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目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

箱根仙石原・小田原旅行

2025-05-14 12:53:01 | 神奈川県箱根町、小田原市
春の旅行は目黒区の契約保養施設ホテル花月園に宿泊するコースにしました。箱根攻略のカギは渋滞や混雑のストレスなく移動すること。そのための交通機関の予約は考えていたほど争奪戦はなく、手配はスムーズにすみました。次回あるとすればさらにスムーズにできるよういろいろ学びました。


海賊船クイーン芦ノ湖
新宿発9時のロマンスカーの予約のため発売開始日の10時に特急券を取りにゆきスムーズに入手できました。小田急のアプリEMOTで特急券を5%割引で買えるのでそちらの利用がおすすめです。箱根フリーパスはキャンセルがあることを見越して当日購入がいいでしょう。今回は高速バス利用者がいてそのチケットはバスタ新宿で購入できるので、新宿に行ったついでに買っておくのがよいでしょう。
本隊は9時のロマンスカーで小田原へ。小田原からは必ず座れる芦ノ湖ライナーで元箱根港へ。芦ノ湖ライナーもEMOTで事前予約。元箱根港で30分待ちの予定が10時55分の海賊船に間に合い、桃源台駅で食事の時間を取ることができました。


立ちはだかる水たまり

スミレ

湖尻水門
小田原駅では何とか雨はやんでいましたが箱根新道を上ってくると雲に入り、元箱根港では雨模様。海賊船では風景も何もなく一面霧で桃源台駅でも雨模様でしたが、ランチを終えて歩き出すころには一応雨はやんで一安心。今回は仙石原湖尻自然探勝道を仙石原から。ところどころ水たまり越えに苦労したものの雨が降り始めるまでは気持ちの良いウォーキング。


道標

水たまり

杉木立の散策路

箱根カントリー倶楽部


水たまり

耕牧舎跡の碑
耕牧舎については渋沢栄一記念財団のサイトから引用します。
 1879(明治12)年、渋沢栄一は益田孝らと耕牧舎を設立、その翌年2月に箱根の仙石原で牧場開拓が始まりました。運営を任されたのは栄一の従弟、須永伝蔵(すなが・でんぞう、1842-1904)です。須永は栄一の命を受けて仙石原に移住、耕牧舎の管理・運営にあたりました。
 当初の目的は牧羊でしたが、羊の育成には不向きな土地であったため、牛馬育成へと軌道を修正、牛乳・バター販売がその営業の中心となりました。耕牧舎の牛乳は箱根だけでなく東京にも販路を広げ、番付表「東京牛乳名家一覧」に「大関」として耕牧舎の名が記されたこともありました(稲村特寿著『波瀾に満ちた須永伝蔵の生涯』(箱根史談研究会, 1977)p.71)。
 それでも仙石原での牧場経営は必ずしも順調ではなく、1904(明治37)年に須永が他界したことを機に、耕牧舎は牧畜中止を決定します。後に栄一は益田らと仙石原地所株式会社を設立、仙石原での土地利用は牧場から別荘地開発へと方向を転換しました。
 厳しい自然条件の中、耕牧舎で酪農経営を支えた須永伝蔵の顕彰碑が仙石原に建立されるにあたり、渋沢栄一は昭和6年7月(1931年)、その題額を揮毫しています。



道標

ルート案内図

展望案内図
耕牧舎跡の碑まではサイクリングコース。ここから少し山道に入ります。晴れていれば大涌谷の噴煙が見えるのですがこの日は残念。


ふたたびサイクリングコースへ戻る

名もなき池

フジ
サイクリングコースから自然探勝路は早川沿いを歩き仙石原浄水センターに出てきます。そのまま仙石高原バス停に出る予定だったのですが、トイレが我慢できなくなり箱根湿性花園へ。コンビニでビールと氷を仕入れてバスで桃源台駅へ戻りコインロッカーに預けた荷物を取り出しふたたびバスに乗ってホテル花月園へ。池尻大橋から高速バスで来たグループと合流してチェックイン。




ホテル花月園
二日目にして富士山を見ることができました。記念写真を撮って本隊は箱根ロープウェイ、別動隊はホテル前からバスで箱根湯本、一人はホテル前からバスタ新宿行きの高速バスで帰りました。


箱根ロープウェイ

芦ノ湖海賊船




大涌谷
南温泉荘からバスで桃源台へ。ロープウェイに乗って富士山が見えなかったのですがしばらくすると思わぬ方向に富士山。昨日霧で何も見えなかった海賊船も芦ノ湖に見えます。大涌谷でロープウェイを乗り換え早雲山。



