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目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

等々力渓谷自由が丘コース 約3.1km

2025-08-03 12:12:22 | 東京都目黒区、世田谷区
数日前まで台風9号の雨予報だったのが、雨の心配がなくなり代わりに暑さの心配をしなければならないという日でした。。ウォーキングスタート10時の暑さ指数実績が30.6、11時は30.2でした。指数予報が31.0以上だと熱中症警戒情報が「危険」となり活動を中止しているのでぎりぎり活動ができるレベル。暑い中10人以上が集まってのウォーキングとなりました。


自由が丘駅前
スタートは自由が丘。現在駅前のビルが建て替え工事中です。


九品仏川緑道

緑道のユリ
自由が丘駅付近にはストレッチができる公園などがないのでいきなり緑道を歩き始めます。白いユリ、咲き始めといった感じ。


九品仏浄真寺東門

緑豊かで気温が少し下がった感じ

山門の仁王像

「おめんかぶり」で有名
山門の脇をお借りしストレッチ。備えていったのですが蚊に刺されました。山門を入り右側に世田谷区の花であるサギ草が見られる場所があります。今年はまだ早いのか数輪咲いているだけでした。


御本堂

上品堂(改修中)

下品堂
上品堂、中品堂、下品堂それぞれに三体ずつの阿弥陀如来座像が鎮座して合計九体。これが九品仏の由来です。現在九品佛大修繕事業が行われており九体すべてお揃いではありませんが、修繕が終わってピカピカの仏様とお会いすることができます。


大平ブドウ園
九品仏の後ねこじゃらし公園を通り西へ進むとブドウ園がありました。


玉川神社

椎の木根張り
目黒通りを横断すると玉川神社。こちらでストレッチをして等々力駅まで歩いてこの日のウォーキングは終了です。以前は等々力渓谷を歩き等々力八幡まで行っていたのですが、等々力渓谷が倒木で閉鎖されているので、駅で解散となりました。
12時の暑さ指数は33.4、13時は33.5、その時間帯にはすでに渋谷へ移動しライオンでおいしいビールをいただいていました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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すこやか推奨駒場コース 約5.4km

2025-04-24 12:24:06 | 東京都目黒区、世田谷区
暑くもなく寒くもなくといってもこの日は少し気温が高く、ザックを背負った背中はびっしょりという会員も。


駒場の公園のヤエザクラ
ソメイヨシノ花吹雪が去ると新緑が街を彩り始め、春本番というより初夏を思わせる気温の中ヤエザクラがきれいなピンクを躍らせています。


騎兵山から三軒茶屋方面

騎兵山の斜面工事
駒場東大前駅で集合し、駒場野公園へ移動。ストレッチ後スタートして南へ。淡島通りを東へ向かい、大橋通りに入り南へ。第三機動隊を過ぎて東邦大橋病院の手前騎兵山の縁を西へ向かいます。


馬神碑
騎兵山の南西の縁にこの碑があります。山といっても山ではなく台地を北沢川や目黒川が削った崖の上です。騎兵山は日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が所属した騎兵第一連隊があった場所(のちに習志野へ移転)と聞いていますが、それを裏付ける確かな資料は見当たりません。同じ一角に秋山好古が揮毫した石碑が残されており騎兵第一連隊がここにあったものと信じています。馬神碑は日清・日露戦争や日ごろの訓練でで犠牲なった馬を鎮魂するため昭和五年に建てられたものです。
駒場の地は江戸時代徳川家の鷹狩り場として管理され、江戸末期に幕府はここを練兵場にしようとしましたが一揆に拒まれ、明治政府はある程度の保証を払い駒場農学校や陸軍の施設としました。



騎兵山の崖のハナミズキ

目黒川緑道のキハナショウブとクルメツツジ

シャクナゲ

ジャーマンアイリス?

