目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

ウォーキング塾地区活動(北部) 北部公園コース 約6.0km

2018-06-12 10:30:39 | ウォーキング

写真:地区ウォークの旗
5月29日から始まった「めぐろウォーキング塾」は5回の講演・実技、1回の合同ウォーク、3回の地区ウォークで構成されます。講演・実技で学んだことを五地区(北部、東部、中央、南部、西部)で週に一回行われるウォーキング活動に参加することにより実践しましょうという流れです。合同ウォークは「一度は塾生が一堂に会して歩く機会を設けましょう」という趣旨で行われています。
参加者も居住地域により五地区に分かれていますが、どの地区のウォーキング活動に参加をしてもよく、その気になれば十回でも地区ウォークに参加できるのですが、出席としてカウントされるのは三回までとなっています。めぐろウォーキング塾は9回出席すると皆勤となるのですが、7回以上出席した参加者に修了証が発行されます。

今回北部地区すこやか歩こう会の地区ウォークは二度目となりますが塾生8名の参加があり、総勢22名でのウォーキングとなりました。一回目の地区ウォークでは塾生7名参加と報告を受けており、4名の方が二度参加されているので実質11名の方が北部の地区ウォークに参加されたことになります。


写真:ノウゼンカズラ

写真:アメリカデイゴ

写真:舟入場橋
すこやか歩こう会の地区ウォークは歩くコースが毎回異なるため塾生に歩行計画を配布しています。ただし混乱を避けるため集合場所を中目黒GTに統一し、歩くコースにより解散する場所が異なるということになります。北部公園コースでは中目黒GTに集合した後、目黒川舟入場へ移動してウォーキング前のストレッチを行います。目黒川舟入場はかつて目黒川水運の終点でした。水運で木材を運び入れることができたため、中目黒駅付近には材木屋さんが多かったと聞いたことがあります。
舟入場橋は目黒川にかかる最新の橋で2018年3月から運用が始まっています。これまでは上流へ向かう際も少し下流の田楽橋を渡ってから上流へ向かっていたのですが、舟入場橋を利用すると直接上流に向かうショートカットが可能となります。ウォーキングなのでショートカットがいいのかどうかわかりませんが、すこやか歩こう会の活動としては初めて舟入場橋を渡って上流へ向かいました。


写真:菅刈公園

写真:スモークツリー
駒沢通りを歩道橋で渡り、宿山橋を過ぎて北野神社、キンケロシアターの前を通り、少しだけ西郷山を登って菅刈住区センター。目黒川舟入場に次いで二つ目の公園、菅刈公園に到着しました。菅刈という字名について目黒区のページから引用します。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。


菅刈公園で休憩後、目黒川が削った崖を上って西郷山公園へ。菅刈公園と西郷山公園、どちらも西郷従道の屋敷跡です。これについても目黒区のページを引用してみましょう。
西郷山の従道邸
青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれている。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道(じゅうどう)が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからである。

兄隆盛のために購入
このあたりは、江戸時代、「荒城の月」で知られる豊後(今の大分県)の岡(竹田)城主、中川修理大夫の抱かかえ屋敷であった。樹木がうっそうと茂り、池に三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれた。その後、2万坪に及ぶこの屋敷は、明治維新のとき征韓論を主張して破れ、下野した兄隆盛のために、従道が手に入れたのである。
西郷従道(1843年から1902年)は、明治2年に山県有朋らと欧州を視察後、わが国の兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力した。兄の下野にもかかわらず、英明な従道は新政府の要職につき、文部卿・陸軍卿・農商務卿・内務卿・海相などを歴任した。

行幸の碑
洋館・書院造りの和館などを配置した回遊式の庭園は、東京一の名庭園といわれ、名士が訪れることも多かった。特に、従道が海軍大臣であった明治22年には、明治天皇の行幸や、皇后・皇太后の行啓があった。天皇は、庭園での大相撲や薩摩踊りを、また皇后は、当時従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心に観覧したと伝えられる。
邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたという

耐震性を考えた西洋館
広々とした芝生や、大王松・ヒマラヤ杉・落羽松などが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面した西洋館の建築には、フランスの建築家レスカースと棟梁鈴木孝太郎が携わった。
建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木たるきを省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。

跡地は公共施設に
従道の死後は、二男従徳が昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用していた。その後、同邸の所有は箱根鉄道・国鉄と移ったが、空襲で和館が焼失したり名木が枯れるなど、往時の面影はほとんど失せてしまった。わずかに残された西洋館は、国鉄官舎や当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿などに利用されていたが、昭和38年、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定された。
現在は西郷山公園・菅刈公園として整備され、新たな憩いの場となっている。



写真:松見坂
旧山手通りを歩き、マレーシア大使館、神泉交差点を過ぎて淡島通りに入ります。淡島通りと山手通りの交差点が松見坂です。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 松見坂
「昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。
坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。
坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。
今、松見坂には、新遠江橋という橋がある。この橋は、空川にかかっていたものである。もっと以前には、この新道の下にわずかに残っている旧松見坂にあった。この橋は、伊達遠江守が創設したもので、明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。
田んぼに囲まれていた松見坂。現在は、住宅や中高層ビルに囲まれている。時代とともに自動車・バス・トラックなどが急速に増加し、その需要に応えるべく幾度となく道路開発工事が行われた。



