれにしても、「なぜ無宗教と感じるのか」という枠組みへの問いかけなしには、たとえそれがどんなに重い石であっても、底なし沼に沈んでいく言説を一つ虚しく生産しただけなのではないか?そのように思う。


日本人の「無宗教」について考える際、アメリカ的物質至上主義も唯物論も、視点としてはおもしろいが、結論としてはありえない。というのは、そのような観点では、葬式仏教や初詣といった「イベント」はまだしも、占いブームや水子供養、筆供養、心霊などの怪奇現象特集、(祠の移動などに際して起こった)事故を祟りのせいにする、といった現象を何ら説明できていないからだ(もし物質至上主義や唯物論が一般的なら、今述べた事は蒙昧な認識として退けられるはずだ)。日本人の「無宗教」とは、正しくは「特定の宗派に属していない」、より正確には「帰属意識を持っていない」という意味だと考えられる。つまりその特異性を考えるのなら、「宗教」という言葉のカテゴリーの検討(欧米や中近東などとの差異も含め)に加え、特定宗派への帰属意識がない理由の検討こそが必要なのである(仏教なら、江戸時代の檀家制度の導入と形骸化などが連想されるところだ)。かかる状態の中で、「実はあなたは~教徒なのだ」と気付かせるために様々な証拠を揃えても、究極的には無意味だ。なぜなら、研究者・考察者がこれあらば宗教に帰属すると思う要素と、対象がそう思う要素が同じとは限らないからだ(そもそも、宗教への帰属意識がかくのごとき積み重ね[=証拠による論破]によって成立するものか大いに疑問。逆の視点で考えてみるといいが、~教徒を自認する人はいちいち項目を作って○×をチェックし、何個○がついたから~教徒だという判断の仕方をしてるのか?大半はそうではあるまい。仮にそのような確認作業をするにしても、それはあくまで自分が所属する宗教の戒律に違反していないかという視点でしかない。つまりはその宗教の範囲内にとどまるのであって、「自分は~教徒か否か」という判定の仕方ではないのだ)。


だからもし、「あなたは実は~教徒なのだ」と無理矢理にでも「啓蒙」ないし「教化」することが目的なら、なるほど実態(=行為)の研究だけやって反論の余地がないほどに具体例を積み重ね、相手に突き付けようとする行為には一応筋が通っている(ただ、その手のアプローチの有効性は先に述べた理由で甚だ疑問)。しかし、「なぜ無宗教なのか」を問う事が目的なら、実態を見て宗教的要素が多々見られるというだけでは何の意味もなく、「しかしそれにもかかわらず、無宗教だと感じる=宗教に帰属意識を感じないのはなぜか」と問題設定して初めて、ようやくスタートラインに立てるのだ。そのような観点がなければ、「無宗教」に関する考察は無意識のうちに原理主義の片棒を担ぐハメになるだろう。


私は自分が「無宗教」であると認識している(そもそも、トルコのコンヤという町でトルコ人にそう話し、理由を問われたのが無宗教について考察を始めたきっかけ)。仏教や神道、あるいは両親(正確には父親)が信仰している宗教の影響も皆無ではないが、それを自分が信仰しているとは考えていない。私の意識が他の日本人の意識と似通っているのかはわからないが、今まで人とやり取りしてきた経験によると、そう大きくはブレていないだろうと推測する。


例えば、ある友人が自分の友人のお坊さんの話をした時…「俗物」と表現。おそらく「この日本でわざわざ坊さんなんてやってんだからよほど特異な人なんだろう」というイメージを持たれることを想定した説明なんだろう。それはよくわかる。ただ同時に、世界の宗教を見ればそんなのフツーだとも思う。坊さんと言えばイスラームではウラマーが近いが、トルコの信仰の在り方のグラデーションは。クルアーンの解釈。歴史的に見ても、聖職者の俗物性なんて事例はあまりにありふれていて今さら何をか驚かんや、という話である。つまり友人の表現は(もちろん誤解のないようにするための気遣いという前提の上で)ある意味宗教的無知の産物とも言えるわけだが、そのような発言をしなければならない(そうしなければ誤解を招くという)状況的制約については理解しているつもり。
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