花畑
騎兵山を下ると目黒川緑道を東へ向かいます。暗渠の上に水を流して川をイメージさせ、きれいに手入れされた花々が通行人を楽しませています。



目黒富士

上目黒氷川神社
目黒川緑道は玉川通りまで、大橋という地名の通り江戸時代目黒川の川幅が広く大きな橋が架かっていたのでしょう。玉川通りを北東へ進み大橋交番のわきにある目黒富士登山道を登ると上目黒氷川神社。目黒富士は代官山にある元富士の流れを受けています。江戸時代代官山のキングホームズが建っている場所には丸旦という名の富士講が富士山から持ち帰った溶岩などを積み上げた築山を造り江戸からの物見客でにぎわっていました。近くに択捉探検で有名になった旗本近藤重蔵が別の築山を築き観光地となったことから代官山の築山を元富士、別所の築山を新富士と呼ぶようになりました。明治時代になり丸旦組の元富士は明治政府のものとなり岩倉具視の別荘が建てられました。築山は壊されて氷川神社へ運ばれ、末社の浅間神社に祀られたことから氷川神社の崖に目黒富士登山道が設けられることになりました。現在氷川神社から富士山を拝むことはできませんが、かつては富士山が見え遥拝所となっていたそうです。



駒場バラ園のモッコウバラ
氷川神社で少し休憩した後北へ向かい淡島通りを東へ。松見坂から駒場一丁目の住宅街に入ってゆくと井の頭線の線路にあたりそこが駒場バラ園。さすがバラ園、モッコウバラも見事です。




東京大学構内
さらに北へ向かい炊事門から東京大学駒場キャンパスに入り構内を歩きます。


駒場公園前田邸和館

前田邸洋館
駒場キャンパスの野球場とラグビー場の間を歩いて北門から通称行幸通りへ出て西へ向かうと駒場公園。ここは昭和初期の加賀前田家の邸宅跡です。江戸時代加賀前田家の江戸上屋敷は本郷にありました。東京大学の赤門です。帝国大学拡張に伴い前田家は駒場の地に等価交換で移ってきて現在国の重要文化財に指定されている和館と洋館を建てました。


駒場野公園正門

ケルネル田圃
駒場公園が前田家から寄贈された公園なのに対し、駒場野公園は東京教育大学の敷地跡が公園になったもので、お雇い外国人ケルネルが研究に使った田んぼが残されています。手前の木で見にくいですが田んぼはまだ田植えが行われていません。五月になると東京教育大学の流れをくむ筑波大学駒場の生徒たちによりもち米の田植えが行われます。

駒場野公園でストレッチをして解散、久しぶりに渋谷のライオンでおいしいビールを飲みながらの反省会となりました。


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呑川コース 約7.4km

2025-03-24 11:52:31 | 東京都目黒区、世田谷区
開花宣言が待たれる中この時期恒例呑川緑道を歩きます。1964年の東京オリンピックで駒沢競技場はサブ会場となったため水洗トイレ用下水道の整備が急務となり、呑川が暗渠化されソメイヨシノが植えられました。60年が経過しソメイヨシノの老木が目立つようになりました。


ソメイヨシノ胴咲き
集合場所は都立大学駅近くの呑川本流緑道。よく見ると枝先にも何輪か咲いているようです。


ナノハナ

ソメイヨシノ

呑川本流緑道一部工事中
ソメイヨシノ枝にほとんど花はありませんが暖かい日が続くので一週間後には満開でしょう。目黒区内の呑川本流緑道は土の部分が多く石や張り出した木の根でデコボコしています。土は膝への負担が少なくデコボコの道は足の裏の刺激になったり、注意して歩くことにより転倒しにくい足腰が鍛えられるものと思っています。工事後はアスファルトで覆われていました。メンテナンスが容易になるのか埃対策か?


ソメイヨシノ胴咲き

カワヅザクラ

カンヒザクラ

ホトケノザ

ユキヤナギ

エドヒガン?

ハナニラ
目黒消防署八雲出張所を過ぎると世田谷区に入り、目黒区内では緑道の真ん中に植えられているソメイヨシノが緑道の両脇になり緑道の幅が広がり歩きやすくなります。住所としては目黒区八雲から世田谷区深沢へ。駒八通り、深沢学園通り、駒沢公園通りを横断して深沢五丁目の三島公園でトイレ休憩。


呑川親水公園
駒沢通りを横断すると親水公園として整備され水の流れる様子が見えます。


駒沢公園 ストリートスポーツ広場

円形花壇
西山橋で呑川と別れ東へ向かいます。駒沢公園通りを横断し、駒沢5丁目23番地口から駒沢公園に入り公園内を散策。休日なので人出が多い。ぶた公園で再度トイレ休憩。