写真:東大教養学部一号館

写真:教養学部のイチョウ並木

写真:東大野球部グランド
松見坂から駒場バラ園の前を通り炊事門から東京大学教養学部に入り、一二郎池を見て、都の文化財に指定されている一号館(旧制一高本館)を見て、グランドの脇を北門から、渋谷区との区界になっている行幸通りへ出ました。


写真:駒場公園旧前田侯爵邸洋館
駒場公園がこのコース四つ目の公園となります。旧前田侯爵邸で明治時代に建てられたものとばかり思っていましたが、昭和初期に建設されたことを最近知りました。これまで「本郷に帝国大学を設置するために、前田侯爵邸が駒場へ移転」と説明してきましたがどうやら間違いだらけだったようです。明治10年に設置された大学の名称は、『東京大学』。大正15年に土地交換により前田侯爵邸が駒場に移り、本郷の土地は東京帝国大学の敷地となりました。東京大学が帝国大学になった経緯はWikipediaから引用します。
帝国大学(ていこくだいがく、帝國大學)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関(大学)であり、新制大学における国立総合大学に相当する。
1877年(明治10年)創立の東京大学が1886年(明治19年)に同令に基づいて「帝国大学」に改称されたのち、1897年(明治30年)に「京都帝国大学」が創立されると、従前の「帝国大学(旧東京大学)」は「東京帝国大学」に改称された。これにより同令に基く大学が複数となったため、これ以降「帝国大学」は、同令によって設置された大学の総称となり、最終的に、内地に7校(七帝大:北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)、外地に2校(京城、台北)設置された。



写真:踏切の向こうは駒場野公園
駒場野公園が五つ目の公園です。目黒区で北部とされる菅刈住区の菅刈公園、西郷山公園。駒場住区の駒場公園、駒場野公園。スタート前のストレッチで訪れた目黒川舟入場は東部に分類される中目黒住区になります。北部でさらに公園をあげるとすると拡張された東山公園が加わるでしょうか。東山住区になります。こうしてあげてみると烏森住区には公園がありませんねぇ。宿山など古くからの集落があり、公園になるようなまとまった土地がなかったからでしょうか。


写真:筑波大学駒場中高生徒による田植え
駒場野公園は東京教育大学農学部跡地に整備された公園で、ドイツ式近代農業の研究をしていた証左としてケルネル田圃が残され、現在でも東京教育大学の流れをくむ筑波大学付属校の生徒による田植えが行われます。知っているようであまり知らない、オスカル・ケルネルについて、Wikipediaから引用します。
オスカル・ケルネル
オスカル・ケルネル(Oskar Kellner、1851年5月13日 - 1911年9月22日)は、ドイツの農芸化学者。明治政府のお雇い外国人として帝国大学農科大学で教鞭を執り、日本の土壌学・肥料学の発展に寄与した。

略歴
プロイセンのシレジアで生まれる。プレスラウ大学、ライプチヒ大学で化学を学び、1874年には「エンドウ発芽に伴う化学的変化過程について」で博士号を得た。プロスカウ農業アカデミー動物化学研究所で飼料への砒素添加や羊毛除去がヒツジの代謝生理に及ぼす影響などについての研究に従事し、1875年にはホーヘンハイム農業アカデミー農芸化学研究所の化学者のポストを得て主として動物栄養、飼料の栄養価に関する研究に従事、2年間に11の単著・共著論文を発表し、ドイツ科学協会の年会での講演を行うなど精力的に活躍した。
1881年(明治14年)11月5日 明治政府の招きで駒場農学校の農芸化学の主任として来日した。それまで外国人教師はイギリスから招いていたが、農芸化学、植物化学、動物化学、発酵化学等の分野ではドイツが多数の研究成果を発表してヨーロッパの「化学的研究の中心」として発展していたため、ドイツの日本公使館に勤務していた内務省勧農局長の品川弥二郎の主導により、招聘教官をイギリスからドイツに変更し、ケルネルもその一人だった。
駒場農学校は東京農林学校、東京帝国大学農科大学へと変遷し、ケルネルもそれに合わせて1892年まで11年に亘って教鞭をとった。植物栄養、土壌、肥料、養畜、酪農、農産製造等広く農学全般に亘って講義を行なったが、本来は家畜飼養が専門であったため、当初その方面に力を入れるつもりでいたが、当時の日本ではまだ畜産が主要な産業となっていないことから、主として米麦作とその肥料に関する研究に重点を置いた。
1887年10月10日には河瀬留子と結婚し、1889年1月2日に娘Toniが生まれたこともあり日本永住を決意していたが、1892年(明治25年)春にドイツのメッケルン農事試験場の4代目場長グスタフ・キューンが死去したため、その後任の場長としてケルネルが推挙され、同年12月31日ドイツに帰国した。メッケルン農事試験場は1851年に創設されたドイツの中で最も歴史のある農事試験場で、イギリスのロサムステット農事試験場に次いで資金が多く、機械も完備されておりケルネルの関心が深かった家畜営養試験の設備が充実していた。
1893年1月1日に横浜港を出発し、2月15日メッケルン農事試験場長に就任し、家畜栄養および飼料に関する研究活動で多くの業績を残した。1895年8月6日には息子Maxも生まれたが、1911年9月22日、ドイツ農事試験場第31回総会に出席する途中にカールスルーエ駅で心臓麻痺のため急死した。

