目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第15回加賀百万石ツーデーウォーク(一日目)

2018-06-05 14:30:54 | ウォーキング
目黒区と金沢市は、文化交流都市となっています。目黒区駒場にある旧前田侯爵邸が国指定の重要文化財になったことがその背景にあるのですが、侯爵邸がある駒場公園について目黒区のページから引用します。
駒場公園は、加賀百万石(今の石川県)の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡です。
前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和のはじめのこと。明治11年設立以来、近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)が本郷に移転した跡地を、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京農業教育専門学校(東京教育大学農学部、現在の筑波移転跡地)とともに分割使用したものです。
建物は、昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもので、化粧レンガやタイル張りのほどこされた洋館は昭和4年、書院づくりの和館は昭和5年に完成し、自然の巨木を生かし、名石をあしらった幽すいな奥庭や、芝生の広場が設けられました。
和館は侯爵がロンドン駐在武官であったことから、外人客接待用に建てたとも言われています。

華々しい社交の場となったこの優雅な豪邸も、第二次大戦中の前田侯爵の不慮の死ののち私人の手に渡り、終戦とともに占領軍に接収されました。
昭和32年10月に接収が解除されるまでの12年間は、連合軍司令官の官邸などとして使われました。
現在の公園は、昭和42年に東京都が公園として開園したもので、昭和50年4月から目黒区に移管されました。
なお、和館は現在1階部分が一般に開放されていて、玄関からニの間、一の間(表座敷)と続く広間や、重厚な床の間、違い棚、付書院、欄間の透し彫などを備えた美しいつくりを、昔のままに見ることができます。
また、水屋、寄付、待合所を備えた茶室や和室も有料施設として利用いただけます。縁側からは、流れのある池、芝や池の配置がみごとに調和した庭園がのぞめ、落ち着いた雰囲気を味わうことができるでしょう。
そして、洋館は別記の時間帯に開館しており、和館北側には日本近代文学館が設置されて、近代文学に関する資料が閲覧できます。


石川県ウォーキング協会と目黒ウォーキング協会の交流が始まり、我々は百万石ウォークに参加、石川県ウォーキング協会の方々はめぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークにご参加いただいています。

週末には、先日から始まっているめぐろウォーキング塾のウォーキング実習がありすこやか歩こう会のメンバーはその両方に対応すべく総動員です。百万石ウォークにはすこやか歩こう会から7名が参加しました。区内で行われたウォーキング実習にも7名の塾生が参加されたと報告を受けています。


写真:羽田空港

写真:北アルプス越え
昨年までANAは小松空港、富山空港、能登空港を一体運用し能登空港に到着し、富山空港から帰るといった割引切符が購入できたのですが、今年はそれが出来なくなり富山空港往復となりました。百万石ツーデーウォークなのですが、土曜日の朝の便では一日目のウォーキングスタートには間に合わないので、我々はこの日を観光に充てました。



写真:瑞龍寺山門(国宝)
国宝の瑞龍寺山門は残念ながら改修中で、その壮大な姿は見ることができませんでした。瑞龍寺についてWikipediaから引用します。
瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号は高岡山。本尊は釈迦如来。開基は前田利常、開山は広山恕陽。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、平成9年(1997年)に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、平成28年(2016年)現在も富山県唯一の国宝である。

歴史
加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳で家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある)。建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。
江戸時代には総門と山門の間の僧堂(禅堂)側に七間浄頭(東司〔トイレ〕)、大庫裏(おおくり)側には浴室があり、七堂伽藍が揃っていたが、明治時代に入り加賀藩の庇護を受けられなくなり困窮し、部材を売るため解体され現在に至っている。
昭和60年(1985年)から大規模な修理(昭和・平成の大修理)を総工費約23億円を掛けて行ない、約10年かけて完了し、その後、平成9年(1997年)12月3日に国宝に指定されている。
平成12年(2000年)より春に3日間、夏と冬は2日間、寺院のライトアップと夜間拝観を行っており、冬は、平成23年(2011年)から毎年2月に「夜の祈りと大福市」として行われている。




写真:山門仁王像


写真:仏殿(国宝)

写真:禅堂(重要文化財)

写真:法堂(国宝)の廊下



写真:石廟(県指定文化財)
富山県指定文化財
瑞龍寺石廟
 前田利長公は、本能寺の変の後に織田信長公父子の分骨を迎え、その霊を慰めたと伝えられる。利長公の菩提寺である瑞龍寺を造営した時、開山 広山恕陽(こうざんじょよう)禅師が利長公父子も加えて同じ形式の五基の廟を建造したのがこの石廟の由来である。
 廟の石材は、淡緑色の凝灰岩(越前笏谷石:しゃくたにいし)を用い、壇上積みの基礎の上に建つ切妻型石廟建築である。
 廟内の宝篋(ほうきょう)印塔は、越前式の月輪装飾を施したもので、越前の国を源流とし、加越能三州に広く分布している。
 石廟は向かって右側から、前田利長公(高岡開祖)、前田利家公(加賀藩祖・利長公の父)、織田信長公(利長公の夫人:玉泉院の父)、織田信長公側室、織田信忠公(信長公の嫡男)の五人もので、中でも利長公のものは壁面に二十五菩薩を刻んだ代表的な優品である。
 これら五基の石廟は地方政治史上、又石造建築史上の貴重な資料であるところから、昭和四十五年三月二日富山県指定文化財史跡に指定された。



写真:法堂

写真:仏殿

写真:禅堂の木魚

写真:烏蒭沙魔明王(トイレの神様)

写真:鬼瓦
失礼な話、瑞龍寺がこんなに立派なお寺であることを知っていてここを訪れたわけではなく、昼食をとろうと思っていたきときと寿司氷見本店への時間調整のため訪れました。地方都市でましてや県庁所在地でもない高岡だからこそ残すことのできた文化財なのかもしれません。日本の地方にはまだ訪れたことがないいい場所がたくさんあるのでしょう。次回より訪問先に国宝があれば、積極的に訪れてみようと思います。


写真:氷見温泉郷うみあかり
氷見に温泉があることは今回調べるまで知らなかったのですが、和倉温泉に似た塩化物泉でした。宿泊者向けは景色の良い露天風呂があるようですが、日帰り用のお風呂からの景色はいまいちでした。



写真:千里浜なぎさドライブウェイ
昨年は西風で閉鎖されていましたが、今年はここを走ることができました。土曜日ということもあり、車がひっきりなしに走っていました。


写真:ハマナス

写真:トベラ

写真:シャリンバイ
道の駅高松で休憩です。


写真:ダイワロイネットホテル金沢

写真:鼓門

写真:刺身盛り合わせ

写真:バッテラ

写真:白エビ

写真:バイガイ
金沢駅前のホテルへチェックインして、長八金沢駅前店で夕食としました。新鮮な日本海のお魚と、加賀のおいしい日本酒で幸せなお食事タイムでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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