嘲笑の淵源:極限状況、日常性、「共感」

2011-02-24 18:21:31 | 感想など

(登場人物)     黒龍眼=K    御影獏=M      

 

続きやんの?



そうこなくっちゃ・・・って何で18号やねん!



いや別にネタじゃなくて。会社の人がインフルで倒れて大変なんで、更新するのがメンドくさいなあと思ってね。



だったらこんなネタふりしとらんでとっとと先に進めてくださいな。



あいあ~い。



で、中2の時「極限状況において人肉を食べるか否か」という話をした場面のことなんだけど。



あれは掃除の時間に給食室の隣でダベッていた時、話のきっかけは全く覚えてないけど、いざとなったら人肉を食べるか?みたいな話になったんだったと思う。



相手は?



同級生2人or3人+先生(♂)だったと思う。まあそれはいいとして、その問いに対してまず俺が「う~ん、食べるんじゃね?」と言い、他の人間は「いや・・・食べないっしょ」みたいな感じで教師も含め引いてた、という話。



そらまあ引くやろw



いやまあ自分の実感として彼らがそう言うのはわかるんだけどね。ただ、なんでそうもあっさり「やらない」って言えるんだろうと。それが俺には解せなかったわけよ。



というと?



そこは当時はわからんかったので後で説明する。



へいへい。じゃあ先に「食べる」発言が生まれた文脈なんだけど、それって幼少のみぎりより見ていた(笑)戦争モノとかの影響ってあるの?



ないと思うよ。これは明確に覚えているんだけど、その時俺が思い浮かべていたのは飛行機で雪山に不時着してどんどん餓死していく中で食べるか否か・・・みたいな状況だからね。まあこれ確かテレビか何かでやっていた実際のエピソードなんだけどな。



教科書で読んだ「城之崎にて」は?



そこから極限状況での振舞い方に対する認識が出てきたというよりは、今言ったような前提があったがゆえスムーズに理解できた、という感じ。結果ではあっても原因ではないということね。まあこれは「終末の過ごし方」というゲームにも関わってきたりするわけだけど。



ふ~ん。何かちょっとよくわからないな。まあいいや。それで「何でそんなにあっさり食べないなんて言えるの?考えてないお前らバカだな」と嘲笑したわけ?



いやいや。別に自分ならその状況や心情を的確にとらえることができるとは毛ほども思ってはいなかった。あとそいつらは成績優秀という意味では少なくとも頭が悪いわけではないし、またいつもツルんでいて悪いヤツらだと思っていたわけでもなかった。ていうか、むしろ「いい人」にカテゴライズされるだろうね。だから、そういう色々な意味でいいヤツらであることと、そういう思考ができないギャップが埋まらず、対立する要素として存在し続けたという感じかな。



どゆこと?



前に言った「感謝はすれども尊敬せず」ってやつね。



でも結局尊敬はしないんでしょ?



それは相手を見下すってことじゃないぜ。ある種の距離感とでも言うのかしらね。それに「感謝は」するって部分は嘲笑のあり方という点で結構、いや決定的に大事だと思うんだけど。



やっぱりよくわからないなあ。理屈に流されて恩を忘れるなとかそう言いたいんか?



そうじゃねーよ。実際付き合ってみていいヤツらであること、抽象的な問題への無理解に関する苛立ち、そのどちらか一方で認識を塗りつぶすなってこと。前者でいけば俺が単に頭がおかしいだけで、後者でいけばそいつらが単なるバカということになるが、そのどちらでもない。二元論は単純で安心できるけど、二つの要素の混在が重要だってこと。まあ余談だけど、「食べない」って言ったやつらが一方的におかしいと考えていたらタクシードライバーのトラヴィス、もしくはサカキさんみたくなっていたかもしれんねw



榊さん?動物好きの?



いやいや、酒鬼薔薇ね。



そう露悪的な物言いをするなっつーの。理解されるものも理解されなくなるやろが。



その場合他者に尊厳を認めない存在になっていただろう、として単に推論を述べただけだがね。で、どうしろと?