ケルネル田圃
ケルネルが研究の際に試験田として使用していたことから命名された「ケルネル田圃(たんぼ)」という田圃が、目黒区駒場野公園に存在する。現在、近隣に所在する筑波大学附属駒場中・高等学校の生徒の水田稲作実習に使われており、同校の入学式および卒業式では、ケルネル田圃で収穫された米で炊かれた赤飯が新入生、卒業生に配布される。
地元駒場で毎年行われている創作かかし大会『かかしコンクール[主催東京都農業協同組合中央会]』の冠は『ケルネルたんぼ』となっており、ケルネルの業績を讃えている。


この日のゴールは駒場野公園。ストレッチをして解散となりました。有志の呑兵衛会員が少なかったので、女性を含めて三宿の夢吟坊でうどんを食べて帰途につきました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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第15回加賀百万石ツーデーウォーク(三日目)

2018-06-07 14:03:26 | ウォーキング
加賀百万石ツーデーウォークなので三日目はないのですが、我々は日曜日も宿泊し月曜日に観光をしてからの帰京となります。厳密にいえばツーデーウォークに三日目はないのですが、ゼロ日目があります。前日の金曜日は「せっかくウォーク」と題して、「七尾湾展望・温泉と海の幸のみち」という半日バスツアーがあるのです。工程は10km程度。ツーデーウォークの一日目最長が30kmで二日目最長が24kmです。三日間で64km歩くつわものもいるのでしょうか?二日間で54kmでもウォーキングのレベルを超えているように思いますが。


写真:ホテルの部屋から
ロイヤルホテル富山砺波をゆっくりチェックアウトして新湊へ向かいます。内川を巡る新湊観光船についてとやま観光ナビのページから引用します。
海王丸パークから出港する観光船「万葉丸」で巡る斜張橋「新湊大橋」をはじめ日本のベニスといわれる内川とそれにかかる個性豊かな12の橋巡る川面風情を満喫することができます。内川は「日本のベニス」と呼ばれるほど風情(産業・文化・くらし)があり、そこに住む人々の憩いの水辺であると同時に生活空間でもあります。そこにかかる橋はそれぞれ特徴があり、城をイメージした二の丸橋、赤い切妻屋根の東橋、郷土出身の竹田光幸氏制作の彫刻がある山王橋、ステンドグラスが鮮やかな神楽橋など、季節のうつろいと共に楽しむことができます。
「日本のベニス」にはもろ手を挙げて賛同はできませんが、「風情(産業・文化・くらし)」という点で納得できます。奈良時代に大友家持が越中の国主として在任したことや、江戸時代に北前船の寄港地として栄えたこと。歴史と文化を伝える点でベニスと何ら変わりはなく、こちらは単に観光客が少ないだけです。「人生の約束」という映画の舞台となり、私が知ったのはNHKワールドのJourneys in Japan「内川」の放送によるものです。


写真:川の駅新湊
旅の栞を作った際に、こちらに向かうように書いていたので来てみました。新湊観光船の寄港地となっていますが、観光船を利用するには海王丸パークが良いと教えてくれて、親切に出航時間まで確認してくれました。内川とは富山新港と庄川を結ぶ二級河川ですが、運河といったほうがイメージに合いそうです。


写真:海王丸パークから観光船へ乗船

写真:帆船海王丸


写真:新湊大橋
初めて海王丸を見るためここを訪れた時には、周りは何もなく海王丸が係留されているだけでした。海王丸パークについてWikipediaから引用します。
海王丸が現在展示されている富山県射水市海王町の公園で、「みなとオアシス海王丸パーク」としてみなとオアシスに登録されている。海王丸がこの地に保存されているのは、海王丸で多くの「海の男」が育った旧富山商船高等専門学校(現在の富山高等専門学校射水キャンパス)が近くにあるからである。
伏木富山港の新湊地区(富山新港)内に建設され、1989年(平成元年)9月に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、1992年(平成4年)7月5日にオープンした。設置は富山県が行い、管理運営は伏木富山港・海王丸財団が行っている。当初は大阪市と交互に展示することになっていたが、「海の貴婦人」は管理運営の金銭的負担が大きいために、大阪市が誘致を断念し、そのまま新湊地区に保存されることになった。冬季を除き、月1くらいで10回ほどボランティアによる総帆展帆(「そうはんてんぱん」帆を全て展げるイベント)並びに登檣礼が行われ、多くの観光客が集まる。また冬季には普段非公開のエンジンルームや船の見学会が日時限定で開催される。
またさまざまなイベントが開かれ、1992年にはソプラノ金川睦美などによって「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」が演奏されている。
公園内並びに近隣は海王丸の展示を中心に、広場・飲食店・売店・研修施設などで構成されている。近くにはバードパーク、「きっときと市場」などがあり、2012年(平成24年)9月に開通した新湊大橋と立山連峰を背景にしたパノラマは人気になっている。海王丸や新湊大橋がライトアップされることもあり、恋人の聖地に認定されている。2014年(平成26年)には世界で最も美しい湾クラブの世界で最も美しい湾に富山湾が選ばれて、11月に記念モニュメントが建てられた。また2006年7月15日には、海王丸II世が寄港し両船が初めて揃っている。
2015年(平成27年)10月25日に、第35回全国豊かな海づくり大会が富山県で行われ、同パークで天皇・皇后両陛下ご臨席にて海上歓迎・稚魚放流行事、また、海王丸の総帆展帆並びに登檣礼が行われた。
2015年(平成27年)より、タモリが名誉会長を務めるヨットレース「タモリカップ」が同パークと富山新港対岸にある富山県新湊マリーナを会場に、毎年7月中旬に行われている。