柿の木坂支流緑道のハクモクレン
東京医療センター側に公園を出て自由通りとの交差点で駒沢通りを横断。目黒十中まえの通りを東へ、柿の木坂通りを横断して呑川柿の木坂支流緑道を南へ向かいます。目黒通りまで来るとゴールは間もなく、都立大学駅近くの呑川本流緑道でストレッチをして解散となりました。
その後我々のクラブハウスといっていい天狗学芸大学店で反省会。お相撲の千秋楽を見ながら盛り上がりました。


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烏山川緑道コース 約6.0km

2025-03-02 12:55:14 | 東京都目黒区、世田谷区
歩いてから少し時間が経ってしまいましたが、2月15日のウォーキングの様子です。


目黒川緑道
目黒区内を流れる目黒川は大部分が開渠なのですが、玉川通りから上流側の世田谷区堺までの短い区間だけ緑道になっています。


ロウバイ
今年はロウバイの咲き始めも遅くて短かったように思うのですが、まだ所々で見ることができます。


スイセン

カワヅザクラ

コサギ

三宿通りのもつ焼き屋さん
日当たりの良い場所ではカワヅザクラが咲き始めています。



烏山川緑道
烏山川緑道のご案内

 烏山川緑道は、昭和40年代まで烏山用水と呼ばれる清流でしたが、戦後、市街化が進んで川の水が汚れ、豪雨があると溢水被害が生じるようになりました。また下水道幹線に利用するため埋め立てて、上部を緑道に整備しました。
 その後、舗装が傷むなど老朽化し、ゴミを捨てる人が出る状況になったため、まちづくり協議会の要望を基に沿道の人たちとの話し合いを重ねて、太子堂2、3丁目の区間を地元の小学生の描いた絵と太子堂中学のプールの溢れた水を再利用した「せせらぎと絵陶板のある緑道」として再整備し、平成2年3月に完成させました。
 現在の烏山川緑道は、船橋7丁目から北沢川との合流する池尻4丁目まで全長約6. 9Km が整備され、町会・自治会、市民グループの管理協力を得たみなさまの遊歩道として利用されているほか、震災時には避難路として防災の役割を担っています。

  世田谷区みどりとみず政策担当部
  公園緑地課世田谷公園管理事務所



幸せの黄色い世田谷線


クリニックの看板が大きく目立っていてコックさんの看板と合わないと思ってよく見るとそこはカフェでした。


猫のかつはし

烏山川緑道
 昭和40~50年代、世田谷区の大半の中小河川は表面を埋めたてられ、下水道幹線として利用されるようになりました。緑道はその上部の有効利用と災害時の避難路の確保を主な目的として整備され、今日に至っています。
 烏山川緑道は昭和49年3月に開園し、現在、全長約7.0kmに及び、世田谷区船橋7丁目から三宿1丁目まで続いています。
 区役所周辺地区(青葉橋~若林橋:環7 通り)では、鳥山川緑道が防災緑地網の幹線として位置づけられています。災害時には避難路となったり、またいざというときには消防車も通行できるように整備をしています。



石の柵
説明板の「いざというときには消防車も通行できるように」の部分を「へぇ!」と思いながら読んだので、この柵があったら消防車通れないじゃんと思ったのです。よくよく見るとこの柵は取り外せるようになっていました。


ハクバイ



世田谷城跡
吉良氏と世田谷城

 世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
 貞治5年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
 応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
 その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
 その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。

城郭構造

 世田谷城は目黒川の支流、鳥山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
 城郭の構造としては中央に位置する郭(A)は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。
 世田谷城址公園には、土塁と堀の一部が残されています。
 世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭 (A)を中心として複雑に展開する8ヵ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A)~(G)周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。



豪徳寺

宮の坂駅

世田谷八幡宮の土俵
青葉橋で烏山川緑道と別れ、世田谷城址公園でトイレ休憩を取り、城山通りを北西に向かい世田谷八幡宮に至ります。八幡様境内を北に抜け今度は世田谷線沿いに北へ向かいます。


羽根木公園

コウバイとハクバイ

ハクバイとロウバイ

コウバイ
小田急線豪徳寺駅は世田谷線山下駅と乗換駅になっており、山下駅近くに北沢川緑道があります。緑道を今度は下流へ向かい子育てステーション梅丘付近の場所があるところでストレッチをして解散となりました。
羽根木公園へ向かい六分咲きの梅を見ながら公園を通り過ぎさらに北へ。その先に井の頭線東松原駅があるので井の頭線に乗って渋谷マークシティのライオンで反省会のおいしいビールを楽しみました。