たとえば宮台真司の言葉使って、「超越系」と「内在系」で他人と志向性が違うことに気付かなかっただけ、とかいくらでも言いようがあるだろ。



それは二つの点で誤ってるね。まず、俺は別に生きる意味とか世界の生成について探求する気はない。「天国と地獄」や「この道、わが旅・・・」でも触れたように、そういう思考パターンの類型や生成過程については興味があるけどね。まあ要するに、メタ志向なわけよ。あとは不可知論の立場に基本立ってるんで、ボクしらえも~んで終了かなwさて二つ目だが、その場合は論理的なはずの俺の問いが、倫理的なものとして受け取られかねない。



倫理的?どゆこと?



たとえばジョージ秋山の「アシュラ」がわかりやすいかな。別に俺は「人間も一皮むけばみな獣」みたいな話をしたいわけじゃない。「みな」獣になるのか俺は知らない。やる人もいるかもしれんし、やらん人もいるかもしれん。ただまあ今とは状況が違うからそう簡単には結論は出せない。それだけのことさ。



今一つ対立点がわからんのだけど。



当時は理解してなかったけど、「食べない」と言った彼らと「食べる」と言った俺の違いは、前者が「今現在食べるか」の話をそれと気づかずしているのに対し、俺は「今現在の状況では食べようとは思わないけれども、そういう前提が極限状況では奪われるわけだから食べるかもしれない、食べるのではないだろうか」と前提の変化を意識している点にあるわけ。まあもう少し説明するなら、前者は日常性・理性の持続というものを全く疑っていないわけ。だから何の屈託もなく「いや食べないっしょ」と言えるのね。まあ俺に言わせれば、子供の頃には全くおいしいと思わなかった食べ物を年取ってくるとおいしいと思ったりするわけで、状況が変われば人は変わるものでしょ。ゆえに彼らの物言いは根拠なし、終わりとwこれは例えば「統一的自己」の問題やら「調和と地雷」、さらには「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」なんかにつながったりするけど、ま、少し言葉をきつくすると日常性への埋没だわな。こんなふうに、俺の「食べる」発言は少なくとも当時の俺にとっては論理的な問題だったわけ。まあでも当時の俺は「自殺なんか絶対しない」とか考えてたから、五十歩百歩ですがねw



でもさあ、やっぱり「いや食べるっしょ」と言いきっちゃうのはどうかと思うけどね。



いやまあ戦略的に否定するのは別にありだと思うけどね。どうせ実際の状況でどう振る舞うかなんて、つまり「真理」なんて超越者でもねー俺らにはわかんねーんだし。あともう一つ言っておくと、日常性の埋没は「実感信仰」みたいないものと親和性が高いと思うんだけど、まあ俺が「共感」を否定的に扱うのはそういう経験というか認識に基づいているんだ。別の表現を使えば、「いい人」と「共感」を短絡させる思考様式は誤りである、ということね。長い間「君が望む永遠」に関するレビューがナイーブなものばかりで呆れると批判してきたけど、「私はプレイヤーたちの人格否定をしているわけでは全くない。むしろ実際に話してみると「いい人」かもしれないとさえ思う」と書いたのはそういうニュアンスを含んでいる。具体的には、「いい人」であっても、自分たちが何をやっているか知らず「共感」とかホザいたりしているナイーブな人たちだけどね~、という話。二次創作がただ多様性を許容する方向へ行くだろうか、と懐疑的な視点を持っているのもそれに基づいている。



「共感」の否定ねえ・・・要するにお前は「人間同士はわかりあえない」って言いたいの?