新湊大橋が掛けられてから初めてここを訪れました。新湊大橋についてWikipediaから引用します。
新湊大橋(しんみなとおおはし)は、富山県射水市の富山新港に架かる日本海側最大の2層構造の斜張橋。2002年(平成14年)11月に延長3600mの臨港道路富山新港東西線の一部として着工、上層の車道部分が2012年(平成24年)9月23日に開通。下層の自転車歩行者道は2013年(平成25年)6月16日に開通した。夜間は午後10時頃までライトアップされる。 橋の事業主体は北陸地方整備局伏木富山港湾事務所である。

概要
橋は5径間連続複合斜張橋で、2車線の車道階と桁下の自転車歩行者道階の2階建て構造からなる。総事業費約494億円は、国が3分の2、富山県が3分の1を負担する。
主橋梁部の長さは600m、ケーブルは72本で、張り方はファン型、主径間は360m、側径間は120m、A型の主塔の高さは127m、桁下空間(海面からの高さ)は47m。なお東西のアプローチ道路は、東側が1,650m、西側はループになっており1,350mである。
上層の車道は自動車、原動機付自転車専用道で幅9.5m(片車線3.5m、路肩1.25m)の2車線、設計(制限)速度は時速50kmである。また車道には下水処理水を利用した融雪装置が設置されている。下層には長さ480m、幅約3m、ガラスで覆われた全天候型の愛称「あいの風プロムナード」と名づけられた自転車歩行者道が桁下に吊り下げる形で設けられ、エレベーターにてアプローチでき、両エレベーターホール入り口前には、バスも駐車可能な駐車場を完備している。橋からは晴れた日には日本海や立山連峰、能登半島が一望できる。また隣接する海王丸パークに恒久係留されている帆船、初代海王丸を上部より望むことができる。なお、強風(風速25m以上)などの悪天候時には通行止めの処置がとられる。
この橋が完成したことにより、それまで東岸から西岸まで車で約12分掛かっていたが、約6分で結ばれることになった。
2013年(平成25年)6月14日には財団法人土木学会より2012年(平成24年)度の土木学会田中賞(作品部門)を受賞した。富山県内の橋梁では初めての受賞である。

沿革
大橋が架かる地区は、天平の時代越中国国主大伴家持が、万葉集で奈呉(なご)の海や奈呉の浦とと詠んだ放生津(ほうじょうづ)潟といわれる周囲約6kmの潟湖で、旧新湊市東岸の堀岡地区と西岸の越の潟地区から延びる砂州には道路と、富山市と高岡市を結ぶ富山地方鉄道射水線が通っており港口にそれぞれ架かる橋で繋がっていた。しかし富山県は県の商工業発展のため当地に新たに大きな港を計画、1961年(昭和36年)9月に起工し、潟を掘削、港口を大きく広げ、それにより道路、鉄道も分断したかたちで1968年(昭和43年)4月に富山新港として開港した。
これにより両岸の地区のアクセスならびに地域住民の交流が大きく阻害され、車の場合富山新港の南側を大きく迂回するように走る国道415号線などの利用、また歩行者や自転車利用者は、富山新港で運行されている富山県営渡船(越の潟フェリー)を利用するなど不便を強いてきた。そのため両岸の地域住民と旧新湊市は、「富山新港港口連絡橋建設促進期成同盟会」を1982年(昭和57年)に設立し、国や県に両岸を結ぶ連絡橋建設の重要性を粘り強く訴えてきたがなかなか進展しなかった。
なお港口分断後射水線は、西岸の越の潟地区と高岡市を結ぶ加越能鉄道万葉線(現 万葉線)と、東岸の堀岡地区と富山市を結ぶ射水線としてそれぞれ運行されてきたが、射水線は客離れが激しく1980年(昭和55年)3月に廃止されてしまった。
1990年(平成2年)には越の潟地区に帆船、初代海王丸を誘致し一般公開。1992年(平成4年)には海王丸パークを整備した事が一端を担い、1995年(平成7年)に地質調査を開始、1997年(平成9年)には設計調査費を計上し建設の準備が事実上始まり、それまで「夢の大橋」と揶揄されていた橋が2002年(平成14年)11月に着工し、アクセス向上、商業ならびに文化交流の活性化が期待され、地域住民の悲願が結実することとなった。また、海王丸、海王丸パークとともに新たな観光スポットとして期待されることとなった。
開通前日となる2012年9月22日の開通記念イベントでは開通後は歩行できない車道が一般開放され、地元射水市の全小学校の5、6年生約1500人が橋の上で手を繋いで万歳をし上空から空撮したり、地元や県内外から訪れた多くの人が橋を歩いて渡った。海上では漁船やヨット、クルーザーのパレードが、両岸の海王丸パークや海竜マリンパークでは獅子舞や放生津(新湊)と海老江の曳山の特別曳航、物産展、音楽やダンスフェスタ、打上花火など、さまざまなイベントが行なわれ大変賑わった。
2012年12月3日より新湊大橋の夜間ライトアップを開始した。毎日日没30分後から午後10時頃まで140基のLEDライトで主塔や橋脚などを照らし出す。この日は隣接する海王丸パークにて富山県知事、射水市長、地元の小学6年生などが参加し点灯式典が行なわれた。
2015年11月1日に初めて開催された、富山マラソンのフルマラソンコース(日本陸上競技連盟公認)となり、数多くのランナー達が駆け抜けた。