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下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2025-01-29 12:23:26 | 東京都目黒区、世田谷区
気温は前日より上がったものの北風が強く体感温度の低い中でのウォーキングになりました。風のないところではおひさまの温かみも感じることができました。このコースは隣接する世田谷区にちょっと遠征してご近所を見て回る試みです。


五本木児童遊園
祐天寺駅に集合して、近くの公園をお借りしてストレッチをして出発します。


聴力障害者情報文化センター

謡坂
謡坂を下り、蛇崩方面へ。


シダ

サザンカかな?

芦毛塚
芦毛塚は下馬の地名の元となる故事の残る場所です。かつてこのあたりは湿地で頼朝が乗っていた芦毛が足を取られて死んでしまったので、この付近は馬から降りて通行するよう頼朝が命令し「馬引沢」呼ばれるようになったのです。馬から降りた場所が下馬で乗った場所が上馬という説を私は信じていません。馬引沢村が大きかったので蛇崩川に沿って上流から上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢と呼ばれていたものが上馬、下馬と短縮された説を支持します。中馬引沢は街道の分岐にあった三軒の茶屋から三軒茶屋と呼ばれるようになりました。


ユズ

ヒメリンゴ

ハクモクレン

キンカン

足毛橋

蛇崩川緑道案内図
三宿通りの橋の名前は足毛橋で芦毛から変化したものと思われます。




駒繋神社
頼朝が参拝した際に馬をつないだ松の木があったということが駒繋神社の名の由来です。


スイセン

ちょっと大きめ、夏みかんかな

西澄寺武家屋敷門


西澄寺
武家屋敷門は蜂須賀家の江戸藩邸から移築し、東京都の有形文化財に指定されています。


青空に煙突

三軒茶屋商店街
ブラックラムズ東京はリコーのラグビーチームです。


三軒茶屋大山道の道標

キャロットタワー

世田谷線

目青不動教学院
目黒不動と並ぶ江戸五色不動の一つ。来月もう一色訪れる予定です。





太子堂八幡神社
太子堂八幡神社略記
  御祭神  誉田別命
  大 祭  十月第二日曜日
  社殿改築 昭和十二年八月十日
  御由緒及此地の沿革
 当社の鎮座年歴不祥なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦1592~6年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥の阿部氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮のご分霊を勧請し村の守護神として祀ったことは明らかである。
 太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行き着く目的地の名を取って付けたようである。
 この鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴を張った、太子堂上本村一二一~二番地のあたりを(五丁目)土器塚と云い酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
 真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
 以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。



太子堂弁天


圓泉寺

藤の絡まる灯篭


太子堂

太子像

木のウロの祠
縁起にあったように、太子堂の地名の由来となった太子堂。




三宿の森緑地
三宿の森を育てる会のサイトから引用します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。

1.屋敷の成立――敷根氏の時代
 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。

2.屋敷の完成――中村氏の時代
 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。

3.法務省施設の時代――昭和50年まで
 終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
 樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。

4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動
 昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。
 隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
 このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。
5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
 法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
 片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
 平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
 南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志でサンシュの若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。



三宿神社
こちらの境内をお借りしてストレッチをして解散としました。三宿の地名の由来を世田谷区のサイトから引用します。
三宿村は東を池尻、南を下馬引沢、西を太子堂、北を代田村に囲まれ舌状形をしていて、北側は東西が約600メートル、南側は約200メートルで、南北の長さは900メートルほどのこぢんまりとした村でした。村は字が北宿、本宿、南宿の三つに分かれますが、村の人はこれを上(北宿)、中(本宿)、下(南宿)と呼んでいました。この三宿の名はこの三つの宿名からつけられたものだという説があります。もう一つの説、村の北部を流れる烏山用水によって水利に恵まれていたので、水の宿る所から水宿となり、それが三宿になったという説が有力です。


アートギャラリーのようです

サトイモ?


騎兵第一連隊址
このコースを始めて歩く人向けに階段を上ってきてみました。秋山好古が揮毫した石碑があります。


ボケ
目黒川の緑道を大橋まで歩き、本格的に解散です。


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