歴史学の社会的意義

2006-03-05 23:48:31 | 歴史系
数日前、同期の人間と歴史学の意味について議論をしたことがあった。今回、その備忘録的な意味も含めて歴史学の社会的意義を提示してみたい。さて、その会話は以下のような相手の問いから始まった。

株価の動きについて、ランダムウォーク理論というのものがある。大雑把に言えば、「株価の動きに法則性など無い」という内容だ。歴史も同じように法則性の存在しない偶然のものであって、説明の引き合いに出される必然性などは、全て結果から見た後付けに過ぎないのではないか?それなら、歴史を研究する意味とはあるのか?


具体例などを抜いてだいぶ縮めているが、かいつまんで書くとだいたい上のような具合である。まあ極端な見方なので反論するのは簡単だが、問題提起としてはおもしろいと思う。以下、それについて私見を述べてみたい。


なるほどその懐疑的な見方は、例えばヘーゲル的な歴史の捉え方やマルクス主義的史観といった歴史に強い法則性や段階が存在をするという視点に対するカウンターパートとしては、それなりに意味があるものだろう。しかし、それを一般化していいものだろうか?相手はかつて東洋史の人間であったので、実態の解明という(歴史学の)学術的な意味合いは十分理解しての発言だと思われる。とすれば上の問いは、歴史学が社会的に意義があるのか?という性質のものであると考えられる。よって以下、歴史学の社会的意義を論じてみたい。

私たちは、「昔の日本人は~だった」「日本民族」「国民性」などといった言葉が、マスコミなどによって語られている例をいくらでも見出すことが出来る。また多くの歴史番組・歴史読物が世に出ていることから、一般の人がいかに歴史に興味を持っているかがわかる。このように、日常生活の中で私たちは毎日歴史に触れているのである(そこで扱われている大半のことが、私たちの生活に直接関係したり、即必要となるものでないことに注意を喚起したい)。ここで重要なのは、そういった状況の中で多くの(悪意に満ちた、あるいは無邪気な)誤った情報が存在するという事実である。細かい話をしだすとキリがないが、とりあえず(私たちの置かれた状況を決定づける)近代国家の枠組みや国民国家の思想などからして、すでに一種の「神話」であるということを指摘できるだろう。とすればその実態を把握しようとすることは、社会や政治に対しても大きな意味を持つと言える。また歴史にまつわる言説などが扇動に使われる場合もあるわけで、そのカウンターパートとして、歴史学による実証は大きな役割を担っているのである。歴史学の社会的意義は、このようなところに求められると私は考えている。
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2 コメント

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同感です (バイシ)
2006-03-06 00:53:20
「日本」が「日本」であるためには、いくつかのフィクションが必要です。それらはフィクションではありますが、いまの「日本人」が「日本人」であるためには一定の働きをしているものです。

ですが、それらフィクションが現在の人々のとりあえずの約束ごとであることを理解しないで、人類創成以来のものとか、「日本」が始まって以来変わることがなく続いてきたとかいうような非歴史学的な理解をしてしまったら、今後も絶対に改変が不可能だと思ってしまい、新たに出現する状況にうまく対応できないということもありえます。

また、時代による「日本」の違いを理解しないと、「日本人とは何々なものだ」というような本質論的思考停止に陥るかもしれません。

ここでは「日本」だけ取り上げましたが、他の国家や民族も同様だと思います。

(「日本」、「日本人」といちいち「」を付けたのは、これらも一種の虚構だからです。)

素朴な「日本人」だった私は大学に入って渡辺浩の「東アジアの王権と思想」を読んでひっくり返りました。
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同意見です (ボゲードン)
2006-03-08 23:46:58
返信遅れてすいません。



私もまったく同意見です。私たちは日本という国家に住み、日本人として生活しているのは事実ですし、また例えば、海外旅行の際のパスポートの効果(=国家の庇護)という状況などで「日本」「日本人」というカテゴリーがリアルに機能しています。このように、人工的に作られたものに過ぎないということは、それが全く無効であることを意味しません。だから私は、「自分は地球人だ」という人間が信用できません。その人間がただ国家という枠組みを嫌っているためにそう自分を位置づけているだけではないか、と疑うからです。



>また、時代による「日本」の違いを理解しないと、「日本人とは何々なものだ」というような本質論的思考停止に陥るかもしれません。



これもまったく同感です。特に日本人の無宗教という視点で本を読んでいると、まるで日本人は無宗教になるべくしてなったという、言い換えれば「国民性」かのような見方が多くて呆れることがあります。「武士道」とかもそうですね。



バイシさんの挙げてらっしゃる文献は未読なので、近いうちに読みたいと思います。
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