写真:六筋の飛行機雲
見たこともないような飛行機雲ですが観光船の船長は「自衛隊でしょう」とおっしゃっていました。


写真:新港大橋

写真:万葉線鉄橋
富山新港から内川への入り口にかかるのが新港大橋。万葉線が鉄橋を渡って行ったのは撮りのがしました。これまでの説明から「万葉線」の名の由来はわかるのですが、Wikipediaから引用します。
万葉線は、正式には高岡駅停留場から六渡寺駅までが軌道法による軌道である高岡軌道線、六渡寺駅から越ノ潟駅までが鉄道事業法による鉄道である新湊港線の2路線に分かれているが、一体の直通路線「万葉線」として運行されている。
かつて越中国守として高岡の伏木に赴任した大伴家持が、『万葉集』の編集をはじめ、数多くの歌を残したことにちなんで、加越能鉄道(現在の加越能バス)が経営していた時代の1980年(昭和55年)に「万葉線」という愛称が付けられた。
加越能鉄道が、利用客の著しい減少と経営環境の悪化を理由に廃止とバス代替の意向を示したため、存続を願う高岡市と旧新湊市が中心となって2001年(平成13年)に第三セクター会社の「万葉線株式会社」を設立した。2002年(平成14年)2月に、加越能鉄道から事業譲渡され、同年4月1日から新会社にて正式に運行が開始された。路面電車を運営するための第三セクター会社は日本初であった。
2004年(平成16年)1月21日より、新形の超低床車両「MLRV1000形」を導入している。
また、観光客を主とした乗客誘致のため、土・日・祝日は沿線(新湊)出身の落語家である立川志の輔の声で車内アナウンスと沿線案内を行っており、ユニークなアナウンスを聞くことが出来る。

高岡からこの路面電車に乗ってみたいものです。


写真:二の丸橋

写真:東橋

写真:山王橋

写真:川の駅新湊
様々なデザインの橋があり歩いてみても面白そうです。川の駅新湊では先ほど親切に案内をしてくれた女性が見送ってくれました。


写真:浴衣のレンタル

写真:中新橋

写真:カフェ番屋

写真:新西橋
こんな雰囲気が大好きな外国人観光客がいそうですね。金沢旅行で余裕があれば、提案してみるのも面白いかもしれません。石川県、富山県には太平洋側にはない裏日本独特の魅力があるように思います。


写真:新湊大橋


写真:海王丸

写真:海上保安庁巡視船「やひこ」
帰路は内川を出て富山湾を航行して戻ってきました。運河から出ると「外海!?」と思いましたがそこは天然のいけす富山湾、穏やかで波もなしです。


写真:新湊観光船
観光船は海王丸のすぐ近くから出航します。50分の行程ですがなかなかいいですよ。


写真:新湊きっときと市場で白エビ唐揚げ
空港は「きときと」でこちらの市場は「きっときと」。違いがあるのかと調べてみても確かなことはわかりません。「きときと=新鮮」を強調したのが「きっときと」ではないかという書き込みを見つけましたが、そんなもんかな。
きっときと市場では魚を選ぶと200円の手数料でお刺身にしてくれます。天ぷら、焼き魚などもOK!昼食は回転寿司を予定していたのですが、昨日まで白エビは食べても白エビのから揚げを食べていません。白エビを唐揚げにしてもらいました。こんなつまみがあったらビールがいくらでも行けそうですが、まだ車の運転があるのでここはがまん。

この後富山市内へ移動し「廻る富山湾 すし玉」で昼食。昨年もお邪魔したが相変わらずおいしいです。その後スーパーに寄りコブジメなどを探したのですが、もう少し地元色のあるスーパーを事前に調べておいたほうが良かったかもしれません。

