フラグメント105:二次創作、同調圧力

2011-01-11 18:51:02 | フラグメント

 さて、およそ二カ月ぶりのフラグメントですよと。今回の断片は表題の通りの内容だが、同調圧力については「調和と地雷」、「『共感』の問題点」といった形でまとまっているため、ここでは詳しく説明しない。最後の「世代間ディスコミュニケーション」は、きたる「沙耶の唄」(ネタばれ注意)や「ひぐらし」に関する証言の中で詳しく扱う予定だが、あるいはもしかすると実に7年ぶりにプレイを再開した「家族計画」のレビューの中でも触れるかもしれない(なお、それらは作中人物ではなくプレイヤーの反応=受容分析を対象としている)。

 

二次創作の話題は、自分の快楽(原則)への引きこもりと不快なものへのノイズ耐性の低下をもたらしうるのではないか、という主張である。普通に考えると、二次創作がこれだけ一般的になれば多様性や文脈自由さは肯定されるしかないように思えるが、それはあくまで誤読の自由の前に誤読の不可避性があり、コミュニケーションの多様さの前にディスコミュニケーションの不可避性が存在することを理解していればのこと。なんて言うと、「とりあえずおもしろいモノは許容する」ような適当さを見逃してしまう部分はあるが、「君が望む永遠」のレビューでプレイヤーたちの思考的閉塞や独善性を目の当たりにして以来、本質的な部分で信用していない。具体的には、たいていの人が「戯れてるのは能力を駆使して意図的にやっているだけで、いざとなったら真剣に考えられるし、そしたらまたその考えを通じさせることができる」と(意識的か無意識かで差はあるにせよ)思ってるんじゃないかと俺は疑っているのだ。もしその見立てが正しいとしたら、全くのところ愚かしい勘違いだ。その根底となるはずのコミュニケーションの準拠枠が定めがたいことこそポストモダン社会であり価値観の多様化した世界であるというのに、随分とおめでたい認識である(だから延々と戯れていられるというのもあるだろう。また対象が限定されるのであまり使いたくないが、ここで「オタクの保守性」という言葉を想起することも可能だ)。

 

だから、ひとたび自分の快楽に反するものが表れるや、不快感を垂れ流すだけの輩が跳梁跋扈するようになるのではないか、という不安がぬぐえない。別の言い方をすれば、二次創作に慣れ親しんでいる人たちも、戯れているように見えながら実際はアノミーに対する耐性などなきに等しい上、ネタでやっているというエクスキュースが「気付き」の機会を完全に奪ってしまうという構造的閉塞が存在するため、そこにテコ入れする余地を残しておかないと、最終的にはそういう人たちも「共感」とか言いながら同調圧力の片棒を担ぐだけなんじゃね?と考えているわけである。

 

至極のビブリオ」で言った何でもイケる=オールレンジグリーンの話は、半分は完全なネタだけれども、半分はそういう問題意識に基づいている。統一的な自己、あるいは「真の自己」なるものを信仰するのでなければ、嗜好などやり方次第でいくらでも変えられるものにすぎない(なお、統一的な自己を基準にすると必然性が要求されるため、元々そういう素質があったとか何とかしち面倒な理屈付けが必要になってくる。その戯画性については、褐色などの「属性」分析という行為をネタとして扱う形で示した)。そしてまた人生楽しめるものは多いに越したことはないという考え方のもとに俺は生きているので、今日も「属性」の拡張に余念がないわけである。実際、今では二次元ならスカもほとんど問題がなくなったので、残る牙城(笑)はガチゲイと身体改造くらいになった。その他、20歳ぐらいではAVとかで精液を見ると(コンディション次第で)吐き気がしていたのが今では余裕になったりなど、チューニングは着々と進んでいるwそうやって快楽の幅が広がるにしくはなしと思うのだが、いかがだろうか。

 

要するに、同調圧力と二次創作の話は、真逆のようで実はノイズ耐性の低下→過剰反応という点で共通する部分がある、ということである。

 

<二次創作の可能性と閉塞>   快への引きこもり、ノイズ耐性の低下、単なる嗜好の問題を作品のダメさとしてラべリングする

二次創作(とその消費)という行為の魅力は、必ずしも作品に縛られることなく想像(創造)力を行使できることだが、一方でそれは閉塞の危険性を孕んでいる。というのは、もし原作しかなければそれと向き合って考えざるをえないが、二次創作があれば原作を不快と感じた時直ちにそちらへ乗り移るだけですんでしまうのだ。それ自体が悪ではないが、そういった行為が連鎖すれば結局は作品をフックにして各自の快楽原則に則った予定調和の中で耽溺するだけの状況に陥るだろう。その時二次創作は、むしろ安易な逃げ場として閉塞の温床となってしまうのである。

 

<作者の意図と二次創作の称揚>    そもそも書かれなかったことをあれこれ考えるのも二次創作的な行為

作者の意図を重視するかつての文章と最近の(同人系)ネタは矛盾すると思う人がいるかもしれないが、それは誤りである。なるほど作者は今や「神」でも「真理」でもないが、それは作家性が無価値になった意味しない。たとえば「誤読の自由」が謳われたりするが、誤読という表現自体、あるべき読みが念頭になければ成立しえない。またパロディなどの二次創作は一見原作から自由になる契機のようだが、その実原作に依拠して初めて成立するものでしかない(原作とのズレが笑いを生じさせる)。オートポイエーシスの側面を過小評価しない、ワンノブゼムではあっても無意味ではない。 

 

<無題>   ディシプリンが現状と乖離しているので、前者を守ろうとすると気が狂うしかない  

成熟社会化などによる価値観の多様化→違って当然なのだから、本来的にはコミュニケーション能力(説明能力&理解力)こそが必要→しかしみんなで仲良くすること(調和)こそが重要だと教え込まれる→きちんと言うことを聞いてみんなと仲良くしようとすれば、価値観の違いにぶち当たる=周囲は地雷だらけ→「空気」読みまくって動けなくなる=(外見上の)コミュニケーション不全→(ストレスも相まって)自己主張する人間を潰すor実態と乖離したコミュニケーション規範を見限り、結果としてコミュニケーションそのものから離脱する原因を作ってしまう

 

<無題>   世代間ディスコミュの話はひぐらしでもやる

みんな仲良く、みな同じ→しかし安全なネタ、いじりのつもりが価値観の多様化や共通前提の不在ゆえに思わぬ反発、被害を生む→「みんな同じ」「みんな仲良く」というディシプリンに抵触→当たり障りのないことしか言えない。あるいはそんなにめんどくさいなら、そもそもコミュニケーションをしたくない(このような判断の流れをかつての社会状況の基準で批判するのは、妥当性を欠くばかりか発言者のナイーブさ、分析能力の欠落を暴露することにしかならない…車内暴力を振るうのはオヤジ)→元々希薄なのではなく、規範に忠実たるがゆえに希薄にならざるをえないのだ。

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