箱根登山ケーブルカー

箱根登山電車
ケーブルカー、反対方向は立っている人がいるほどの混雑ですが強羅方面は余裕で、登山電車も同じ感じ。箱根湯本で乗り換えて小田原へ。




浄永寺
小田原で当日参加のメンバーを加え西口でストレッチをして出発。コースは「ウォーキングタウンおだわら散策マップ!中央版」の「歴史と文化の香るまち散策コース」。


大久保神社
大久保神社
 大久保忠世(初代)と大久保忠真(10代)を祀る神社。
 大久保家は、下野(今の栃木県)宇都宮に勢力をもった藤原道兼の流れに宇都宮朝綱の子孫で泰藤のとき、建武の役に新田義貞に従い転戦したが、義貞が越前で討死したので、三河の上和田に土着した。その後、姓を宇都宮から宇津に改め5代目昌忠(室町期)の頃から徳川の祖、松平信光に属した。昌忠の曾孫忠員の時、姓を宇津から大久保に改めた。
 忠世はこの忠員の子で遠州二俣城主であったが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻略で徳川家康に従い参戦し、戦後4万5千石で小田原城主となった。
 大久保家は2代忠隣のとき改易となり、その後大名に復活し5代忠朝のとき小田原藩主に返り咲いたのは、70年不在の後であった。石高は、11万3千石に達した。忠真は、大坂城代、京都所司代、老中を歴任し、二宮尊徳を始め多くの人材を登用し、忠臣孝子を顕彰するなどし大久保家中興の名君と知られている。以降も代々小田原城主として栄え、15代忠良の明治の大政奉還まで小田原藩主として続いていた。


大久保神社へ至るルートが地図を見てもよくわからなくて苦労しました。坂が多く体力の無駄遣いになるので次回は省略かな。





城山公園
海と小田原城が見えます。景色の良い山の上で土塁も残っているのでかつてここに城があったのかと調べるとそうでもないようです。地図にはトイレのしるしがあるが廃止されたようで、観光地の公衆トイレの維持が大変だということがわかります。小田原駅との標高差が70メートル近くあり一気に登ってくるので結構きついのですが、この後の総構えの痕跡を見るためにここは外せません。公衆トイレを整備してもらえないかなぁ!






小峯御鐘ノ台大堀切東堀
現在、小峯御鐘ノ台大堀切東堀と呼んでいる堀は、本来は三の丸新堀の一部であり、もともとは小田原城の外郭の一部でもありました。その後天正15年(1587)から、総構堀とともに小峯御鐘ノ台大堀切中堀・西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る一連の堀切としての役割を担うようになりました。
 現況土塁上から測った堀幅は25~30m、深さはおよそ 8~10mですが、発掘調査で確認された堀底までを含めると深さは12~15mであったことがわかっています。堀法面の角度は50~60度で、堀底に堀障子を有する障子堀であったことも確認されています。
 現在、堀は延長280mの長さで堀底が散策路となっており、途中2箇所の「横矢掛り」を確認でき、堀や土塁の規模が体感できます。


ここは必見です!


伝肇寺




居神神社

板橋口

御組長屋

大久寺
板橋口にようやく公衆トイレがあったものの、規模が小さく時間がかかります。現代の小田原攻略のカギは総構えではなくトイレです。



早川口遺構
 早川口は、「二重外張」と呼ばれる、土塁と堀を二重にして防御を固めた場所で、小田原北条氏時代には小田原城総構の虎口(お城の入り口)であったと考えられています。
 江戸時代には東海道に沿った上方口(板橋口)に虎口が移ったため、この場所には戦国時代の遺構が良好に残りました。
 明治時代遺構に別荘地などとして使われため、地形が改変されている部分がありますが、現在、低地部で見ることのできる数少ない戦国時代小田原城の土塁のひとつです。
 発掘調査により、土塁の断面を確認したところ、人頭大から一抱えもある玉石を2m以上にわって積み上げて築かれていることがわかりました。



小田原用水

東海道沿いの趣のある薬屋

小田原城
小田原城を見るほどの時間の余裕はなく小田原駅東口に引き返してきました。初日雨に降られたり、帰りのロマンスカーが人身事故で運休になったりトラブルもありましたが、箱根小田原はいい観光地だと改めて実感した旅行となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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