富山・金沢を満喫した三日間でした。また来年も来ることができるでしょうか。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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第15回加賀百万石ツーデーウォーク(二日目)

2018-06-06 13:36:34 | ウォーキング



写真:加賀百万石ツーデーウォーク出発式
この日のスタート・ゴール会場はJR金沢駅兼六園口もてなしドーム地下1階イベント広場です。石川県ウォーキング協会大路会長などのご挨拶があり、来賓として目黒区青木区長、区議会議長も紹介されました。我々は男川(犀川)コース8kmにエントリーしてスタートです。


写真:市村孫太郎酒店

写真:大野庄用水
スタートして長町方面へ南下です。前年の女川(浅野川)コースでは気づかなかったのですが、用水が多く見られました。


写真:足軽資料館付近
下級武士の家は瓦葺ではなく、石が乗せてあるようです。


写真:混元丹の中屋彦十郎薬舗

写真:前田土佐守家資料館
長町武家屋敷跡のあたりは用水も広い!以前武家屋敷跡を歩いた時とは違ったアプローチで楽しめました。


写真:犀川

写真:西茶屋街

写真:寺町寺院群の台地の上から

写真:犀川
寺町寺院群までは「金沢は坂のない街だな」と思っていたのですが、犀川の作った平地だったようです。犀川の南西には台地が残り、台地の縁からはパノラマが広がりこれまでにない景色を楽しむことができました。


写真:美術の小径



写真:兼六園
鈴木大拙館から美術の小径を通り、急な階段を上ってゆきました。脇に滝が流れその水音を聞きながら歩く階段は苦になりません。兼六園は多くの人が訪れていました。百万石まつりですから、金沢を訪れる人が最も多い日なのでしょう。


写真:金沢城公園

写真:金澤町屋料亭壽屋

写真:居酒屋風和利
金沢城公園へは石川門から入り、休憩もせずに大手門から出ました。百万石まつりの大音量のパフォーマンスがちょっと興ざめです。尾張町もいい雰囲気が残り、金沢が散策にうってつけの街だと改めて印象付けられました。


写真:金沢駅鼓門
この日はけっこう気温が上がり、日陰を選んで金沢駅へ戻ってきました。加賀百万石ツーデーウォークでよい場所を選んでコースを設定してくれているのでとても楽しめました。今度はウォーキングイベントではなく人が少ない時にゆっくり歩いてみたいと思います。なかなか実現できないんですけどね。



写真:庄川峡長崎温泉北原荘

写真:庄川
百万石ウォーク終了後は車で中心街を離れ、8番らーめんで昼食にしました。昨日夕食をとった長八も8番らーめんの経営とのことでしたが、ラーメンもおいしかったです。そしてかけ流しの温泉を求めて北原荘へ。
アルカリ性の温泉なのでお湯がやわらかく、肌がつるつるとする女性にうれしい美肌の湯です。
温泉泉質 アルカリ性単純温泉
     大浴場  源泉かけ流し ろ過循環併用
     露天風呂 源泉かけ流し ろ過循環併用
利用条件 24時間利用可能(9:00 - 10:00は清掃)

宿のページを見ると「ろ過循環併用」でしたが、塩素のにおいなど全くなくとてもいいお湯でした。ウグイスに加えて何故か蛙の声も聞こえてきました。


写真:ロイヤルホテル富山砺波
ホテルへ向かう途中「散居村展望台」に寄ってゆこうと思ったのですが、カーナビで施設名を検索しても出てきません。地図で見るとルートの途中が通行止めになっているようなので、あきらめてホテルへ直行しました。部屋から見えた景色がちょっと散居村のような感じでした。散居村の風景を見られるようにとやま観光ナビをリンクしておきます。










写真:ロイヤルホテルのお料理とお酒
お料理とお酒、本当においしかったです。ホテルスタッフの方々にもとてもよくしていただき、ありがとうございました。お酒は満寿泉(ますいずみ)、富山市の桝田酒造店のページから、こだわりを長めに引用します。
東岩瀬
かつて北前船(地元ではバイ船と呼ぶ)の交易で栄えた廻船問屋の町屋や料亭のたたずまいに往時の繁栄が漂います。桝田酒造店は、この界隈のなかほどに蔵を構えています。

旭川で創業
初代兵三郎は、当時岩瀬の五大家と言われていた廻船問屋から妻を迎えた長男亀次郎らと共に北前船に乗り、開拓の地 北海道旭川にて酒造業を興した。 旭川酒造史に「都松」の商標で最初に登場するのは明治26年のことである。年間1,500石と明治年間としてはとても大きな規模にまで成長するが、亀次郎の妻フデが明治36年の寒波の後、「もう岩瀬に帰りましょう。」と言い出し、明治38年現在地に戻った。
岩瀬では「岩泉」という銘柄で始めたが、港の芸者衆にも飲んでもらう為、昭和の始め頃今で言う別ブランド展開で苗字の桝田にちなんだ「満寿泉」というまことにめでたい名をつけ販売した。それが成功し、現在は「満寿泉」が主力ブランドになった。