全然違うわ。「共感」に関して、俺は不可知論と言語ゲーム的な方面で考えているんだけど、それゆえに「真理」か否かではなく使えるか否か、つまり機能と戦略性が問題だと思ってるわけ。でも、「自然な共感」とかいう言い方がなされて、「共感」の重要性が強調されたりするわけでしょ。そこには、「不可能性への志向」だとか戦略的なものだという距離感がないように見えるのね。なんか「みんな相手の気持ちを思いやる能力持ってるんだからそれをちゃんと発揮しようよ」みたいなね。アホかと。



なんで?相手を理解しようと努力するんだからいいじゃんか。



そういう物言いは、実感信仰を正当化するからさ。表現規制とか「ジェンダーフリー」に関するバックラッシュとかの時に、必ずと言っていいほど持ち出されるのが「良識」とか「本能」であることを思いだしたほうがいい。あるいはもっと強烈なのが必要なら、この前に触れた「ヒトラー最期の12日間」を例に挙げてもいいし、あるいはロベスピエールサン=ジュストは悪意をもって「恐怖政治」を行ったんだろうか、といった話もできるだろう。ついでにつなげておけば、「ひぐらしのなく頃に」の大きな特徴の一つであると同時に、「うみねこのなく頃に」に俺が魅力を感じない理由だ。そしてまた「沙耶の唄」(リンク先はネタばれ)という作品を俺が高く評価する理由でもある。



歴史性や境界線の曖昧さの理解、か。あるいは「よりよくあろうとすることがかえって大きな悲劇を生む」という逆説ね。まあうみねこについては作品自体がそもそもそういう志向性を持っていないというか、むしろ「象牙の塔」として意図的にあの世界を描いている点に留意する必要はあると思うけどな。



まあね。話を戻すと、だから俺は「共感」は再帰的思考のできない人間には不可能なんだ、という物言いをするわけ。アダム=スミスの時代ならまあ多少はそれを信頼できるように思えたのかもしれんが、価値観の多様化した今日、自らの日常を疑わない人間には同情はできても「共感」はできないってこと。もっと言えば、「自然な共感」なんて表現は排除を正当化・促進するだけで逆効果なんだよ。なぜなら、「いい人」たちが「良心」やら「良識」に基づいてナイーブに考えたり行動したりすることを肯定する結果になってしまうからね。貧困、リバタリアン的自己責任論、「公正」の概念・基準などそう単純でないことばかりさ。まあ「共感」を理解への動機づけ・フックとして使いたいのかもしれんけど、やめた方がいいと思うね。あいつら働いてないからむかつく、頑張ってないからむかつく、身から出た錆でしょ、何でそれを助けなきゃいけないの?これもまた一つの実感でしょう。まあ実感を否定するのは全くのナンセンスだけど、それを安易に正当化する環境を作らない方がよい。なお、様々な理論があるのでそういうリクツには背を向けてとにかく感覚のみしか信じない、なんて立場は愚の骨頂ね。フーコーの言う「生ー権力」的な管理が広がりつつある今日、そういう感覚レベルなんていくらでも操作できるようになってんだからさ・・・って話はちょっと違うテイストで「人間というエミュレーター」でもした通りでごんす。



あーね。俺たちは実感の中に依拠しながら生きるしかないけど、「自然な共感」って物言いや考え方はそれを安易に一般化するためのお墨付きを与えるってわけか。で、島宇宙化や排除をますます促進しますよと。そしてそれは「いい人」たちによって善意をもって進められることが少なくないだけによりいっそうタチが悪い、とそういうわけね。ところで極限状況の話は、「食え、残すな」も関係していたりするの?



まさか。だってあれ飯を残すのはもったいないから俺に残り物全部寄越せってだけの話じゃんwそれに“Very well! By all means let them have it!”とも書いたけど、それなら極限状況云々とかいう倫理的な問題に繋げる前に、譲治崇山でも読んで構造的な視点を養えってとこよ。

 


なるほど。そうして中2がすぎ、中3で剣道が終わったあたりから狂気への傾倒が虜と実際に結び付いて前面化し始め、高校へ到ると。



いや実はまだもう一つ嘲笑の軸があるんや。それを次回詳しく見ていこうや。

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