吟醸満寿泉
四代目当主桝田敬次郎は、醗酵工学を専攻し大学院に進むが、父の急逝により、二十二歳で蔵を継いだ。
昭和四十年代半ば、吟醸酒という個性を放つ酒がまだ一般市場で認められていない時代、生き残りを賭け吟醸酒造りの道を敢えてハイリスクを承知で選択したが、どんどんのめり込んでいった。
当時まだ若手の杜氏 三盃幸一は蔵元の良き右腕として、その手腕を大いに発揮した。
数年後には早くも成果を出し、昭和47年から鑑評会の金賞受賞の常連組になった。

「私は酒を造るのは酵母や麹であり、人はそれらがうまく働いてくれる環境を創るだけだと思う。」「何から何まで手造りというのはムード造りという感があって、品質を考えると全て手造りを良しとはできないんですね。」と合理的なことを言うが、麹室の改修をした時、杜氏が蔵人と能登から杉材を持ち込み、自分で納得のいくよう昔のままに組み立てた。 断熱に使うムシロとモミガラがなかなか手に入らなくて、仕込み直前に何とか間に合った。随所に思いがこもる。
満寿泉の酒造りは毎年10月中旬の大安日に始まる。田圃の刈入れが終り冬支度をして、奥能登から杜氏以下賄の料理人も含め蔵入りする。春の田植え時期まで日曜日は勿論正月も普段と同じ仕事が続く。以前は半年の間、休暇は一日もなかったが、今では蔵人は月に一度2泊3日の帰郷が出来るようになった。しかし三盃総杜氏は18歳でこの道に入って以来、一度も正月を郷里で過ごした事がない。父も親類も杜氏というエリート杜氏の家系、父の後を受け満寿泉の杜氏になった。
兵三郎、亀次郎、敬一郎、敬次郎、隆一郎、敬太郎と桝田家6世代をよく知る。
「酒の味は時代と共に変化するもので、その時代の感性に合った酒がある。 当然技術の進歩も日々あるわけで、もっともっと美味い酒を求めたい。」成功経験が多い人はなかなか過去を捨てられないものだが、今でもきっぱり言う。

美味求眞
美味しいものを食べている人しか美味しい酒は造れない。
私共は美味求眞はもう一つのモットーと考えます。富山という地は海の幸、山の幸にふんだんに恵まれ、当然舌が肥えます。
日本酒も新鮮な素材を活かす事が求められます。
立山連峰からの膨大な雪解水が富山湾に注ぎ込み、富山ならではの甘海老やシロエビ、寒ブリ、バイ貝、ホタルイカ、ズワイガニが育ちます。あじ、さより、きすなどの小魚の種類の多いこと。深い雪の下から芽吹く山の精気を蓄えた山菜の数々はまさに精神的な薬膳です。
自然の味が濃く凝縮した素材には、流行りの淡麗辛口は役不足。綺麗であるが味のしっかりした旨い満寿泉はこうして磨かれています。



二日目は百万石ウォークに参加し文化交流の一端を担った後、温泉と美味しい富山の海の幸、それを引き立たせる美味しい富山の日本酒を大いに堪能しました。こんな幸せなことは他にない!


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第15回加賀百万石ツーデーウォーク(一日目)

2018-06-05 14:30:54 | ウォーキング
目黒区と金沢市は、文化交流都市となっています。目黒区駒場にある旧前田侯爵邸が国指定の重要文化財になったことがその背景にあるのですが、侯爵邸がある駒場公園について目黒区のページから引用します。
駒場公園は、加賀百万石(今の石川県)の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡です。
前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和のはじめのこと。明治11年設立以来、近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)が本郷に移転した跡地を、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京農業教育専門学校(東京教育大学農学部、現在の筑波移転跡地)とともに分割使用したものです。
建物は、昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもので、化粧レンガやタイル張りのほどこされた洋館は昭和4年、書院づくりの和館は昭和5年に完成し、自然の巨木を生かし、名石をあしらった幽すいな奥庭や、芝生の広場が設けられました。
和館は侯爵がロンドン駐在武官であったことから、外人客接待用に建てたとも言われています。

華々しい社交の場となったこの優雅な豪邸も、第二次大戦中の前田侯爵の不慮の死ののち私人の手に渡り、終戦とともに占領軍に接収されました。
昭和32年10月に接収が解除されるまでの12年間は、連合軍司令官の官邸などとして使われました。
現在の公園は、昭和42年に東京都が公園として開園したもので、昭和50年4月から目黒区に移管されました。
なお、和館は現在1階部分が一般に開放されていて、玄関からニの間、一の間(表座敷)と続く広間や、重厚な床の間、違い棚、付書院、欄間の透し彫などを備えた美しいつくりを、昔のままに見ることができます。
また、水屋、寄付、待合所を備えた茶室や和室も有料施設として利用いただけます。縁側からは、流れのある池、芝や池の配置がみごとに調和した庭園がのぞめ、落ち着いた雰囲気を味わうことができるでしょう。
そして、洋館は別記の時間帯に開館しており、和館北側には日本近代文学館が設置されて、近代文学に関する資料が閲覧できます。


石川県ウォーキング協会と目黒ウォーキング協会の交流が始まり、我々は百万石ウォークに参加、石川県ウォーキング協会の方々はめぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークにご参加いただいています。

週末には、先日から始まっているめぐろウォーキング塾のウォーキング実習がありすこやか歩こう会のメンバーはその両方に対応すべく総動員です。百万石ウォークにはすこやか歩こう会から7名が参加しました。区内で行われたウォーキング実習にも7名の塾生が参加されたと報告を受けています。


写真:羽田空港

写真:北アルプス越え
昨年までANAは小松空港、富山空港、能登空港を一体運用し能登空港に到着し、富山空港から帰るといった割引切符が購入できたのですが、今年はそれが出来なくなり富山空港往復となりました。百万石ツーデーウォークなのですが、土曜日の朝の便では一日目のウォーキングスタートには間に合わないので、我々はこの日を観光に充てました。



写真:瑞龍寺山門(国宝)
国宝の瑞龍寺山門は残念ながら改修中で、その壮大な姿は見ることができませんでした。瑞龍寺についてWikipediaから引用します。
瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号は高岡山。本尊は釈迦如来。開基は前田利常、開山は広山恕陽。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、平成9年(1997年)に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、平成28年(2016年)現在も富山県唯一の国宝である。

歴史
加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳で家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある)。建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。
江戸時代には総門と山門の間の僧堂(禅堂)側に七間浄頭(東司〔トイレ〕)、大庫裏(おおくり)側には浴室があり、七堂伽藍が揃っていたが、明治時代に入り加賀藩の庇護を受けられなくなり困窮し、部材を売るため解体され現在に至っている。
昭和60年(1985年)から大規模な修理(昭和・平成の大修理)を総工費約23億円を掛けて行ない、約10年かけて完了し、その後、平成9年(1997年)12月3日に国宝に指定されている。
平成12年(2000年)より春に3日間、夏と冬は2日間、寺院のライトアップと夜間拝観を行っており、冬は、平成23年(2011年)から毎年2月に「夜の祈りと大福市」として行われている。




写真:山門仁王像


写真:仏殿(国宝)

写真:禅堂(重要文化財)

写真:法堂(国宝)の廊下



写真:石廟(県指定文化財)
富山県指定文化財
瑞龍寺石廟
 前田利長公は、本能寺の変の後に織田信長公父子の分骨を迎え、その霊を慰めたと伝えられる。利長公の菩提寺である瑞龍寺を造営した時、開山 広山恕陽(こうざんじょよう)禅師が利長公父子も加えて同じ形式の五基の廟を建造したのがこの石廟の由来である。
 廟の石材は、淡緑色の凝灰岩(越前笏谷石:しゃくたにいし)を用い、壇上積みの基礎の上に建つ切妻型石廟建築である。
 廟内の宝篋(ほうきょう)印塔は、越前式の月輪装飾を施したもので、越前の国を源流とし、加越能三州に広く分布している。
 石廟は向かって右側から、前田利長公(高岡開祖)、前田利家公(加賀藩祖・利長公の父)、織田信長公(利長公の夫人:玉泉院の父)、織田信長公側室、織田信忠公(信長公の嫡男)の五人もので、中でも利長公のものは壁面に二十五菩薩を刻んだ代表的な優品である。
 これら五基の石廟は地方政治史上、又石造建築史上の貴重な資料であるところから、昭和四十五年三月二日富山県指定文化財史跡に指定された。



写真:法堂

写真:仏殿

写真:禅堂の木魚

写真:烏蒭沙魔明王(トイレの神様)

写真:鬼瓦
失礼な話、瑞龍寺がこんなに立派なお寺であることを知っていてここを訪れたわけではなく、昼食をとろうと思っていたきときと寿司氷見本店への時間調整のため訪れました。地方都市でましてや県庁所在地でもない高岡だからこそ残すことのできた文化財なのかもしれません。日本の地方にはまだ訪れたことがないいい場所がたくさんあるのでしょう。次回より訪問先に国宝があれば、積極的に訪れてみようと思います。


写真:氷見温泉郷うみあかり
氷見に温泉があることは今回調べるまで知らなかったのですが、和倉温泉に似た塩化物泉でした。宿泊者向けは景色の良い露天風呂があるようですが、日帰り用のお風呂からの景色はいまいちでした。



写真:千里浜なぎさドライブウェイ
昨年は西風で閉鎖されていましたが、今年はここを走ることができました。土曜日ということもあり、車がひっきりなしに走っていました。


写真:ハマナス

写真:トベラ

写真:シャリンバイ
道の駅高松で休憩です。


写真:ダイワロイネットホテル金沢

写真:鼓門

写真:刺身盛り合わせ

写真:バッテラ

写真:白エビ

写真:バイガイ
金沢駅前のホテルへチェックインして、長八金沢駅前店で夕食としました。新鮮な日本海のお魚と、加賀のおいしい日本酒で幸せなお食事タイムでした。


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